駄文集


『じゅうにっき』

「人生とは夢のようなものだ」

 

 俺は夢を見ていたらしい。それも最悪な夢だ。自分の死を見るという不快極まりない、そんな他愛のない夢。

 夢というものは人によってそれぞれであり、実際に科学的に夢を見るという現象の解明はまだ出来ていない。
 精神的な欲求だとか、記憶の整理だとか、未来を予知しているだとか、そんなくだらない仮説ばかりが立てられる。
「くだらねぇ」
 俺は夢が好きだ。
 どっかの馬鹿みたいに夢の中の自分が本当の自分で、夢から覚めた現実が夢の中の自分が見ている夢だなんてアホみたいなことは言わない。
 ただ、夢の中は現実とは違う世界を提供してくれる。
 それは、なるほど、夢から覚めてしまえば荒唐無稽なものであるが、夢を見ている時だけは意味を成している。実際に夢の中で目の前にあるやらなければならないこと、起こっている出来事は、その時だけは破天荒であっても荒唐無稽だとは思わない。
 それは、現実世界の中でも同じではないだろうか。
 例えばとあるいざこざに巻き込まれて、現状をどうにかするためだけに奔走している時。自分は何をやっているんだろう、とか、よくよく考えるとこんな話おかしいな、なんて思いはしない。
 そんな時は皆が皆自分がやらなければならないことで一杯一杯だ。
 全てが終わってからそれを振り返って、その荒唐無稽さに気付く。
 夢と現実は何ら変わりないものなのだ。
 だから、俺は夢を夢だとは思わない。夢もまた現実だ。
 と言うことは、俺は死んだんだ。
「そうか」
 ここまで考えて、妙に納得できた。
 今この瞬間を持って俺にとっての現実は『死後の世界』となった。
 勿論、人によっては何度も自分の死を見たことがあるという奴もいるだろうけど、夢で死んで、また違う夢で死んだならそれは『死後の死後の世界』だ。簡単な話だ。
 しかし、俺は死ぬ夢というものを今回始めて見た。
 具体的な内容は思考の覚醒に反比例して失われていったが、死という事実だけは俺の思考にしつこくこびり付いたままだ。
「しかし、死んだからといっても、俺は続くんだな」
 一見当たり前のようだが、その実意外とそうでもない。
 宗教にもよるが、基本的に死後の世界というものはあるとされている。
 天国地獄然り、輪廻転生然り、極楽浄土然り。
「最後のはちょっと違うか」
 とりあえず、死後の世界はありますと宗教は触れ込み、現世での己の役割にモチベーションを上げようとする。勿論、己の役割が認識できない者は同じく宗教によって他人に尽くせば良いのですよ、と教えられる。この場合の他人は宗教によって異なるが。
「兎も角、死後の世界というものの存在はあるとされていることが多い」
 そこに問題はない。信じる信じないは個人の問題だ。
「しかし、問題は何故『死後の世界』という発想が生まれたのか、だ」
 生命が終わりを迎えた時、どうなるのか。と考えれば直結するように思える。
 しかし、それは死後の世界という発想を知っているからであり、その様な存在が知られていなかった時、直結して考えられるものではない。
 死という未知の存在は経験によって知識を得る生物、特に人間には恐怖にさえなりうるものだ。
 他のものなら経験者が語り、事前知識を得ることが出来る。今のような世の中であれば経験談やレビューをネットで検索し、読めば事足りる。
 しかし、死というものを経験してレビューを書く者はいない。いや、書ける者がいない。
 死とは未帰還を意味する経験であり、死者とは未帰還者のことを意味する単語である。
 帰ることの出来ないところへ旅立ってしまった人、それが死者。
 では死は生物を何処へと誘うのか。
「死後の世界、か」
 簡潔に説明してしまうと生きている者が行ったことのない場所がこれに該当する。
 行けない場所、とよく言われるが、それが果たして真実かは分からない。
「日本特有って分けでもないが、神隠しってのもあるしな」
 生きていて旅立った人のことを神隠しに遭う、と俺はそう思う。
 旅だった先、そこがどこかは分からない。
 もしかしたら宗教の言っているように天国地獄、輪廻転生、もしくは現実にある場所かも知れない。
「一人の人間が生きている間に行ける所なんて限りがあるしな。もしかしたら行ったことのないところに飛ばされているだけかも知れない」
 そして、記憶を失ったり、それこそ夢だと思わせるようにすれば神隠しの成功だ。
 消える前の場所での死者の出来上がりだ。
 もしかしたら、俺も神隠しに遭って、今このベッドで目を覚ましたように思い込んでいるだけかも知れない。
 人は簡単に現実を否定できる。
 あり得ないこと、説明できないこと、分からないこと、全てをなかったことに、幻覚に、夢に仕立て上げることが出来る。
 精神を守るためのごくごく自然な防衛運動。許容範囲を超えた現実は否定する。
「簡単なことだ」
 虐待による人格の分裂がその分かりやすい例えだろう。
 しかし、勿論俺は死後の世界がいわゆるこの現世にあると断言する気はさらさらない。
 そんな世迷い言を主張するほど俺は馬鹿ではない。
 ただ、夢が幻想だと思えないだけだ。
 根拠はいくらでもある。
 逆にありすぎていちいち列挙する気にもなれないくらいにある。
「しかし、まあ、あれだな。最初にそう思えたのはあれだ。知らない、見たこともない人間が夢の中に登場し始めたことだ」
 その夢を境に俺は記憶の整理だという世迷い言を信じなくなった。
 まだサンタクロースを信じていた頃の話だ。
 勿論、町中ですれ違っただけの人を記憶して、その人物が夢に出てきた、と言うことも考えた。
 俺は馬鹿ではない。
 こちらの根拠は記憶力がずば抜けていることがその一つだ。
 当然、町中ですれ違った人説を思い立って、記憶をあさった。
 ネットの検索システムより効率が悪いので時間は掛かったが、すれ違った程度の人間は夢に出てきた知らない人物の一人にも該当しなかった。
 記憶違いの可能性もあるだろうと思った。しかし、その後何人も知らない登場人物が俺の夢に友情出演している。
「友情の欠片もない奴らが、義理も関わりすらないくせに出てきやがる」
 つまり、記憶の整理はあり得ない。
 勿論、未来を予知するなんて言うのは夢と希望しかない世迷い言だ。
 現実性の欠片も根拠もない。
「くだらねぇ」
 じゃあ、俺は深層心理では死にたいってことなのか。
 夢で死んだ以上、深層心理説を採ればそうなる。
「くだらねぇ」
 俺は生きていて心の奥底から良かった、なんてハッピーなお花畑脳を持ち合わせてはいないが、死にたいとは思っていない。
 これは、断言できる。
「死んだら、夢が見られねえじゃねえか」
 それが本当かは勿論分からない。
 でも、俺も人間だ。経験則に基づいて未知に対する最悪の状況くらいは想定できる。その想定された通りに物事が運ぶとは限らないけれど。
 だから、こそ俺は新たなる説を立てる。立てて信じる。乱立する多くの説の中で自分の説のみを信じる。多くいる人間の中で自分だけは無条件で信じられるように。
 独りよがりだと笑いたければ笑えば良い。研究者でもない奴が立てた説など仮説にすらならないと無視するならすれば良い。専門家の言うことが信じられない哀れな奴と見るなら見れば良い。
「専門家って奴らも人間だ。間違えってこともある。根拠があろうとなかろうと、俺は俺に最大限の信頼を無条件に置く。自分が信じられなくなっても自分の思考だけは信じる」
 だから、俺は夢もまた現実だという自説を信じる。自説は俺の中だけで言えば暴説で適説で通説だから。
 夢という世界は実現する。
 それが現世にあるのか、それとも違う何処かにあるのか。
「ちっ、そんなことは関係ぇねえ」
 夢という現実は俺の中で確固たる現実味を帯びている。
「だから」
 と俺は呟く。
 ベッドの上で、カーテンも開かないままの暗い部屋で、一人で呟く。
「俺は死んだ」
 そして、続ける。
 現状が面白いというように口を歪ませながら。
「今、俺は死後の世界にいる」


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