
駄文集
エピローグ
10月18日(金)夕刻――ラッセル・スクエア周辺のカフェ――
「終わりました~!!」
いつものカフェに辿り着くなり、桐栖はそう言ってテーブルに突っ伏した。
ここの店員もこの二週間でマット達の扱いに慣れたらしく、堂々と【パステル色のお客様専用ドリンク】という看板を置き、飲み物がセルフサービスになっていた。
事件の事後処理や、商談などの通常業務に追われ、久しぶりにここに来た桐栖は『これだと、会計の時に問題にならないのか?』と思ったが、それをすることでこの飲食街が平和であるなら、それも仕方がないか、と考え直した。
とはいえ、実は彼が来なかったこの二週間で【ラッセル・スクエア怪奇事件簿】の事件数はプラス二の数字を計上しており、その一つにはナターシャも関わっていたのだが、やはり桐栖はそんなことを知らない。
そしてその『怪奇事件』を『怪奇』だと認識していない彼らは、そんな出来事を桐栖に説明することなく、話しかける。
「ほ、本当にもう終わったんだ?」
今日のマットはパステルブルーに身を包んでいる。
「ええ、これでコシックやハドン商会との件は一件落着です」
そんな桐栖の応えに、パステルイエローに身を包んだマリーが我先にと問い質す。
「それでは、クリスさんのことと今回の件を洗い浚い話して頂きましょうかっ!」
「なんか怖いですね。……まあ、良いですよ。約束、してましたしね」
そう桐栖が潔く応えたので、マリーは遠慮なく、矢継ぎ早に質問を紡ぎ出す。
「桐栖さんの商会はなんて言いますの?」
「枩本商会です」
「桐栖さんは何故魔級が低いのに商人やっていらっしゃいますの?」
「ぼくの、商会内での階級が『技術商人』というものだからです」
「技術商人と普通の商人の違いはなんですの?」
「技術商人は技術者として商談をすることが許されている、特例的な立場の商人です。厳密には商人というよりも技術者なのですが、うちの商会は家族経営ですのでそこら辺は曖昧です」
「それなら――」
「ま、マリー、ストップストップッ!」
質問をすると意気込んだマリーは、基本的なことしか訊いておらず、痺れをきらしたマットは「そ、そこら辺は後で説明するから」と言って彼女を抑えた。
「だ、大体、さっきマリーが訊いたことってこの前の新聞に全部載ってるよ」
「そんな新聞読んでませんものっ!」
スコットよりも威厳のある態度で、マリーはふんぞり返る。
さすが王族の血を引いているだけのことがある、と桐栖は思う。
とはいえ現在の国王であるエドワード七世は、マリーと血の繋がりはない。
勿論、エドワード七世も王族である以上、遡れば確かに血の繋がりはあるのだが、マリーの祖先は薔薇戦争で根絶やしにされたはずであるウッドヴィル家。当時の記録にはそうある。
そしてそのウッドヴィル家、マリーの祖先は薔薇戦争中になくなった国王、エドワード四世の子だ。同じくエドワード四世の子で、薔薇戦争を終結する為にヘンリー七世に嫁いだ、エリザベス・オブ・ヨークの兄弟の家系にあたる。
公式記録ではこのエリザベス・オブ・ヨークのみがウッドヴィル家の生き残りとされているが、現在の王家も、マリーを含めたウッドヴィルの人達の出自を認め、生活の援助をしている。
ただマリーはその血統故か、王族に援助されるばかりでいるウッドヴィルの家に嫌気が差し、自活する為にLSEで経済を学ぶことにしたらしい。
しかしそんな彼女は、実例を挙げて説明するまでもなく、色々と世間知らずなところがあるので、今は女中と一緒に二人暮らしをしているんだとか。
桐栖はマリーの経歴を思い出しながら、彼女の尊大な態度が板に付いていることを納得する。
「……そ、それでさ。あの時話してくれなかったけど、あの東郷と知り合いなんだよね?」
日本であれば「どの東郷?」と返してしまうかも知れないが、欧州で『東郷』と言えば東郷平八郎ただ一人である。
桐栖はマットに東郷と自分の父親が幼い頃からの知り合いであることを説明する。
「へ、へー!! す、凄いじゃないかっ!」
そんな感想と共に、マットは「と、トーマス中将は?」と訊ねる。
「トーマス中将は、枩本商会のイングランド支部を設立するにあたって、彼の父、ティモシー・ディケンズ元(もと)元帥と共に助力して頂いたんですよ」
「あのイングランドの英雄、ティモシー元帥ですのっ!?」
意外なことにマリーが驚いて、問い質してくる。
桐栖はそれに「え、ええ」と返答するが、マリーはかなりティモシーに心酔しているようで、「羨ましいですわ」やら「今度紹介して下さらない?」などと言っている。
桐栖はこれに似たような体験を、過去に日本で東郷平八郎との関係でしたことがあったので、「時間が合う時に」と応えて流した。
ティモシーのことを考え「大学で講義をしてますよ」とは言わない。
桐栖は、マリーが前にティモシーという教授がいることを、そして彼の息子がトーマス中将であるということを説明したのを覚えているか心配した。
だが、ここで何か不自然な行動をすれば悟られてしまうかもと危惧し、桐栖は黙る。
「クリス」
そんな心配を彼がしてるとは思ってもいないであろうナターシャが、声を掛けてくる。
「コシック達はなんで、あんなことしてたの?」
何故か事件の概要を知っているはずのナターシャがそんなことを訊ねてくる。
「? ……!」
少し疑問に思ったが、桐栖は彼女がマリーの注意を逸らす為、自然に話題を変えてくれたのだと気付く。それを好機と見た桐栖は、すぐに意気揚々と説明を始めた。
「スコットは簡単だよね。賄賂を得る為にやっていたんだ」
「うん。それは何となく分かった」
「で、コシックの方なんだけど……まあ、彼のやったことは褒められたものじゃないけど、やっぱり、ぼくとしては彼の志は理解できるんだよね」
「ど、どういうこと?」
「イングランドが印度王国をほぼ植民化していたのは知っていますよね?」
「植民地化なんてしていませんわっ!」
「だから、『ほぼ』植民地化、です。……勿論、これは印度王国民の考え方ですけど、その『自国が他国に頭を垂れている』というのは気持ちが良いものではなかったんだと思います。それで、コシックを含めた印度軍部の人達は、いつイングランドと戦争をしても良いように、兵器を手に入れようとしていたんですよ」
「それなのにコシックはハドン商会に入会できたの?」
「それくらいは簡単だよ。元々軍部内でも秘密裏に行動していた少数派閥だし、コシックはよくイングランド軍に命じられて紛争地帯で活動していたからね。行動だけ見れば、彼は立派な親英印度人だよ」
「そ、それで、スコットと共謀して他商会の武器を奪って、インド軍に流していたんだね」
マットがそう纏める。
桐栖は同意するが、実際はそんなシンプルなものではなかった。
マリーも言ったように、イングランドと印度王国は、ここ数年でかなり友好関係を深めている。それに比例して反英派閥は徐々に力を弱めていき、解散させられていたのだ。
それなのにコシックは受取手のいない祖国に、祖国の為だけを思い、武器を送り続けていた。
今の英印関係を知らずに、自分を殺してまでそんな無駄な行為を続けていたのだ。
「そう言えばっ! ですわっ!」
コシックの哀しい人生を考えながら、物思いに耽っていた桐栖は、マリーの唐突な発言を聞いて意識を戻らせる。
「イリアさんは!?」
「……」
「……」
「……」
マリーの質問に誰も答えられない。と言うより、他の三人の思考は「強制送還された自国」か「牢屋の中」を候補として挙げており、そのどちらを言った方がマリーにとって分かり易いかを悩んでいた。
「きょうせ……あっ、送還の意味分かんないか……えっと、牢屋の中、だと思いますよ?」
意外にも真っ先に、桐栖が失礼な返答をした。
「違いますわっ!! 彼女がロシア帝国軍の元諜報官だったのは、知ってますっ!」
マリーが前に桐栖が説明したイリアの素性を覚えていたことに、一同感嘆の声を上げる。
「おー」
「凄いですね。覚えていたんですか」
「お、おー。マリーの記憶力は凄いね」
全員に馬鹿にされ、マリーは拳を握り、ぷるぷると震わせながら「そういう意味じゃなくてっ! イリアさんはロシア帝国軍の諜報官なのに、何故このようなことに荷担していたんですのっ!」と声を張り上げた。
その本人しか分からない疑問を提起され、再度桐栖達は黙る。
コシックの件は、そういった形跡があったから伝えられたが、イリアの方は謎だ。
先週トーマスに連絡を取った際には、イリアが露西亜帝国軍から追われていることが判明したと伝えられたし、イリア自体は「おっもしろっいこっとがしったいぃのでぇ~♪」と歌っているのか、返答しているのかよく分からない供述を繰り返しているらしいとのことだった。
だが、イリアという人物の性格を考えると、その供述が真実なのかも知れない、と桐栖は思えてしまう。
自分を抜擢してくれたコシックに恩義を感じることもなく。
孤児である自分を育ててくれた祖国に忠義を感じることもなく。
ただただ、おもしろいかつまらないかで自分の行動を選択する。
そんな自由人に、桐栖には見えた。
自分とはまるっきり違うタイプ。はっきり言って真逆のタイプである彼女を、桐栖はほんの少しではあるが心惹かれるものがあったのだ。
「むっ!」
そんな考えている桐栖の表情が気に入らなかったらしく、ナターシャはまた話題を変える。
「クリスが作ったあの生力を発信するやつ、名前付いてないの?」
「ん? ああ、一応日本語名は生力発信装置で良いかなと思ってたんだけど、英名はそう言えばまだきまってないね」
「それなら、私たちが決める」
「いいよ」
どうせ試作品の名称だ、と高を括った桐栖は、すぐに彼らが挙げる候補を聞いて後悔する。
「マジェスティック・スティックですわっ!」
「え、エナ・トランスミッターとかどうかな?」
「ナターシャ・ラブ」
候補が三つ挙がり、彼らが議論して多数決で思わぬ候補が当選しないように、桐栖は先手を打って、マットの名称を決定案にしようと口を開く。
「それな――」
しかしそれは、突然の来訪者によって遮られた。
「アイ・ラブ・マイ・ブラザーだなっ!」
「世界の終焉と終わりと最後を司るもの(アポカリプス)、とっかもぉ良っいよねっ!!」
その一人は東洋人なのだろうが、そのアロハシャツと日本人離れした筋肉質な身体から、もはや国籍不明な人種となっている。
彼の名前は枩本介次郎。桐栖の次兄である。
そしてもう一人は「イリアさんっ!!」とマリーが言ったことにより、誰も説明する必要がなくなった。
「えっ、介兄(かいにい)……いや、それよりも、イリア……えっ?」
突然の来客に桐栖だけではなく、カフェの店員達もが騒ぎ始める。
『パステル室内入室禁止』と書かれた看板(サイン)では、怪しげな筋肉アロハをシャットアウトすることができないからだ。
彼らは「筋肉対策用のサインを用意しろ!」や「アロハ用のサインも作っておきますっ!」やらと店内を慌ただしく走り始めている。たた数名ほど、手伝う気概も見せずに神への祈りやら邪神への祈りやらをしていた。
「落ち着け。我が愛しい愛しい弟よ」
介次郎がその丸太のように太い腕を広げて襲ってくるので、桐栖は反射的に飛んで後方へと下がった。
「ったく、つれねーな」
「……距離を保ったまま説明を、お願いします、介兄」
桐栖は残念そうにする介次郎に対して武術の構えを解かずに、そう促す。
しかしそれもイリアによって中断される。
「はーいはいはいっ! あったしぃ説っ明しっまーす!」
「……どうぞ」
桐栖は構えたまま、イリアの説明を許可する。
「キリリンの部っ下になりましったー!!」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………へ?」
桐栖は素っ頓狂な声を上げてしまう。
それに対して、何故か介次郎は勝ち誇ったかのように「ふん」と鼻を鳴らし、再度説明する。
「今日からこいつ、お前の部下だから」
「ワンスモア」
「今日からこいつ部下だから」
「ワンモアセッ」
「今日から……お前、ふざけてんだろ?」
「ふざけてるのは介兄だろっ!!!! その子二週間前、ぼくのこと殺そうとしたんだぞっ!」
「知ってるよ。さっきトーマスに聞いた」
「知ってて殺し屋をぼくの部下にしたのかっ!!」
いつもの桐栖からは考えられないくらい感情的になっている。
意外な桐栖の一面を見られてナターシャは幸せだと思うが、すぐにその視線を移動させてイリアを睨む。
「なんでっすかー?」
「クリスに近づいたら、今度は私が倒す」
そんなナターシャの宣戦布告にも似た発言は、しかしイリアではなく介次郎によって受け止められた。
「……ナターシャ君かな?」
「そうだけど」
「そうか。……弟はやらんっ!」
「っ!!!!?」
「ぼくは介兄の所有物ではありません。と言うわけで帰って下さい」
「ちょっ、実の兄に対してその扱いは非道くない?」
「ぼくの兄は一兄(いちにい)だけです」
「ひっでぇ!!」
「非道くないです。ゴーホーム」
「よしっ! 一なんかよりも俺の方がよっぽど兄らしいってところを見せてやる!」
ガッツポーズをする兄を見もせず、桐栖は通信機を操作し始める。
「……あっ、一兄? うん、こっちに介兄がいるんだけど……えっ、行方不明だった? また!? ……うん、捕まえて強制送還しておく……」
「ちょっと待ってぇぇ! 子供同士のやりとりに兄貴持ち出すとか卑怯じゃね?」
「じゃあ、そっちは親を持ち出して良いですよ」
桐栖は挑戦的な視線を送るが、彼らの親は父親一人である。
そしてその父親は、昔から介次郎と仲が悪い。
つまりこの場合、桐栖に正当な理由があろうがなかろうが、父親である辰巳は桐栖に付くことになる。
それを理解した介次郎は子供のように泣いて逃げ帰っていった。
「うわぁぁぁぁぁん!!! 可愛くて愛しい弟が虐めるよー!!」
しかし桐栖の攻撃はここでは止まない。
彼は長兄に現状を報告して、どうにかしなければならないのだ。
「……うん、今帰った。……うん、うん……分かった、多分ショーンに無理言って家に入れてもらってるだろうから……うん、拘束させておくよ」
最後に「一兄も元気で」と通信が終わった頃には、カフェもかなり平穏を取り戻していた。
店員達も、筋肉アロハの看板を急いで用意する必要がなくなり、落ち着いている。
桐栖も他の者達と同じように、席に座ってゆったりと紅茶が飲みたいと思い、テーブルまで戻ってくる。
「……あれ? 席が足りない」
当然だ。彼が座っていた席にはイリアが座って、紅茶を飲んでいるのだから。
「…………イリアさん?」
「はっいー!」
「貴女、軍に捕まってましたよね?」
「もっちろんろんでっす!」
「なんで自由になってるんです?」
「じっゆーって素晴らしいねっ!」
「……そうですね」
会話にならない。桐栖はすぐにそう諦め、トーマスに連絡を取る。
「桐栖君? どうかしましたか」
すぐにトーマスが出た。
「……イリアさんがこちらにいるのですが」
「ああ、もう到着しましたか」
「……トーマスさんが差し向けたんですか?」
「いえいえ、彼女自身が希望したことです。ですから介次郎君に預けたのですが……」
そう言って、トーマスは「イリアがロシア帝国軍で知った知識をイングランド軍に提供するなら、イングランド軍は彼女の身の安全を保証し、不自由なく暮らすことを許可する、と上層部で決定致しまして」と補足する。
「上層部って、トーマスさん中将ですよね?」
「いえいえ、私なんてまだまだぺーぺーですよ」
少尉にすらなれない者が聞いたら憤慨しそうな発言をトーマスはして、すぐに「それでは」と一方的に通信を切られてしまった。
「何かっ分かっりましった~?」
通信を終えたのを見て、イリアがそんなことを訊ねてくる。
「ええ、一応分かりましたけど、それが何故うちの商会に入ることに繋がるんですか?」
「おっもしろっいこっとがしったいぃのでぇ~♪」
「分かりました。入会を許可します」
「あっりがとぉ~。キリリンだぁいすっきー!」
その何かを諦めたように許可をした桐栖に対して、イリアが抱きつく。
すると急に三人が異議を唱え始める。
「クリス、そいつ危険!」
「そ、そうだよ、敵だったんだよ!」
「そうですわっ! クリスさんだけ周りに可愛い子を侍らせて、不公平ですわっ!」
桐栖は仲間はずれな発言をしている者は聞かなかったことにして、説明を始める。
彼女が面白いと判断したことに対しては役に立つだろうし、もし数日でつまらないと分かったらすぐにでも出て行くだろうと言うことを。イリアに抱きつかれたままで。
それ以外のイリアがいることに対するメリットを、彼女が気まぐれでもしかしたら明日にはもういないかも知れないと言うことを含めて説明し終えた頃には、ナターシャもマットも納得してくれたようだ。イリアは桐栖から離れようとしないが。
「でも信用はしない」
「ま、まあ桐栖が良いなら良いと思うけど」
「不公平ですわっ!」
そんな三種三様の反応を見て、桐栖は『もしイリアが長いこと居着くことになったら、色々と大変になりそうだ』と心の中で溜め息を吐きながら、席に座る。イリアは抱きついたまま、桐栖の膝の上に座る。
「不公平ですわっ!」
「不公平ぃぃー!」
「き、桐栖。モテモテだね」
「もってもってだぁー!」
「……はあ」
桐栖は溜め息を吐くが、そんな微少の音は、ナターシャやマリー、それにイリアが繰り広げる口論と言えるのかすら怪しい会話のボリュームで消し飛んだ。
桐栖の頭の中には『女三人寄れば姦しい』と言う諺が浮かんだが、その諺はその場合どう対処すればいいかを教えてくれていない。
そんな風に姦しい状況をどうするかと考えながら、桐栖は空を見上げる。
もう太陽が沈み始め、空では夜空と夕空が領土争いをしていた。
そして、そんな桐栖の視界の端に、彼らがいるカフェの店名が見える。
【Café Running Dogs' House(カフェ・ラニング・ドツグス・ハウス)】
『日本語に訳すと、【走狗堂(そうくどう)】ってところか』と頭の中で思い付く。
その響きだけで、桐栖は少しだけ笑ってしまいそうになる。
今回の商品強奪の一件では、確かに自分は走る犬のようだったからだ。
犬のように走り、犬のように嗅ぎ分け、犬のように噛み付いた。
そんな桐栖が事件中入り浸っていたのが【走狗堂】。
まさに自分の為に用意されていたみたいな偶然じゃないか。と彼は思う。
だから彼は、耐えきれずに笑い出しそうになってしまう。
けれどおそらくの感覚は、彼以外には分からないだろう。
この皮肉(アイロニィー)を実感できるのは、きっと、世界で彼一人だけだから。
「クリス、なんでにやにやしてるの?」
「不潔ですわっ!」
「ふっけつっつー!」
「ど、どうしたんだい、桐栖?」
「ん? いや、ただこんな日がずっと続けばいいなって思ってたんです」
弁解もせずに、桐栖はそんなことを口走った。
それが彼の本心から出た言葉でもあった。
ルーチンから外れた、本心。
そんな彼の本心に、皆が各々の方法で同意する。
それを彼は嬉しく思う。
そしてそれを本当に願ってしまいそうになる。
しかし桐栖はそれは不可能だということを知っている。
商人の休息は永くはないからだ。
また明日になれば、競犬のように彼は走り続けなければならない。
だから桐栖は呟く、人生の荒波にもまれる人たちに向けて。
そして自分のように魔学の荒波にもまれる走狗たちに向けて。
「世界の走狗たちに最高の幸あれ(Best Wishes to all the Running Dogs)」
終わり