駄文集


伽藍球《一章~宣戦布告~》

 

二一一〇年三月、日本
 
 ここ十年程度で世界は大きく変わってしまった。契約不可者の差別は少なくなり、少しでも差別がある地域に住む人間は新国家レーベンスラウムへと移住した。そしてそれを快く思わない者も、賛同する者も、レーベンスラウム以外の国々では多く見受けられた。
 要は冷遇されていた契約不可者以外の人間が、契約不可者が虐げられていた時と同じように議論を繰り返しているだけなのである。牧ヶ野郁江(まきがのいくえ)はそう結論付けて、以前からいつも通りの行動を心がけていた。
「本当にイクエちゃんはいっつもどぉ~りだねぇ」
「イクエちゃん言うな。僕は男だ」
 もう既に数える気すらしないほど繰り返されたやり取りを、牧ヶ野と玉懸萌花(たまがけもえか)は、とある大学の研究室で行っていた。
 そんな契約不可者である牧ヶ野にとってここ十年で大きく変わったことは、他人と変わらず多くある。
 まず、彼のような契約不可者が平穏無事に大学院へと進学・卒業できた。
 次に、契約不可者であるのにも関わらず、飛び級で小学校から院へと進学し、博士号を取得することができた。
 上記の二つだけでも十年前の牧ヶ野にとっては夢のようなことなのに、現在彼は自分の望む研究を国の資金でやらせてもらえている。
 自分は果報者だ。彼がそう思わない日はない。
 特に彼は契約不可者として肉体的に虐げられていた期間も、他の多くの人と比べると少ない方だ。しかし虐げられなかったわけでもないので、彼は契約不可者として生きることの苦しみを多少ではあるが理解しているつもり。だからなのか、彼は基本的に他人には卑屈になりすぎるきらいがある。
 ただ、彼と同じ時期に大学へと飛び級入学し、彼と同じ時期に院へと進み博士号を取得し、彼と同じ時期に同じ大学へ研究員として就任した玉懸への対応だけは違っていた。それは腐れ縁なのか誰かが意図的に仕組んだ結果なのか、彼には分らないが結果として約六年も一緒に玉懸といることになる。そしてそれくらいに長い付き合いともなると相手に対する対応も多少は雑になりがちだ。それは彼も認識している。しかし当の玉懸がそれを望んでいるので、そうせざるを得なかったという部分もある。彼女は契約者に対するものではなく、同じ人間に向ける対応を牧ヶ野に求めたのだ。
 それに牧ヶ野にとって玉懸は、彼を契約不可者だと知っても何も変わらなかった数少ない友人でもある。それまで周りには友人と呼んで良いものか分らない人間ばかりだった彼にとっては、自ら「あたしはイクエちゃんの親友なりっ!」と冗談でも言ってくれる玉懸の存在に少しではあるが救われていたりもする。
 しかしそれと現状は別の事柄だとでも言わんばかりに玉懸を睨みながら彼は問う。
「萌花。お前、自分の仕事はどうした?」
「行き止まりの行き詰まりで息苦しい感じ」
 はあ。牧ヶ野は溜息を吐く。
「お前なあ、研究が行き詰まる度にこっちの研究邪魔しにくんなよ」
「邪魔なんかしてないよ~。静かにしてるも~ん」
 そう言いながら椅子を回転させ始める玉懸。
 そして遠心力によって外部への力が働いた白衣の端が、牧ヶ野の顔にぺちぺちと当たる。
「あー!! もう! お前の存在が邪魔なんだよっ!」
「ひっ! 非道いじゃんか! 外道じゃんか! 何も本当のこと言わなくたって良いじゃんかっ!」
 再度牧ヶ野は溜息を吐く。彼は苛立って邪魔だとは言ったが、別に本心ではない。しかし玉懸自身はそれを事実だと認めてしまった。しかもその彼女は今、泣きそうな眼で牧ヶ野を攻めながら彼の胸を叩いている。
 しかし彼と同じく飛び級でここまで辿り着いた彼女は、いまだティーン。それほど力があるわけでもないので放っておいても問題はなさそうだが、如何せん彼はまだ研究の途中。きりが良いわけでも、行き詰まったわけでもない。更に今はまだ午前中。まだまだ研究を続けるべき時間がたっぷりと残っている。
「はあ」
 そう溜息を吐いて、彼は玉懸の両腕を掴んで口を開く。
「昼食にシュークリーム付けてやるから静かにしてろ」
 シュークリームの「シュー」を聞いたところで彼女の顔に年相応の無垢な笑みが宿る。
「……仕方ない。お口にチャックをしてから南京錠を懸けて、セコムしよう」
「セキュリティも万全だな」
 そう言いながら彼は玉懸の頭をぽんぽんと二、三度撫でて、再度机に向き直る。
 机の上には様々な電子部品と何かの設計図が置かれている。
 玉懸も科学と魔法を結ぶ、魔科学の研究者であることから設計図だけで牧ヶ野が何を研究しているか理解できるはずなのだが、如何せん彼女に牧ヶ野という個人以上の興味はなく、彼がいま何を研究しているか、彼が何に興味を持っているかなどに関心はない。
 彼女が牧ヶ野自身以外に関心を持っているのは彼が作り終えた論文くらいだ。現段階では論文の執筆段階にすら至っていない牧ヶ野の研究内容なんて、彼女は見る気もない。
 故に、今日も暇な彼女は、牧ヶ野観察を怠らない。
「……(じぃー)」
「……(視線がうざい)」
 こんな日常が今日も変わらず、繰り広げられていた。
 
 念願のシュークリームをデザートに添え、レモンソルトが全てにかけられた、牧ヶ野が称す『昼食に近しいけど確実に違う何か』を終えた玉懸と牧ヶ野は、大学校内を歩いて魔科学研究棟まで向かう。途中多くの学生に奇異な目で見られるが、そんな視線など彼らはもう慣れてしまっていた。
 なにしろ本来であれば高校生くらいの年齢である男女ふたりが大学校内を、研究者用の白衣に身を包んで歩いているのだから、多少の注目は仕方がないといえよう。
 それに知っている人は、牧ヶ野が契約不可者であることも知っている。そんな彼に対して嫉妬や妬み、嫉みなどを感じる者は少なくない。だから彼の研究を重要視している日本国政府でも極一部の人間以外は、彼に対して嫌悪感こそ出しはするが、尊敬や敬いの念など見せてはくれない。
 その点を考慮すると、玉懸が彼の近くにいるのは利点である。彼女は契約を成功させ、真っ当な市民権を得ている一般人だ。そして彼女も牧ヶ野と同じく飛び級の研究者。更に彼と同じく日本国政府に期待されている研究をしている人間でもある。
 そんな彼女が彼の近くにいるだけで、他の極々平凡な人間は、例え彼らと同じ研究者であったとしても、彼を虐げることはできない。
 彼を虐げると、それを知った玉懸が政府に誰それが彼の研究を阻害した、と伝えるだけでその人物の研究人生を終わらせることができるからだ。それくらい重要な研究を牧ヶ野郁江という人物は任されている。
 ただ、そんな重大な研究にも関わらず玉懸とは違い、彼は研究チームを持っていない。それは契約不可者の下に着きたくない、契約不可者の解明した理論に関わりたくないという、契約を成功させた研究者達のプライドが許さない精神面の事情があるからだ。
 しかしそんなことを気にしない玉懸は、政府に「たまに手伝う」と言い、実際に本当に偶にではあるが、牧ヶ野の手助けをしている。そんな玉懸に牧ヶ野は感謝しているが、本人がそこまで考えていそうになく、ただ単に本能の赴くまま勝手気ままに行動しているように見えるので、牧ヶ野は感謝を口にしたことはない。
「午後は自分の研究室に戻るんだろうな?」
「ん? なんで?」
「行き詰まったからって、研究を放っていたら永遠に進めないだろ」
「一理ありますな」
「一理どころじゃないから」
「でも、めんどくさいからやぁ~だ」
 はあ。牧ヶ野は頭を痛ませながら、玉懸を連れて自分の研究室へと戻っていく。
 
 牧ヶ野のその日の研究は思いのほか進まなかった。
 これは特段、玉懸が邪魔をするからというわけではなく、ただたんに牧ヶ野の研究が一重に難しいものだからとしか言いようがない。
 彼がいま研究しているのはパワードスーツとして世界的評価を得ているルースタング。これの魔科学的構造理論を知ることが彼の研究では第一段階となる。
 レーベンスラウムの開発したルースタングは、内部でも極僅かの人間しか構造を把握していない。例えば研究者やメンテナンス・調整を受け持つ整備士、これらに属さない人間のほとんどは搭乗者を含めて構造を知らされていない。
 始めは皆それでも問題はなかった。構造を知らなくても扱えるのであれば別段無理に知る必要はないからだ。
 しかし現在レーベンスラウムは国家であり、独自の理念を持っている。それがいつ自国に被害をもたらすか不安に思う国家は、当然の帰結とも言えるくらい当たり前のようにルースタングの研究をこぞって始めた。
 元々ルースタングは『人類主義』の人間を殺す兵器だったのだ。その矛先がいつ、自分達に向くかは分らない。そう危惧する者は多い。特に政府組織内には。
 一般人は多くがルースタングの協力を得て瓦礫撤去や復興作業、危険地帯での救助活動などを手伝ってもらっていることから、危険性を感じている者は少ない。
 このような見解の不一致から、牧ヶ野を含めた政府から援助されている研究内容の多くが極秘扱いであり、一般的には知られていない。しかしこれを楽する好機だと受け取るのは牧ヶ野が知る限り、玉懸くらいしかいない。
 今日も一日のほぼ全てを牧ヶ野の研究室で過ごした玉懸は、欠伸をしながら「今日も一日お疲れ様だねぇ」と彼の横でいけしゃあしゃあと言っている。
 それを見て、一応国民の税金から生活をさせて頂いている身である牧ヶ野は、軽く玉懸の頭を小突いておく。しかしそんな批難のジェスチャーも、玉懸には理解できなかったようで、何故か彼女は嬉しそうに「えへへ」と笑っている。
「それじゃあ、また明日な」
「いやいや、あたしはイクエちゃんの補助研究員ですぞ?」
 正確には臨時研究員という立場のはずだったが。そんなことを考えて、それは本題ではないとすぐに牧ヶ野は思考を切り替える。
「意味が分らない」
「補助研究員たる者、メインで根幹たる研究員の補助をしなくてはなりませぬ」
「意味はまだ分らない。あと口調変だから」
「ここまで言っても分らないなんて、イクエちゃんホントに天才なの?」
 そこまで言われて彼は即座に「僕は自分を天才だと思ったことなんてない」と反論しそうになるが、それも本題ではないし、本題は何となく理解できた。
 要は玉懸という人物は今日も牧ヶ野の家に押し入る気なのだろう。ここ一年以上そうしてきたように。
「……お前は自分の家に帰る気はないのか」
「ノンノン。答えが分っている質問は愚問と言うんだよ」
「はあ。……分りました」
 彼が両手を挙げて降参の合図をすると「諸手を挙げて喜ばれちゃった」と笑顔で見当違いの解釈を彼女は述べて、先導するように先を向かう。
「今日は敷地を出てすぐにこれか……日に日に家に来るまでの時間が減ってきているな」
 今までは一度解散して別れてから彼女が押しかけるパターンが多く、今日のように真っ直ぐに彼の家へと向かうことはなかった。しかし夜が明けて、結果だけを見てみるとそこに変わりはないので、牧ヶ野自身としてはどう彼女が押しかけてこようともそれらは等しく頭痛の種であった。
 玉懸宅まで彼女を送りつけたり、自分が家に帰らない日を作るなどして彼女の押し入り居座り問題を解消しようと試みた時期もあったが、いつの間にか作られた合い鍵により、全てが徒労に終わっている。
 彼女は契約者だ。牧ヶ野は考える。
 契約不可者である彼とは違い、彼女を愛してくれる家族がいるだろう。なのに、何故彼女はひとり暮らしで碌なお持て成しもできない牧ヶ野の家へと来るのだろうか。
 これは彼が何度も考えたことだが、玉懸の親と会うことすら許される身分ではない牧ヶ野からすると、彼女が善意から自分が寂しい思いをしないようにしているのではないか、としか想像ができない。
「なあ、萌花……」
「ん? なぁ~に~?」
 一瞬本人に問おうとしてしまう自分を抑えて、牧ヶ野は硬い表情を和らげて別の言葉を紡ぐ。
「今日の晩ご飯は何が良い?」
「はんばーぐっ!」
「それは昨日も一昨日も食べただろうが」
「今日も明日もずっとイクエちゃんの作ったハンバーグがよろしいっ!」
 永遠にハンバーグを食べ続ける玉懸を想像して牧ヶ野は笑いながら、心の端で今の関係が壊れるのを恐れてしまった自分を責めるが、このままが良いというのは自分の本心なのだな、と彼は気付いてしまった。
 
 次の日、玉懸は自分の研究室に顔を出すこともなく牧ヶ野の研究室に直行していた。それを、朝食の後片付けや自身の研究を管理・担当している政府関係者に進捗具合を報告したあとに研究室へと入室した牧ヶ野は、本人の口から知らされた。
「はあ。お前は自分の研究をする気はないのか?」
「ないっ!」
 はっきりと断言されてしまい、更に彼は溜息を吐く。
「大体、お前は今何を研究しているんだよ?」
 自分の研究内容という、研究者にとって自身の手足はどこにあると問われているのとさほど変わりのない質問に玉懸が悩み始め、彼は頭痛を感じずにはいられない。
「えっと……魔法エネルギーを効率良く蓄積する物質と、その原理に関して?」
「何故疑問系なんだ」
 それと、と彼は続ける。
「それは僕が去年論文を仕上げて、研究済みの内容だろうが」
 そう言いつつも、彼は彼女が何故その研究をわざわざしているのかを理解している。
「……いや、だってぇ……あたしの所の研究員達が誰も認めないからそこから発展した研究できないしぃしぃしぃ」
 契約不可者である牧ヶ野が成し遂げた研究成果は、一部の人間を除いてその成果を認められることがない。それはたんに彼の研究が彼単独で行われ、議論の余地を残したまま完結してしまっているから、と言う妥当な見解もあるだろうが、実際は違う。
 これに関しては、どんなに筋の通っている説明をしようが、結局は彼が契約不可者であるから、と言う一点のみが問題視されているに過ぎない。
 彼がどれほど秀でた才能を持っていようと、彼が飛び級を認められ若くして博士号を取得していようと、彼は突き詰めてしまえば契約不可者だ。そんな彼の研究成果をまだ産まれたばかりの学問である魔科学の、その根幹に位置する論理として認めることは、できるはずもない。
 それはプライド、とも言えるし、たんなる虚勢とも言えるひどく滑稽な現象だった。少なくとも玉懸はそう認識している。
 いまだ定説と言えるほど決定的な理論が確立されていないこの分野では、契約者同士ですら日々他者の粗を探しては相手の論文を否定している。そんな状況で契約不可者の論文に目を通す者なんていようはずもない。いたとしても、それを元にあたかも自分が考えたオリジナルの説であるかのように振る舞う為だけだ。いわばプライドすらない盗人くらいしか契約不可者の論文を見る者はいない。
 そんな中でも玉懸だけは牧ヶ野の論文が完成する前から目を通している。それは一重に牧ヶ野の着眼点が他に類を見ないくらい素晴らしいものであるからとも言えるし、ただたんに何かに縛られていない彼の理論が自由に空を飛び回る鳥類のように綺麗なものだからとも言える。
 故に、玉懸は牧ヶ野の論文を、マイナー作家の新作が読みたくて仕方がないファンのように待ち望んでいる。そしてその新作を読んだ玉懸は、自身でも同じ作品が書けるのかという意気込みで彼と同じ研究をする。それが結果的に玉懸萌花の名前を天才学者という位置づけに追い上げることは、彼女自身にとってはあまり嬉しいことではない。だってそれは本来牧ヶ野が受けるべき賞賛だから。
 しかし牧ヶ野はそんな玉懸に対して自分の研究を盗んだ張りぼての天才だと批難することはない。むしろ彼は「僕の独りよがりの研究をきちんとした環境で実証してくれるんだから、お礼を言いたいくらいだよ」と彼女に対して礼を言う始末だ。
 玉懸は彼と知り合ってからこの六年間で気付いたことがある。牧ヶ野郁江という人物は色々なことを諦めてしまっている。それが契約を失敗してしまった者の末路だと思うと、彼女はそれが哀しくてならない。契約をできなかったとしても、牧ヶ野はとても優秀な研究者だ。勿論、魔法を使わなければならない機器を使用した実験などはできないが、そんなのは論文を書く腕を失ってしまった人間と同じようなものだ。誰かがその者のできないことをして支えて、代わりにしてあげればいい。
 人間社会とはそうできているのではなかったのか?
 完璧な者などいないのだからこそ支え合い、他者の欠点を埋めてあげるように作用するのが社会の構造なのではないのか?
 こんな事は何度も玉懸の頭を過ぎっている。しかしどうしようもないのが現状だ。日本政府の支援を受けて研究をしている牧ヶ野にはレーベンスラウムへと移住することすらできない。いや、できたとしてもおそらく五体満足とはいかないだろうと玉懸は思っている。
「それで?」
 色々なことを考えていた玉懸に牧ヶ野は質問をした。
「それでって、なにが?」
「いや、僕の研究に間違えとかはあった? 昨日行き詰まったって言ってたし」
 その事か、と玉懸は理解する。
「んーとね、間違えはないんですよぅ。というか、それが問題?」
 珍しく歯切れの悪い玉懸に少し不信感を感じ、牧ヶ野は更に質問する。
「間違えがないのが問題って、どういう事?」
「えーとですね。事前にイクエちゃんの論文を読んだあたしは当然っちゃ当然なんだけど、他の研究員さん達もイクエちゃんが試した以外の検証方法が見つからなくてさ、どうしよかな? ってなっちゃったのでせう」
 恥ずかしそうに告白する彼女を見て、牧ヶ野は納得する。
 玉懸は彼とは違い複数人の研究者を要して、チームとして研究をしている。個人で研究をしている牧ヶ野とは違い、そこでは多くの意見や批評、検討が成される。故に牧ヶ野が思いもよらない方法や理論を構築する者もいるだろうし、玉懸が期待しているのはそういったものだ。
 しかし牧ヶ野とて、天才と呼ばれる玉懸に天才と呼ばれる優秀な研究者。それに彼にも研究成果を報告しなければならない相手がいる。しかもそれが嬉しいことに契約不可者である牧ヶ野の理論や説を、彼が契約不可者だからと一蹴しない相手だ。故に彼も全力で研究をし、報告対象者に論文の穴が見つけられないようにしている。
 だから、と言うわけではないが、牧ヶ野の研究成果に関してだけは総じて批判の余地がない。検証も実証も理論の構築も、全てに置いて万全を期している。
 勿論、単独研究であるが故に時折独りよがりな成果になってしまったりもするが、それは玉懸が報告前の論文を読むことで多少は軽減されている。
 そんな鉄壁の理論を作り上げられたあとに玉懸はわざわざ粗を探すような研究をしているのだから、行き詰まるのは当然とも言えるだろう。
 特に玉懸はたんなる論文盗作に墜ちてしまった研究者とはなりたくないので、できる限り自分や自分のチームでしかできない手法を取り入れたいと思って研究を重ねている。だからと言うわけではないが、牧ヶ野からしたら彼女は自分よりも頭が良いのだと思えて仕方がない。
 牧ヶ野は自分がおそらくこれだと思い、信奉した学説の粗を探したり、覆そうなどということは出来ないだろうと考えている。疑いの余地があり、本当にそうなのだろうか、というレベルであれば簡単だが、玉懸は彼の論文を『正解』だと信じ、それを立証するべく研究している。こればかりは、彼にはできないことだ。だから牧ヶ野は安心して彼女に自分の論文を見せるし、同じ研究をしてもらっても感謝以外の念を抱けない。
 牧ヶ野は彼女に自身の不安を取り除いてもらっているのだと感じている。
 研究者とは常に批判され、意見交換をしながら自分の理論をより『正解』へと高めていくものだ。しかし契約不可者である彼にはそれが許されていない。彼の場合は自分がこれだと信じた説を構築し、他人にそれが『正解』かも判断されぬまま終わってしまう。一言で片付けてしまうなら、まったく無駄な行為をしているとも言えよう。けれどそこに玉懸という人物が介入することで、彼の行為にも意味が持たせられる。
 研究者として批判や嫉妬の矢面に立たされるのは玉懸で、彼は常に影に潜んで自分の好きなことを研究するだけで良い。その事を考えると牧ヶ野の心は申し訳なさで一杯になるが、自分の行為に、自分に、意味が与えられることは彼にとって何物にも代えられない感覚だった。
「それじゃあ、素材に限定せずに、分子結合の構造にも視点を向けてみるのはどうかな?」
「……氷と水とか、C60とダイヤモンドとかってこと?」
「そう。そこら辺はちょっと論文の主題である魔法エネルギーを効率良く吸収する元素、ってのからはずれると思って僕は省略しちゃったけど、行き詰まっているのなら興味深い結果が得られるかもしれないよ」
 本当はその研究も牧ヶ野はしていたが、あえて論文に載せることはしなかった。理由は玉懸が研究する余地を与えたい為とも、本当に主題から外れているからとも言えるが、牧ヶ野は結果を知りつつも黙っておくことにした。
「……へぇ~。それは確かに興味深いですねぇ、電子の通過率と同じで分子結合上の構造にも関係があるなら、魔法エネルギーは粒子として存在している可能性がありますしねぇ」
 玉懸はわざとらしく彼にその研究結果で得られる理論を述べる。
 それを聞いて彼は玉懸の頭の良さを再認識せざるを得ない。
 あえて言わなかったのに、彼女は牧ヶ野が存在を証明した『魔粒子』との関係性を見出してしまった。
「そうだね。そうなると僕の魔粒子論文にリンクするし、次の研究課題も決まってスムーズに行くじゃない」
 けれど牧ヶ野は気付かないふりをして、そう言う。すると彼女はふて腐れたように頬を膨らませる。
「ええ、そうですねっ! どうせあたしはイクエちゃんが一年前に研究した内容を後追いで検証しているだけに過ぎませんよっ! もう研究者名乗るの止めて、検証者にしますっ!」
「検証も立派な研究だよ。新たな説が出てくれば古い説を再検証しなきゃならないし、後追いの研究なんて他の分野じゃざらだしね」
「もうっ! そういう意味で言ってるわけじゃないの分ってるくせにっ!」
 玉懸はそう言うと、研究室の扉を大きな音を立てて出て行ってしまう。
「……はあ、これで僕の研究に専念できる」
 牧ヶ野は心にも思っていないことを口にするが、すぐさま扉の外から「邪魔してごめんなさいでしたっ!」と玉懸の声が聞こえて、安心する。
 
 その日の午後に玉懸は彼の研究室に何食わぬ顔で戻ってきて、彼が研究している横で暇をもてあましていた。
「ひぃまぁだぁよぅっと」
「なら自分の研究室に戻れ」
「またまた旦那、そんなつれないこと言いなさんなって」
 おそらく玉懸は彼の研究室を出たあと、談話スペースへと言って時代劇を見てきたのだろうと判断した牧ヶ野は、口調がおかしくなった玉懸を無視する。
「ひぃまぁだぁよぅっと」
「研究し―」
「二度同じ事は言わせませんぜ」
「同じ事言われると分っているのなら、善処しろ」
「いやぁ、だって……研究めんどくさいっしょ?」
「僕に訊くな」
「イクエちゃんって、研究大好きっ子?」
「危ない人みたいに言うな」
「だってぇ、イクエちゃん研究大好きじゃんじゃん?」
「嫌いではない」
「それじゃあ、あたしも研究してみない?」
 色っぽい声を出しながら白衣に手をかけて、玉懸はそう言うが、牧ヶ野は机に向かったまま彼女を無視することに決めたのか黙っている。
「あのさ、あのさっ! イクエちゃんって男の子だよね?」
「そうだけど」
「しかも、性的衝動をもてあましている十代の性欲旺盛なお年頃だよね?」
「―ぶっ!!!!」
 唐突な質問に牧ヶ野は驚き、口に含んでいた紅茶を吹き出してしまう。
 どうやら彼女が談話スペースで見ていたのは時代劇ではなくラブロマンスだったようだ。
「それなのに、日夜共にいるあたしに手を出すどころか見向きもしないってどういう事よ? あたしに魅力ないって言外に言ってるつもり? 失礼しちゃうわっ!」
 玉懸は紅茶が気管に入って咳き込んでいる牧ヶ野を無視してひとりで疑問を提起して、ひとりでむくれている。
「ねぇねぇ、どういうことですか? 返答を要求しますっ!」
 気管内の液体を除去できた牧ヶ野は彼女を見る。
 ……眼がマジだ。
 先程まで冗談で彼女が言っているのだと思っていた牧ヶ野は、この状況をどう打破するかを思考し始める。即座に三、四つ程度の打開策が提案されるが、どれも眼が本気と書いてマジな玉懸には通用しないだろうと牧ヶ野は判断する。
「回答ぷりぃーず!」
 至極冗談っぽい仕草と口調だが、彼女の眼は真逆を牧ヶ野に訴えている。
 ……どうする?
 研究員として大学に就任するか、レーベンスラウムへ移住するかを迷った時と同じくらい慎重になりながら、牧ヶ野は考える。
 ここで判断を誤ったら色々と問題が発生するのは明らかだ。それくらい牧ヶ野じゃなくても分る。しかし彼女はそんな牧ヶ野に考える猶予を与えるつもりがないようで、カウントダウンを始めた。
「ふぁーいぶ」
「……」
「ふぉー」
「……」
「すりぃ、つー、わ―」
「ちょっとまてっ!! 急にスピードアップするなっ!」
「ん。はい、返答どうぞ」
 猶予は走馬燈のように過ぎ去り、もう回答するしかないようだ。ロシアンルーレットを強要されたような感覚で、牧ヶ野は口を開く。
「た、玉懸さんは、その、僕の―」
「あっ、大切な友人だからとかしょぼくれた理由は求めてないので」
 先を塞がれた牧ヶ野。
 そんな彼の思考に『大魔王から逃げることはできない』と昔やったことのあるRPGの一文が表示される。
「えっと、ですね……非常に魅力、的、です、よ?」
「……へぇ、疑問系なんて使える余裕あるんだぁ」
 この時点で玉懸の顔から笑みが消えた。
「い、いやっ! 大変魅力的で、自分も毎日手を出しそうになってしまうのを理性を総動員して防いでいるでありますっ!!!」
 背に腹は代えられぬ。そんなことを考えつつ、咄嗟に口から飛び出た言葉が頭の中で反響するのを聞き、牧ヶ野は自分がどれだけ馬鹿なことを言ってしまったのかを理解する。
 ……ほら、玉懸も嬉しそうにしちゃってるし。
「えへへぇ、そうでありますか。自分はそんなに魅力的でありますかぁ。理性を総動員でありますもんなぁ」
 何故か軍人っぽい口調で返答してしまった牧ヶ野と同じように、何故か玉懸も軍人っぽい口調でだらしなくにやけながら何かについて納得している。
 しかし牧ヶ野は知っている。こう言ってしまったらここで終わりではないことを。
 だから、と言うわけではないが、それはまったく無関係だと牧ヶ野は主張するが、牧ヶ野は嬉しそうににやけている玉懸を放置して、逃げる。
 これに関しては過去に何回か経験したことがあるので、牧ヶ野の動きは洗練さていてまったくの無駄がない。
 まず、音を立てずに立ち上がる。この時のんびり動くと玉懸に視認されてしまうので素早く行う。
 次に、唯一の脱出口である扉へと移動。逃走ルートは書類や実験器具などが置かれていないところを通る。
 最後に、そしてこれが一番の難関だが、音を立てず、更に玉懸に認識されないように扉から出て、閉める。ドアを閉めることで若干ではあるが逃走時間が稼げるのもそうだが、全てが上手くいけば玉懸が彼は瞬間移動したのだと勘違いして、窓の外を確認するからである。彼女はたまに馬鹿になるのだ。
 この状況は三~六ヶ月間の間に一度は訪れるので、牧ヶ野はイメージトレーニングを日課にするくらい逃走方法を熟考し、実際に何度か成功を重ねている。しかし、成功しているから大丈夫だと安心していると足下を掬われかねない。慎重に慎重を重ねて地層になって溶岩が防げるくらいでないと逃走は成功しない。
 だから、彼は研究棟を出るまで安心できなかったが、実際に研究棟の外まで来てみると、自分はなんと馬鹿げたことに集中していたのか虚しくなる。
「……はあ。馬鹿か、僕は」
「なにがですか?」
 即座に期待していなかった返答が得られたことに、多少どころか多大に驚いて、それを発した声の主を見つける。
 眼鏡をした二十代後半くらいの男性研究員が、訝しそうに牧ヶ野を見ていた。
「……何でもありません。ちょっと友人と喧嘩をしてしまいまして、逃げてきたところです」
 その回答に納得したわけではないだろうが、男性研究員は優しい笑顔で笑い始める。
 それを見て、心を痛めながら、牧ヶ野は神妙な顔つきで彼に自分が契約不可者であることを告白する。どんなに優しい人物でも、これは牧ヶ野がやらなくてはならない行為であり、誠意でもある。告白したあと、その優しい顔が醜く彼を蔑むものになると知っていても。
 しかし彼の反応は牧ヶ野が知っているものとは違った。
「知っていますよ、牧ヶ野郁江博士」
  そう言って彼は「俺は君津雅之(きみつまさゆき)と言います」と自己紹介をした。
 それは牧ヶ野が知っている契約者の反応ではない。
「え、ええと、あの、僕をご存じなんですか?」
 恐る恐る牧ヶ野は問う。牧ヶ野郁江を研究者として知っているのはこの大学でもこの研究棟に身を置くものだけ。しかも牧ヶ野の研究内容が国家機密に属するものである以上、彼の研究内容を知り、彼を研究者としてみる者は玉懸くらいしかいない。
「ええ、勿論。俺は元々政府直轄の研究所にいたんですが、今日からここで、牧ヶ野博士のお隣の研究室で研究を続けるように言われております」
 政府直轄の研究所。これで彼が牧ヶ野を研究者として知っていることに合点がいった。しかし牧ヶ野の隣の研究室は誰も寄りつかない空室となっているはずだ。いくら政府からの命があったとしても契約者なら違う研究室をあてがってもらうように抗議するはずだ。
「ああ、もしかして、俺のこと疑ってます? もしかしたら契約不可者なんじゃないか、とかって」
 考えていたことが表情に出てしまっていたのか、君津に言い当てられ、牧ヶ野は動揺しつつも否定する。
「い、いえっ! そ、そんなことは全然思っていません!」
 すると、君津はまたも微笑みながら、牧ヶ野の緊張を解そうとする。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。俺は他の人からすると多少変わっているらしくてね、研究者において契約の有無はまったく考慮しません」
 そう言われても、牧ヶ野はすぐに安心することはできなかった。
「それにね、俺は君の論文を読んで興奮したんですよ」
「は、はあ」
「あんな論文を書ける人物は凄いっ! 俺はそう思ったから自ら志願させてもらったんです。牧ヶ野博士に可能な限り近い場所で研究させて下さいって」
 牧ヶ野は再度驚かずにはいられない。自分の論文を読んで自ら志願してここに来た? 疑り深い牧ヶ野の一部が君津は嘘をついていると叫んでいる。
 しかし、違う牧ヶ野の一部は彼を信じたいとも思っていることに、牧ヶ野はまたしても驚いた。研究者となってから契約不可者であることを日々理解させられ続けている牧ヶ野は、玉懸以外の人間を信じたいと思う心が残っているとは思っていなかった。けれど、何故かどんな結果になろうとも、牧ヶ野は君津を信じることにした。
「あ、ありがとうございます」
 そんな緊張を無理矢理隠そうとしている牧ヶ野の態度を見て、君津は小さく溜息を吐きながら、彼へと手を差し出す。
 そして握って良いか迷いながら近づく牧ヶ野の手を握り、君津は「よろしくね」と言って研究棟内へと入っていった。
 まだ君津のぬくもりが感じられる手を眺めながら、牧ヶ野はしばらくそこに佇んだ。信じることにより得られたぬくもりと不安を抱え、いつしか彼は不安よりもこの心の温かさが増えていくと良いなと願っていた。
 
 ふて腐れ、激怒していた玉懸との騒々しい一夜が明け、彼らが牧ヶ野の研究室に入室すると、程なくして君津が顔を出した。
「おはようございます~」
「お、おはようございますっ」
「もーにん、すとれんじゃー」
 相手が誰かも知らずに失礼なことを言う玉懸を注意して、牧ヶ野は君津を紹介する。
「昨日から隣の研究室に超してきた君津雅之さん。そしてこちらは僕の研究室に入り浸っている玉懸萌花さん、です」
 さすがに君津の前で契約不可者である自分が玉懸を不躾に扱っていると見せるわけにはいかないと思い、終始敬語で話すが、玉懸が「イクエちゃんの敬語キモイ」と一言言ったことにより、普段敬語でないことが君津にばれてしまった。
「あはは、まあ良いんじゃないの? 俺も彼女も契約の有無は気にしてないみたいだし……それに俺としては牧ヶ野博士ともっと親睦も深めたいしね」
 すぐさま謙遜しそうになるが、それは親睦を深めたいと言ってくれている君津に失礼だと思い、牧ヶ野は思いとどまる。
「えっと、それなら提案なんですけど……僕のことは牧ヶ野、とか郁江とか呼び捨てにしてもらっても良いですか? 博士とか呼ばれるの、慣れてなくて……ああっ! 勿論、嫌なら別に構いませんが」
「オーケー、郁江君」
 その言葉を聞いて、牧ヶ野は嬉しくなる。名前を玉懸以外の人間から呼ばれるなんて何年ぶりだろうか。
「じゃあ、あたしもっ!」
「お前は、もう名前で呼んでるだろ」
「うーんっ! それならあだ名だっ!」
「却下」
「ははは、郁江君達は仲が良いね」
「そうでもないですよ。こいつが妙に突っ込んでくるんで、こっちも普通に対応してると疲れるんですよ」
「疲れるとはなんじゃー!」
「そのままの意味だ。分らなければ国語辞典もってこい」
「うぬー、失礼な奴め……イクエちゃんのあだ名は無礼者?」
「それだけは勘弁して下さい。ってか、無礼者はお前のあだ名として相応しいな」
「無礼メーン!」
 牧ヶ野は訳の分からない玉懸の相手をすることを諦め、無視することにした。その為、というわけではないが、牧ヶ野は君津の研究内容を尋ねる。
「……ところで君津さんは今なんの研究をなさっているんですか?」
「しかと? ねぇ、しかと?」
「俺はねえ、大雑把に言うと郁江君が基礎を築いてくれた魔科学理論から発展した研究かな」
「しかとかぁい!」
「それだと、例えば魔粒子の運用についてとかですか?」
「ああ、それも一時期やってたな……でも、それも郁江君に先を越されちゃったから」
「……すいません」
「いやいや、なんで謝るんだい。俺の無駄な研究時間を省いてくれたんだから、むしろこっちは感謝したいくらいだよ」
「……むぅしぃさぁれぇたぁ」
「いや、でも、君津さんも多分ご自身で研究したかったんじゃ」
「確かに、俺自身が解明できたらそれは嬉しいよ。でも、俺も君の理論を見て、こういう結果になるだろうと思えたんだから、俺が研究に費やす時間を省いてくれたんだ。それに、俺の目標は功績を出すことじゃなくて、魔科学についてできる限りのことを知ることなんだ。それは他人が行き着いた結論だろうが、俺がそれを『正解』だと思えたならそれで良いんだよ」
「そう言って頂けると助かります」
「そんなこと言うなって。それに、俺がここに来たのは研究課題を君と分断したり、時には協力し合ったりするのが目的なんだ。君が世界中の誰よりも魔科学に明るいのはぶっちゃけた話し、事実だしね。できるだけ君の元で理解を深めさせて頂くよ」
「ふぅたぁりぃのぉ、せっかぁい~。わぁたぁしぃ、だぁけぇがぁのっけものさぁ~」
「僕が一番魔科学に明るいなんて……他にも沢山いますよ」
 そう謙遜する牧ヶ野だが、君津はすぐに表情を変えて真面目なトーンでそれを否定する。
「いや、君が一番だ」
 その真剣な表情に押されて、牧ヶ野は黙ってしまう。しかしその雰囲気も、君津が表情を元の優しいものに変えるだけですぐに離散する。
「正直に言うとね、他の学者連中は自身の功績しか考えていない」
 それは客観的に見ると事実であり、すぐに牧ヶ野は否定できない。
「自身がこの学問の基礎を作る為、どんな理論も粗を探し、他人を蹴落とし自分をのし上がらせることしか皆考えちゃいないんだ。そこを行くと君は違う。君は正当性のある理論は取り入れ、功績なんて考えずにただただ真実を追究する為だけに研究を重ねている。それは本来の研究者としての姿として正しい」
 それに関しては玉懸も同意せざるを得なず、黙り込む。今の研究者は政治家が自身の政党を作り、与党を引きずり下ろそうとしているのと何ら変わりのない行動ばかりを繰り返している。しかし牧ヶ野はそんな些事とも言える争いに参加を許されていないこともあり、自由に、真の研究者として活動ができている。
「だから君は学会の議論なんかよりも数倍有益な活動をひとりでやっているんだ。それは誇るべきことだし、自信を持って良いことなんだ」
 父親が子に自信を持たせるような優しくも力強い口調で、君津は続ける。
「勿論、俺は世界中の研究者と会ったことがあるわけではないし、俺らと同じように研究成果を国際的に発表できない優れた研究者もいるだろう。けれど、少なくとも俺は君の理論は他に類を見ないくらい正当で真っ当な『正解』だと信じられるし、信じたい」
 そう言って君津は牧ヶ野の前に片膝をつき、彼の手を取って続ける。
「だから、どうか俺に君の研究の手助けをさせてもらえないだろうか?」
 プロポーズのようにかしこまった君津の態度に狼狽しつつも、牧ヶ野は君津の真剣な眼差しを見逃さなかった。
 少しだけ気を落ち着かせた後に、牧ヶ野は「こちらこそ、よろしくお願い致します」と返答した。
「イクエちゃんって、同性愛者?」
「……は?」
「……え?」
 男ふたりがここでやっと玉懸の存在を思い出す。
「い、いや、違うって!」
「どーこーがー? ふたりだけの空間作っちゃってさー」
 もうやってらんないよ、と続ける玉懸に、君津と牧ヶ野がふたりがかりでご機嫌取りを始めるが、彼女の機嫌が直ったのは昼にシュークリームを食べた時だった。
 
 次の日の朝早く、牧ヶ野の研究室に三十歳前後の若い研究員が訪れた。
「玉懸博士、やはりこちらにいらっしゃいましたか」
 彼は牧ヶ野を視認できていないかのように無視して、玉懸に話しかける。君津はまだ出勤していないようだ。
「ヨーソローよーすけ」
「何がヨーソローですか、玉懸博士の言う通り魔法エネルギーを最も吸収する素材が見つかりま―」
「ダイヤモンド・C60・グラファイトとかの炭素化合物。他にも周期表で14族であればほぼ全てが同じく魔法エネルギーを吸収しやすい。しかし炭素の同素体は極めて吸収率が高い」
 玉懸の解答に言葉を失った男性研究員は、口を開いたまま立ち尽くしている。
「じゃあ、次はダイヤモンドとかの同素体による吸収率の差を氷と比べてみてね~。ああ、言わなくても分ると思うけど、氷を基準としてね」
「……は、はい」
 玉懸の口撃にあっけなくも撃退されてしまった男性研究員が肩を落として牧ヶ野の研究室をあとにする。
「お前、あの人に辛く当たりすぎだろ」
 よーすけと呼ばれていた研究員は玉懸の研究チームでも玉懸を管理する役割を持たされている。その結果として牧ヶ野の研究室に来ることが少なくはない。
「だってぇ、よーすけが……」
 牧ヶ野は玉懸が何を言いたいのか理解している。ようするによーすけ研究員が牧ヶ野を無視するのが気にくわないのだ。それを示すように頬を膨らましながら抗議する玉懸を制し、話題を変えようとする。
「はあ……まあ良いけどさ。お前には半年前の魔法エネルギーに関する研究の時とか色々研究を手伝ってもらっているし」
「イクエちゃん話が分るようになったね」
「今回は特別だ」
 こつんと玉懸の頭を小突いて、牧ヶ野は自身の研究に戻る。
「ちなみにひとりでみんなより先を行っているイクエちゃんは、今何を研究しているの?」
 研究と言っても今彼がやっているのは理論構築の段階で、実際に実証事件などはやっていない。だからこそ、今の彼には集中できる時間が必要なのだが、どうやら玉懸はそんな時間を彼に与えるつもりはないようだ。
「はあ、毎日ここに来てそれが分らないなら魔科学者失格だぞ」
「いやいや、研究分野が同じでも魔科学なんて膨大で曖昧な枠組みの中で、他人が何を研究しているか研究室を見るだけで分るのなんてイクエちゃんくらいだよ?」
「そんな難しくはないだろ。室内に書かれた方程式や置かれている材料でおおよそのことは見当つくだろうに」
「だぁかぁらぁ、そんなの普通できないってば。魔科学なんて最近も最近、ちょっきん直近の生まれたての子鹿ちゃん学問なんだから、方程式も説も学者ごとにほぼオリジナルだし」
「それでも、それなりの研究者なら皆根本的なところは同じ結論に至るし、そこから派生するのもある程度は予測がつくだろう?」
「つかねぇっ! イクエちゃんは少しは自分の凄さを理解した方が良いよ。みんながみんなイクエちゃんみたいに凄いわけじゃないんだから」
「別に凄いことはしてないんだけどなあ」
「……それが一番凄いんだよ、イクエちゃんは。……それより、結局イクエちゃん研究はなんなの?」
「それは俺も聞きたいね」
 そう言って君津が入室する。心なしか興奮しているようにも見える。
 牧ヶ野は君津の入室に多少驚きながら、どうやって説明して良いかを即座に頭の中でまとめる。
「えっと……これは……」
 そう言って牧ヶ野は手元にある設計図と、電子部品を指して説明を始める。
「ルースタングって知ってるよね」
「魔法を使うパワードスーツだろ?」
「うん。そうなんだけど、僕が注目しているのは契約不可者が使える方なんだ」
「ああ、確かにあれはあたしも気になってた~。魔族がその膨大な魔法エネルギーを使ってパワードスーツを動かしてるってのは理解できるんだけど、魔法が使えない人がどうやって動かしてるのかって」
「そう、そこで僕が最初に思ったのは『魔法ってなんだろう』ってことなんだ」
 そこまで聞いて、玉懸と君津の両名が意外そうな顔をする。
「魔法は地球の星体エネルギーを御して使われる力、だろ」
「うん、一般的にはそう理解されている。だから魔族達は膨大な魔法エネルギーに耐えられる身体をしているとも言われているよね」
「違うの?」
「いや、その解釈自体は間違っていないんだけれど、魔族だからといって魔法エネルギーに耐えられる身体を持つっていうのは少しおかしくない?」
 玉懸は少し考えるが、すぐに諦めて牧ヶ野に問う。
「どこが?」
「うん、じゃあ少し考え方を変えようか。……そうだな、例えば深海魚が深海の水圧に耐えられるのはなんでかな?」
「……高い水圧の場所に住むようになったから……あっ」
 君津と玉懸が同時に理解した顔を見せる。
「そう。同じように地球の中心、魔界には膨大な星体エネルギーが集まっているんだ。そんな環境にいれば膨大な星体エネルギーを御して、多大な魔法エネルギーにも耐えられる身体を得られることが可能だとも言える」
「つまり、魔界には魔法エネルギーの塊みたいなのがあって、そこからエネルギーを搾取して保管できるようにすれば……」
「魔法が使えなくてもルースタングは使える」
「でもでも、契約不可者用のルースタングは契約者や魔族は使えないって聞いたよ?」
「それは設計上に魔法エネルギーの運用に関する何らかの装置を付ければどうとでもできるよ」
 エネルギーの逆流を防ぐベントのような装置や搭乗者の魔法エネルギーを感知するリアクタとかでね、と机にある電子部品を見せながら彼は補足する。
「……そんな根本的なところにみんな気付いてなかったんだ」
 玉懸が心底驚き、感嘆の声を上げる。彼女は元々契約可・不可を気にしたことはないが、このように頭の良い牧ヶ野を見ていると契約不可者の方が優良種なのではないかとさえ思えてくる。
「この考え方自体は、気付いている人は気付いてるな。俺も似たような論文を読んだことがあるし。ただ、魔界へ行って実証実験とかできないから机上の空論だ、もっと現実的な理論を考えろって言う人が大多数なだけだな」
 君津は過去に読んだ論文を思い出しながら説明する。
「でも、イクエちゃんの手元にある部品は実際のルースタングに使われたものなんでしょう?」
 あくまでも自分を信じてくれようとする玉懸に少し感謝しながら、悪戯が見つかった子供のような顔をして牧ヶ野は弁解する。
「これは僕が作ったものだよ。だから僕の理論が実証されたわけじゃないんだ」
 そう言われて玉懸は自分がどれだけ短絡的な思考をしていたのか気付かされる。
ルースタングとはレーベンスラウムの国家機密。奉仕作業などで搭乗者とセットで実機の貸し出しは行っているものの、それを外部の人間に触らせたことはない。だから世界各国が喉から手を出してその構造を解明しようと奮起しているのではないか。
 しかし玉懸は思う。見たこともない機械の構造を理論だけとはいえ解明し、実際にそのパーツを作り出してしまう牧ヶ野はやはり天才と言えるだろうと。これは現代社会で構造を理解もせずに多くの機械を扱っている人達には無理とも言える。
 少なくとも玉懸は、牧ヶ野の説明なしではルースタングの構造に関する理論を構築することすらできなかった。
「じゃあじゃあそれじゃあさ、その設計図はルースタングなの?」
 牧ヶ野に影響された玉懸は今までの怠惰な研究態度をがらりと変えて、彼に質問する。
「これは……まあ、そうとも言えるし、違うとも言えるね」
 しかし、彼の返答は意外にも曖昧な返答だった。
「ええと、それはルースタングの構造を理論的に構築した、実在するルースタングとは違うかもしれないルースタングってことかい?」
 単に「ルースタングの構造を予想して書いた設計図?」と訊けばいいのに、自分の頭が整理されていないのか君津はまわりくどい訊き方をする。
「んー、これは未完成だからあまり他人には言いたくなかったんだけど……これはね、ルースタングをベースとした契約者用のパワードスーツなんだ」
 それを聞いてふたりは絶句する。
 ……契約者用のパワードスーツ? 世界各国がルースタングに対抗すべく色々な方法を模索しているのにも関わらず、彼はまさにそれをやってのけてしまったのか?
 玉懸の中に興奮と不安、尊敬と心配など多くの感情がない交ぜになっていく。
 絵の具は多くの色を混ぜると黒になるが、彼女の心は黒くもあり白くもあり青くも、赤くもあった。虹なんて目じゃないくらいに多彩な心境をどう表現して良いか分からず、彼女は「凄いね」という簡単な言葉しか口にできなかった。
 それに対する牧ヶ野は、今度ばかりは自分の成果に自信があるらしく、謙遜もせずに「ありがとう」と言っている。
 その日から玉懸萌花も君津雅之も自身の研究を完全に放置して、牧ヶ野の研究を手伝い始めた。
 最初は牧ヶ野も申し訳なさそうに断っていたが、やる気を見せている彼らの根気に負け、一週間と経たずに彼らが研究に携わることを拒まなくなった。
 
 それから一ヶ月後、レーベンスラウムの国家元首久瀬居一人から全世界の契約者に対して宣戦布告が成された。