
駄文集
伽藍球《-1章~哀しみの後に~》
1
一人は対面的に変わることはなかった。
姫美が死んでも学校に行っているし、新聞配達もしている。
ただ虐げられることはなかった。
姫美の件で自分達が越えてはいけない一線を越えてしまったと理解できたのか、それとも他の何か要因があるのか、一人には分らなかったが、一人を進んで虐めようとする者がいなくなった。
しかし今の一人は行動だけをする人形のようなものなので、実際に虐められているか本人は知らない。分からない。ただ痛みを感じないのでそう判断しているだけだ。
より正確には、彼は自分の周りで何が起こっているのかを理解していないのだ。
彼が学校に行ったり新聞配達をしているのは、それが以前から行われていたルーチンワークだからに過ぎない。
彼の身体が勝手にそう行動しているだけなのである。
そこに久瀬居一人という人間の意思は介在していない。
ただ、放課後に虐げられる時間がなくなったようなので、自由時間が多少ではあるが生まれた。その自由時間を彼は死に場所を求めることで埋めることにした。
勿論、これにも彼の意思は影響していない。
故に、とある雨の日には姫美の葬式へと行き、親族の人に殺されようとした。
しかし不幸なことに彼に気付く者はおらず、彼は物音を立てることなくその場を後にした。
次に、道路の真ん中に寝転んでみたりもした。
しかしそれも、腕を轢かれただけですぐに病院へと連れて行かれて、治療されてしまった。
この時、少しだけ一人の意思が囁いた。
『いつもは助けて欲しい時に無視するのに』
そんな囁きも頭の中に反響することなく闇へと呑まれていった。
そして次に、ビルから飛び降りて自殺をしようとした。
しかしそこには先客がいて、それは顔を腫らし、冬には厳しい衣服に身を包んだ子供だった。青白くなった腕には多くの痣が見受けられた。
けれどそんなのは一人も味わってきた。彼は子供を気にすることなく屋上の端に備え付けられた手摺りを越える。
「……お兄さん」
子供の声がするが、今の一人にそんな者を構う余裕などない。気にせずに一歩、淵へと歩む。
「お兄さんっ!」
どうせ死ぬんだ。そう思いつつも、何故か一人は首を曲げて子供に顔を向ける。
「―ひっ」
虚ろな眼を向けられて子供が一瞬驚く。しかしその一瞬で少年は何かを理解したのか、一人に話しかける。
「お兄さんも契約不可者?」
一人は頷く。
「僕もね、そうなんだ!」
何故か少年は嬉しそうに人類の汚点であることを主張する。けれどそこから会話は発展しない。
一人は会話が終わったと判断したらしく、もう一歩淵へと歩を進める。
「ちょっと待って! ……くだ、さい」
一人は再度少年を振り返り、言葉を待つ。
「……お兄さんは、死んじゃうの?」
しばらく考えてから、少年は申し訳なさそうに問う。
それに対して一人は何も考えずに首肯する。
「お兄さんも、何か辛いことがあったの?」
首肯。
「それはお兄さん自身が受けた仕打ち?」
否定。
「それじゃあ、それはお兄さんにとって親しい人が傷つけられたってこと?」
肯定。
「でも、お兄さんは無傷なんだよね?」
肯く。
「それなのに、なんでお兄さんが死のうとしているの?」
少年は真剣に問う。吸収できるものは出来るだけ吸収しようとする、そんな真っ直ぐな気持ちと、未来への断念がその無垢な表情から伺える。
「……」
一人は迷っていた。少年にどう答えるか、ではなくどうやったら応えられるかを。
この任は無意識には重すぎる。
しかし一人は無意識に全てを任せることに楽さを感じていた。自分は何もしなくて良い。身体が勝手に動き、必要な行動を取ってくれる。どんな仕打ちを受けても自分は大丈夫。身体が全て受け流してくれるから。
そんな人間としてあらざるべき楽さを彼は感じてしまっていた。
けれどそんな彼を誰が批難できようか。
今まで十分に耐えたではないか。もう良いだろう。
誰も死ぬまで耐えきることのできぬ生活を彼は強いられてきたのだ。
それを十年以上もの間、耐えてきたのだ。彼は頑張ったと言えよう。もし神と呼ばれる存在がいるならば、きっと神は彼を褒め称えてくれるだろう。よく頑張った。愚かな人間達に虐げられて大変だっただろう。そう全ての父たる神ならば言ってくれるだろう。
それくらいの苦行を世界は彼に強いてきたのだ。
もう良いのではないか。
けれど彼を取り巻く環境は彼にそんな楽な道を選ぶことは赦さない。
『苦労したか? ならもっと苦労しろ』
そんな風に、世界は彼に色々な課題を課して行く。
この時も、そう言うように『彼』は現れた。
「久瀬居、一人君、と言うんですね」
前触れもなくビルの屋上に降り立った『彼』は、少年を無視して一人にそう尋ねる。
一人は首肯しようとするが、すぐに『彼』は手を出して制止するよう伝える。
「私は貴方の『言葉』で聞きたい。貴方は誰なのか、を」
少年は驚きながらも、口を出せずに二人を交互に見る。
『彼』は厳しい顔をして一人を真っ直ぐと見据えている。
一人だけが、誰も見ていなかった。
「く、せい、かず、と」
虚ろな眼から発せられたような声がふたりの耳へと届く。
「それが貴方の『言葉』なのか」
厳しい口調で『彼』は一人を批難する。そうではない。そのままではいけないのだと言うように。
「……」
そのまま一人は黙ってしまう。
一人は理解していたから。『彼』とまともに話すには無意識のままでは不可能であることを。そしてそれは、自分を守る無意識の外郭を解くということを。
一人は無意識が守ってくれる外郭の中で考え、呪う。
どうして誰も助けてくれないのだ、と。
どうして皆僕を虐げるのか、と。
どうして僕がこんなにも辛い思いをしなくてはならないのか、と。
そんなことを思っている一人を見透かすように、『彼』は唐突に少年へと向き直り喋り始める。
「……君は、彼がどうして死のうとしているのかを訊ねていましたね」
優しいトーンに口調を変えて突然話しかけられたことに少年は驚くが、彼も自分の未来が一人のようになるのだと確信し始めているので、引かない。
一人は契約不可者。そして少年自身もまた、契約不可者なのだ。
一人に起こった出来事は全て自分にも降りかかる可能性がある。少年はそう考えている。
故に少年は真っ直ぐに『彼』を見て、肯く。
それに対して『彼』は少し感心したような仕草を見せてから、少年に一人が巻き込まれた数々の『悪意』を伝える。
日々の暴力。罵倒。攻撃。
少年はそれらをまるで自分が感じたかのように辛い顔をしながら、目を反らさずに聞く。
そして『彼』が仲西姫美について語り始めた頃、一人に変化が見られた。
それは『彼』がわざと姫美を馬鹿にしたような口調で話したからなのか、それとも単純に一人が思い出したくないことを口にしたのかは分らない。
けれど、一人は口を開いて「黙れ」と一言だけ、感情のこもった声を発した。
それを聞いて『彼』はわざとらしく驚いたように一人に向き直り「何か仰いましたか?」と訊ねる。
「黙れ、と言った」
「だから黙れと?」
はんっ、と一人が冗談でも言っているかのように小馬鹿にして『彼』は少年に向き直ろうとする。
「お前の目的はなんだ」
一人は始めて姫美以外の人間に敬語を使わずに訊ねる。
それに満足したのか『彼』は少年に「残りは彼に聞きなさい」と言って一人を真っ直ぐと見る。
「私の目的は、貴方を魔界へとお連れすることです」
恭しく一例をして、『彼』は一人の瞳がもう虚ろではないことを確認する。
「魔界に連れて行ってどうする気だ?」
「それは貴方次第です」
「僕に何かをさせたいんじゃないのか?」
「それは勿論。しかし、貴方がそう望まなければ強要はできません」
僕に利用する価値があるのか。そう一人は思うが、ここで訊いても『彼』はおそらく正直に応えないだろうと予想し、口を閉じる。
「もし貴方が私の話に興味持ったなら、以前お教えしたビルまでお越し下さい」
これ以上話しても意味はないと思ったのか、『彼』は来た時と同じように飛び上がり、去っていった。そして『彼』の言葉から『我慢ができなくなったら』という一文が消えていることに一人は気付いた。
2
『彼』が去ってから、一人は少しだけ考える必要が生じた。
それは魔界へと行くこともそうだし、なによりも今後の生きる意味を考える必要性があった。以前までの『姫美を哀しませたくない』という偽善的な言い訳では駄目だと確信したからだ。
しかしそれも、自分と同じ契約不可者である少年と話していて何となく理解できた。
少年は一人のようにあれこれ考えて生きていない。
何かの為だとか、何故だとか。
それは少年が契約不可者となってから三ヶ月程度しか経っていないからかもしれないが、一人にとってはその頃の自分を思い出すには十分な存在だった。
だから一人は少年の疑問に真摯に答えたし、姫美の件もきちんと心境を交えて伝えた。
そして最後に単純な興味本位から一人は少年に尋ねていた。
「君は、これから苦難しかない人生でも生きる価値があると思うか?」
それに対して少年は迷わずに、瞳がそうであるように真っ直ぐと一人を見つめて応えた。
「うん。僕もお兄ちゃんみたいに僕を思ってくれる人に会えるかもしれないもん」
その言葉を聞いただけで、一人は涙を流して笑ってしまう。
少年は先程まで聞いていた苦難をさほども理解できていない。
それでも、彼は自分が遠く昔に落としてしまったものをまだ持っているのだな、と一人は思い、涙を流していた。
そこからしばらく笑ってしまったことを少年に怒られるが、どうにか宥めて、一人は思い付いたことを口にする。
「君にはこれから本当に辛いことが何度も起きると思う。いや、絶対に起こる。でも辛いと感じたらここに来て欲しい。そして今日の自分を、それと今日の僕を思い出して頑張って欲しい」
そこで一旦区切る。少年は理解しようと努力するような顔をしている。
「近い将来に、僕は君達が普通に暮らせるようにするから」
「そんなことできるのっ!?」
「できるさ。なんたって僕は魔界に行くんだからね」
一人は将来の夢を少年に語り、少年は一人を信じると誓った。
一人は無意識下でこの屋上に来たが、もしかしたら『彼』に誘導されていたのかもしれないな、と思いながら心の中で『彼』に感謝した。
3
「本当によろしいので?」
「ああ、これだけはやっておかないといけない」
「それなら貴方が直接やるべきでは?」
「いや、これは心の中で区切りを付ける為にするのであって、復讐なんかじゃないんだ。僕がやったら復讐になってしまう」
「そうですか。それではすぐに戻ります」
そう言って『彼』はすぐに闇へと消える。
一人は魔界に行く条件のひとつとして、姫美を襲った奴らに制裁を与えることとした。
そしてそれには一人も含まれており、先程まで『彼』は一人のありとあらゆる部位を殴打していた。
よって、今の一人は現在ぼろぼろである。
そして、そのまま一人は魔界へと行くつもりだ。
理由は彼が契約不可者として虐げられていただけではなく、彼もまた罪人であると魔族に知らせる為だ。
姫美という幼なじみを死に追いやったのは自分である。
一人はその十字架を、一生背負っていくと少年との会話で決めたのだ。
逃げてはいけない。目を背けてはいけない。他人の所為にしてはいけない。
事象の一端は自分によって展開されるし、その所為で多くの事象が展開されてしまう。そしてそれら事象は良いものもあれば、勿論悪いものもある。良い結果だけを取り出して功績をねだってはいけないし、悪い所行だけを切り取って罰することもしてはいけない。
この世に存在する限り多かれ少なかれ、自分は多くのものに影響を与えている。
蝶々の羽ばたきが世界を分岐するのであれば、より大きな体躯を持った人間の動作は一挙手一投足、考えて行われなければならない。
それが久瀬居一人が行き着いた結論であり、人生観でもあった。
「ただ今戻りました」
よしっ。一人は心の中でそう意気込んで、ぼろぼろの身体を『彼』に支えてもらいながら、地球内部の空洞、通称魔界へと向かった。