駄文集


伽藍球《-3章~絶望ときっかけと~》

 1

 
「ふう」
 秋が終わり、冬が来た。
 寒さが契約者達と同じように一人の傷を痛み付ける。
「さすがにナイフは痛いな」
 一人は刺された腹部に手を当てて、よろよろと公園へと向かう。
 新入生達の行動は日に日に激化していた。
 初っぱなから過激とも言える鉄パイプを使用していたが、今はそれだけでは満足できないようで、ナイフで死なない程度に斬りつけるのが気に入っているらしい。
 一人は殺されないと分かっていても、今の彼らに対して懸念がないわけではない。
 しかしこのように加害者が調子に乗り始めて、命の危険性が増すのは初めてではない。彼ができるのは、重体に陥ったように見せかけて彼らを驚かせ、暴行の具合をセーブさせることくらいしかできない。
 だがそれもまだ早い。そう一人は思っていた。
 すぐに驚かせてしまうと、一定期間を空けてまた同じ行為が繰り返される。
 それを避けるには驚かせる時期を、彼らが飽きる時期と重ならせるのが最善だ。
 殺人罪へと恐怖と飽きが重なれば、彼らは同じ事を繰り返そうとは思わない。
 それが少なくとも一年間くらいは効果があると一人は知っている。
「わっ!」
 公園へ辿り着くと姫美が一瞬驚いて、すぐに駆けつけてくる。そしていつものように会話をするよりも先に治癒魔法を一人にかける。それが終わると真剣な表情を解いて、いつもの他愛もない会話が開始される。
 その会話の大半は姫美が一人に向かってその日一日何があったかを語るだけ。一人はとてもではないが自身に起こった出来事を姫美に報告することなどできない。
 語り始めれば一人の心は決壊してしまうだろうし、何しろそんなことを姫美に言ったところで彼女が哀しむ以外の変化は起こりえない。
 けれど時には一人にだってその様なことを知りつつも喋らないと壊れてしまいそうな出来事もある。今日、体育教師によって行われた行為もそのひとつだ。
 その教職員は、意外にも入学から今日まで一人に対して悪態を吐くこともなく、無視をすることで彼を守ってきていてくれた。それだけではなく、一人を心配するような言葉さえ、時々かけてくれていた。
 そんな心優しそうな体育教諭に少しだけ心を開いた一人は、少しばかり自分の現状を話してしまった。勿論、これは訊かれたからその質問に答えただけだったのだが、体育教諭の声を取り除いた録音データが彼を積極的に虐げる者たちに渡されていた。
 それを聞いてちくられたと判断した者たちは、新入生達を含めて彼を制裁した。
 制裁自体に一人は何も感じない。痛覚はいまだ健在だが、精神的には何も感じない。
 どれほど殴られても、どれほど蹴られても、刺されても、彼はその行為に対して何も感じない。身体的な痛みは姫美が取り除いてくれる。
 けれど信頼し始めていた体育教諭に謀られたのは、本当に痛かった。
 一年以上も良くしてくれていたのにも関わらず、体育教諭はこの時を待っていたかのように彼を裏切った。
 それも制裁者達によると体育教師が彼に「大丈夫? 何かあったらいつでも言ってくれて良いから」と訊ねる時は決まって自身の気分が悪い時で、そうやって一人を裏切ることで憂さを晴らそうとしていたらしい。
 だから一人は哀しまざるを得ない。心を痛めざるを得ない。
 彼が見た、あの慈愛を含んだ笑顔は彼に対する敵意を偽ったもので、体育教師の本当の笑顔は彼がリンチに遭っている間見せていた醜い表情だったのだから。
 しかし一人は姫美にそんなことは話せない。
 彼も体育教師と同じように、まったく違う目的で、表情を偽り、姫美を騙す。
 泣くのは我慢だ。
 喚くことは許されない。
 一人はそう自分に言い聞かせて姫美の日常を聞き続ける。
 姫美に自分の日常を知らせてはならないと言い聞かせながら。
 
 2
 
 制裁はわずか二週間で終了した。
 いや、一人には終了したかどうかなど分らない。ただ、その日の制裁者は新入生だけに留まり、彼らは「先輩達の分もやってやるよ」と息巻いていた。
 その言葉から一人は憶測したに過ぎない。
 とはいえ彼の経験則上、一度飽きた人間が何らかの理由で再度暴力を浴びせてきた場合、一日でも空白期間があれば彼らはもう二度と自主的に暴行をしてこないことを知っている。
 ただ、彼は人間が学習するということを失念していた。
 暴力に飽きたからといって彼を虐げることに飽きたわけではないことを理解していたのに。
 だから、一人は警戒を緩めてしまった。
 姫美に治療してもらう前に、悪意を持った彼らを撒いてから公園へと向かうことを怠ってしまった。
 しかしそれは状況として仕方がないという部類に入るだろう。
 何しろ新入生達は先輩がいない久しぶりの暴行に躍起になり、一人を死の一歩手前くらいまで痛め付けていたのだから。
 最短距離で姫美に向かわなければ死んでいただろう。
 一人の容態はそこまで酷かった。
 むしろおぼつかない思考と身体で良く公園まで辿り着いたものだと誰もが感心しても良いくらいだ。当然の如く、契約不可者に対して関心どころか感情を動かす者などいはしないが。
「……ふぅ、よしっ!」
 その言葉を聞く頃には、一人の死は遠ざかっていた。
 そして彼はふと思ってしまう。途中で野垂れ死んでいれば良かったのではないか、と。
「こら! そんな顔しない」
 戻ったばかりの意識は彼の表情をコントロールできていなかったようで、自らの死を望んだことを姫美に悟られ、怒られてしまう。
「ごめん」
「ううん。今日は特に酷かったもんね。仕方がないよ」
「ごめん」
 一人は姫美に陰鬱な感情を見せてしまったことを真摯に謝る。それだけは彼女に感じて欲しくない感情だったから。
 しかし死を考えていたことを謝られたと勘違いした姫美は「もうそんなネガティブなこと考えちゃダメだよ」と一人に言って、いつも通り無垢な表情を見せる。
 それを聞いて、一人の中に罪悪感が広がる。
 姫美は僕が死にたいと考えていることを知らない。
 僕が死ねないのは姫美を哀しませたくないというたったひとつの理由からであることを知らない。
 こうしてもう何年も考えないようにしてきた問題を、一人は思い出してしまった。
 一度は無視することで先延ばしにしてきた問題。
 一人がもう十年近く感じてきた、たったひとつの願い。
「……僕は、死にたいんだ」
「……え?」
 抑えきれなくなった罪悪感は、無意識が支配した一人の口から唐突に出た。
 そして自分が今口にしたことが山彦のように頭の中で反響する中、一人は津波の如く溢れ出す感情に翻弄され、自分が何を言っているのか理解できないまま今まで押し留めていた考えを姫美に向けて捲し立てる。
「えっ? えっ?」
 感情に支配された口から出る言葉に呆気に取られている姫美を、冷静さを保った眼は無感情に見つめる。
 驚いているな。
 一人の意識は彼が動かす口とは違い冷静に稼働していた。
 それもそうか、僕は今まで思っているだけで口に出したことはなかったからな。
 そう冷静に思考していると、口は「姫美が原因で死ねないんだ」と言い、溢れ出す感情の奥底にあった、的外れとも言える妬みを最後に、閉じた。
 姫美は驚いた表情のまま目に涙を溜めている。
 一人は自分がどれだけ非道いことを言ったのか理解している。しかしそれでも彼は自分が言ったことを訂正する気はなかった。
 これで良い。これで良いんだ。
 元より一人は契約不可者。契約を成功させた姫美が一人のような人間を対等な人として扱うべきではない。
 今はこのような状態でも良かったとしても、今後もそうである可能性はないのだから。
 一人はそう自分に言い聞かせて、今度は感情に支配されず、口を開く。
「だからこの関係は今日までにしましょう。明日から僕らは契約者と契約不可者です。姫美さんは僕みたいな物にも劣る人間を相手にしちゃいけません」
「でもっ!」
「でもじゃありませんよ。姫美さん」
「……き、傷の治療とか―」
「必要ありません」
「それだと、かず君が―」
「死にはしません。今の社会で契約不可者は死ぬことは許されていません。僕たちは人以下の存在としていき続けなければならないのです」
 一人はそこまで言って、姫美が反論をする前にまた口を開く。
「それに、僕が死んだ方が姫美さんはしがらみがなくなって良いでしょう?」
 姫美は立ち上がり、手を振り上げる。それを見て、一人は彼女が殴りやすいように頬を差し出す。
 そんな一人の動作が姫美を止める。
「……ど、どうして―」
「僕は姫美さん達契約者に生かされている者ですから」
 姫美を遮って、一人は挑発するように頬を差し出しながら自らの立場を姫美に伝える。
 それを聞いて姫美は手を下ろし、一人を振り返ることなく公園から出て行く。
「……ふう」
 溜息と共に頬の横を流れ落ちる液体を拭い、彼は星の見えない夜空を見上げて呟く。
「これで良かったんだよな」
 返答はなかった。
 
 3
 
 そこから三日間、一人の生活は激変した。
 大きく変わったのは姫美の治療がなくなったことにより、倒れて病院に搬送されたことだ。勿論、病院での扱いも良いものではなく、相変わらず人間として扱ってはもらえなかったが、治療だけは施してもらえた。法律に遵守しての行為だとはいえ、一人は少なからずこれに感謝していた。
 そして病院へ行ってからは良いことが増えたように彼は感じる。
 病院側も一人のような人間を入院させたくないということから、すぐに立って歩けるようなレベルまで処置してくれ、新入生達も怪我が一日で治らないと分ると、暴行のレベルを落としてくれた。
 ただ、それらの利点の代わりに精神的な攻撃が多くなったが、その攻撃のほとんどは一人の小学校時代に受けたことがあるものばかりだったので総合的に見ると生きるのが楽になったと言えよう。
 つまり客観的に見ると姫美を遠ざけたのが功を成した。
 しかし今後のことを考えるとそう楽観視していられるわけではないと一人は理解している。物理的な嫌がらせは姫美がいようといまいと、いつかは治るものだ。勿論、現段階での精神的な嫌がらせも、傷付きはするが、いつかは精神的に慣れて何も感じなくなる。
 だが一人は経験則から知っている。暴行と同じように精神的な攻撃もやはり、エスカレートしていくものだということを。
 今は小学生レベルのものかもしれない。だが明日はどうだろう。
 明後日は。明明後日は。来週は。来月は。来年は。
 一人とて馬鹿ではない。今日明日の段階くらいまでならどれだけの攻撃へと発展するかくらいは予想が付けられる。予想が付けられれば心構えもできる。
 それでも一人は人間だ。いつ何時に何が起こるかなど予見できるわけではない。
 いつか自分は立ち直れないくらいの仕打ちを受けるだろう。そう理解していても、彼は予想もできないレベルの仕打ちに耐えられる自信はない。
 遠からず、自分は壊れてしまう。
 そんな悲観的な予想が単純な引き算のように理解できてしまう。
 その時彼はどうするだろう。自分が壊れてしまい、地位だけでなく思考までもが人間ではなくなってしまった時、何を思い、何をしてしまうのだろう。
 姫美から離れた三日間、彼はその事だけを考えていた。
 答えはいまだ分からない。
 いや、一人はその時になるまで分らないのだと考えることを諦めていた。
 だってそれは、壊れた人ならざる者の思考だ。人間程度に理解できるはずがないじゃないか。
 そう心の中で一人は区切りを付けてしまっていた。
 
 4
 
 それから一ヶ月が経ち、一学期も終盤に入っていた。
 一人の予想通り、彼への精神攻撃は日に日に強まっていた。
 姫美が治療魔法を覚えた中学生からは、彼も意図的に周囲が暴力を振るうように仕向けていたので、現在の精神的な攻撃に関しては未経験なものが多く、彼はやつれていった。
 外見だけでも、辛うじて一人だと判別できるくらいで、おそらく姫美や福津が彼を見てもすぐには分らないだろう。いや、廊下ですれ違っても近くに彼がいたことすら気付かないだろう。
 何故なら一人は自分の気配を消すように、空気と同化するように、最大限努力していたからだ。空気であれば誰も気付かない。誰も貶さない。誰も攻撃しない。
 いつしか一人は溜息を吐くことさえ止めていた。
 同類足るべく、空気を虐げなくなったのだ。
 しかし、そんな空気も存在を主張させられる場面がある。
 例えば出席。
 例えば皆がグループを作らせられる時。
 例えば、呼び出された時。
 この日はその全てが実現させられた。
 勿論、学校という地獄に通っていることから出席や呼び出しは毎日ある。
 そしてその度に一人は気付かされる。
 どんなに空気になろうと努力しても、彼は空気には成れない。それは、当たり前のことなのかもしれないが、一人にとってはとてつもなく哀しい事実だった。
「久瀬居一人く~ん」
「くっせ、イカ、ずと、君」
「イカ臭え、ずと君?」
「ひゃははは、誰だよそれ」
 くだらない発言をしながら違うクラスの男子達が一人を教室の戸口で呼び出す。
「はい、なんでしょうか?」
 彼らを驚かせないように、一人はすぐに同化を解き、人間もどきとなってから彼らのもとへと向かう。
「あっ、マジでいたんだ」
「こいつホントに影薄いよな」
「ああ、俺とかマジでいると思わなかったもん」
「いるなら返事しろよっ」
 バチンという擬音と共に一人は右頬を殴られて倒れる。
「いやいや、ちみ。彼は返事してたよ」
「えっ? マジで?」
「ああ、してたかも」
「してたのに殴っちゃうなんてかわいそぅ~」
 殴られた頬を擦りながら、一人は彼らを見上げる。最近はそうでもないが、意外にも数名ほど女生徒がいた。
 そして女生徒がいる場合の攻撃パターンを一人は瞬時に思い出し、まだ受けてもいない辱めに気分を落ち込ませる。
 そんな一人の変化を見たひとりの女生徒が彼らの注目を集めてから口を開く。
「ほらほらぁ、一人君落ち込んじゃったよぉ」
 それを聞いて他の女子達が口を揃えて一緒にいた男子達を批難し始める。
 客観的に見ると、これは一人にとって良い状況のように見えるだろう。しかし、その批難を浴びせられている男子達が皆一様に口を歪ませながらわざとらしい謝罪を述べていることから、これは自分を虐げるイベントへの導入部なのだと一人は理解していた。
 絶望へのプロローグなのだと。
「ごめんな~、一人」
「俺も、ごめん」
「俺も俺も」
 予想通り次々と男子達が一人に謝り始める。しかし演技だとは知っていても無視してはいけない。
「いえ、声が小さかった僕が悪かったんです。申し訳御座いません」
 そう言われることを予測していたのか、とたんに女子達の口元も醜く歪む。
「ほらぁ、いつもあんたら一人君虐めるから全然信用してくれてないじゃん」
 まさに待っていましたとでも言いたそうに、嬉々としてひとりの女性とが男子達を批難する。それに残りの女子達が続く。
「そう言ったって、じゃあどうすれば良いんだよ?」
 にやついた顔で、逆ギレしているかのような言葉をひとりが口にする。
 ……ああ、そういうことか。
 ここまできて、一人はおおよその展開が理解できる。
 謝罪ということで、彼らはこれから何らかの奉仕をすると口にする。勿論、一人はここで一度は断らなければならない。でないと彼への攻撃に物理的なものも含まれることとなる。そしてその何らかな謝罪は、彼を精神的にいたぶるものである。
 ただ、一人はその謝罪という名の仕打ちがなんなのか確信を得られない。可能性は十数パターンほど予測できるが、どれもここまで手間をかけてまでいたぶるには彼らが得られるであろう満足感と釣り合いがとれない。
 そこまで考えて、最悪のパターンがひとつ予測された。
 たしかにそれであれば彼らの満足感は、手間と釣り合わせてもお釣りが来るくらいだろう。だが、それはあり得ない。あり得ないと信じたい。
 一人はそう願いながら、予想してしまった言葉をひとりの男子生徒が口走るのを聞いてしまう。
「ああ、じゃあお前と仲西を仲直りさせてやるよ」
 
 5
 
 日が沈み、全てが終わった後、一人と姫美は廃屋に放置されていた。
 ふたりとも服を着ておらず、目の焦点も合っていない。
 一人は床に両膝を着いて虚空を見つめ、姫美は机の上に死体のように仰向けに寝かされている。
 姫美の開かれている両目から流れていたであろう涙は、もうそこに流れていたという形跡しか残さず、僅かに聞こえる彼女の呼吸音は、声が嗄れていることを証明するように掠れている。
 一方一人は呼吸をしているのかすら分らないくらい微動だにしない。
 この状況はもう一時間ほど続いている。
 動いているのは割れている窓から見える外の情景のみ。
 一人はもう、何も考えられないでいる。それを咎められる者がいるはずもない。
 彼は目の前で鬼畜としか言えない所行を目の当たりにした。それだけではなく、それに荷担するようにも仕向けられた。
 これだけで、彼の生きる気力はマイナス値へと陥れられていた。
 まさに地獄とも言える状況は実際には二時間も行われていない。しかし言葉にして表わせられないほどの苦痛は、ふたりの体感時間にすると人生の終わりまでの時を要したのだろう。
 故に、彼らは今死んでいると言っても過言ではない。
 それでも、意外にも姫美は起き上がって破かれた衣服を着始める。
 淡々と、無言で行われるその作業に絶望に埋め尽くされた一人の思考が少しだけ動き始める。しかしまだ身体を動かすほど意識を取り戻せない。
 それを知ってか、姫美は無言で一人に近づき、彼に服を着せ始める。
 まるで等身大人形に服を着せるように、姫美は苦労しながら一人の死体を動かして服を着せる。
 そして、自分と同様に破けた服を着た一人を見て、口を開く。
「ごめんなさい」
 その言葉は、最初一人にとっては音でしかなかった。
 それを言葉と認識できたのは姫美が去って数十分後。
 頭の中で反響していた姫美の声をやっと言葉だと理解できた一人は、涙を流した。
 なんで。なんで。なんで。
 頭の中に浮かんだ始めの思考は、疑問を問いかけるものだった。
 何故、姫美が謝るのか。
 悪いのは契約不可者である自分なのに。
 契約をできなかったから。僕が姫美の側にいたから。それを目撃されてしまったから。
 なのに、何故彼女は謝ったのか。
 悪いのは僕のなのに。
 一人は繰り返しそう思いながら、ただひとり残された廃屋で鳴いた。
 嗚咽に混じったその悲鳴は、しかし、誰にも聞かれることはなかった。
 
マイナス二章~愛情憎悪~
 
 1
 
 かつての親友を結果的に助けてから、変わったことがあった。
 姫美が語る会話の半分以上が一人のことになった。
 姫美と俺、一人は皆クラスが違う。
 だから姫美が一人のことを話すのはおかしいことだと、少し考えれば分るだろう。しかも醜く歪ませた笑みではない、純粋な喜びの感情を込めて彼女は話す。
「姫美、一人のことを聞かれたらまずいだろう?」
 今日も一応、制止をかけておく。
 すると姫美の表情は一瞬だけ曇り、俺にばれないように元の朗らかな表情へと戻す。
「そうだね。ごめんね」
 違うんだ姫美。お前にそんなことを言わせたいわけじゃない。
「気をつけろよ」
「うん」
 一瞬の沈黙。
 俺が作った沈黙。
 何故だろう。少し前までは一人以外のことも姫美は話せていたのに。
 何が変わったんだろう。
「そういえばさ、昨日見たテレビでな……」
「うん」
 完全に上の空。
 何を話せばいいのだろうかと考えながら、色々と話題を変えて話しかけてみるが、姫美は何かを考えているように適当な相槌を打つだけた。
「……はあ、時間は大丈夫か? 今日も一人と待ち合わせているんだろう」
「あっ! ほんとだ。ありがと、しんちゃんっ!」
 すぐに心の底から出していると確信できる笑顔を俺に向けて、姫美は駆けていく。
 姫美は一人に何を見ているのだろうか。
 俺には以前のように尊敬できる人間は一人に見ることはできない。
 今の一人は、見かけだけ同じように成長した別人だ。
 俺の知っている一人ではない。
 俺の尊敬した一人は小学校入学の前日に魔界へ行って帰ってこなかった。
 そう思うことにしている。
 そうすることで自分が守れるから。
 かつて自分が尊敬し、憧れた人物の一人だなんて。
 納得できるはずがない。
 なのに、姫美はほとんど変わらず一人と接している。
 いや、むしろ最近は特に一人に執心しているようにすら見える。
 あんな契約不可者のどこが良いのか。
 あんな奴より俺の方が……。
「いけないな。例えあいつが努力していなくても、蔑むべきじゃない」
 一瞬だけ、他の奴らと同じそうになった自分を諫めて、俺は生徒会室へと戻った。
 
 2
 
 今日も姫美は一人のことばかりを話した。
 
 3
 
 今日も一人のことばかり。
 
 4
 
 今日も。
 
 5
 
「一人のことが好きなのか?」
 ほんの意地悪をしてみたかっただけ。
 そう言えば、恥ずかしさから今後一人のことを話さなくなるだろう。
 そう思い、ほんの少し嫉妬心も籠もっていたのかもしれないが、そう言った。
 だから、姫美の顔を見た時は絶望した。
「……えっ?」
 何故そんな顔をする。
 うちに秘めた恋心を明かされた、女の顔。
 それは俺の知っている姫美の顔ではなかった。
 彼女は純粋で、無垢で、優しくて。女の顔をするような人間ではなかった。
 なのに。なのに。なのに!
「い、いやだなぁ、しんちゃん。なに言ってるのぉ」
 動揺している。
 恥じている。
 頬を朱色にしている。
「そ、そうか。そうだよな」
「そうだよぉ」
 ふざけるな。
 
 6
 
 今日は珍しく昼休みに姫美の方から呼び出された。
「どうしたんだ?」
 昨日までとは違う。
 暗い表情。
 一晩中泣いたような、赤い眼。
 そして、開口一番から一人のことを語らない。
 決定的だった。
「……一人に何かされたのか?」
 一人、という声に姫美が目を見開く。
 そして少し迷いながら、姫美は申し訳なさそうな顔で口を開いた。
「かず君にね、拒絶されちゃった」
 ……な、に?
「かず君はね、死にたいらしいんだ。それで私が居ると邪魔なんだって。……だ、から……ぐすっ……私に近づくなって」
 ああ、そう言うことか。
 想像したことと違って、俺は安心した。
 それから、俺は姫美をあやしながら親身になって一連の出来事を聞いた。
「つまり、一人は姫美に危険が及ぶから遠ざけたってことじゃないのか?」
「そうだけどっ!……でも、私は……」
「一人には申し訳ないけど、俺は一人に賛成だ」
 俺は嘘を吐く。
 一人に申し訳なさなんてこれっぽっちも感じていない。ただ単に、姫美を一人から離そうとしているだけだ。
「一人に近づきすぎれば色々な被害や問題を被ることになる」
「でも、私はそんなの気にしない」
「それは姫美がまだそこまでの被害を被っていないから言えるんだ。もし、姫美の家族が一人と仲良くしている姫美のせいで虐げられ始めたらどうする?」
「そ、それは」
「あり得ないことじゃないのは分るだろう」
「……うん」
「それに、一人も姫美のことを心配しているから遠ざけているんだ。そんな一人を裏切っちゃ駄目だ」
「…………うん、分った」
 明らかに納得してはいないようだが、それでも頭では理解できたようなので、俺はこれ以上この会話を長引かせない。
 もし必要であれば明日あたりに「俺が影ながら危険が及ばないようにしてやる」とでも言えばもうこの件は終いにできるだろう。
 
 7
 相談を受けた次の日の放課後。
 一人が病院へと搬送された。
 俺は生徒会役員としてやらなければならない仕事があった為、遅くまで残っており、そうそうには処理できないほどの書類とにらみ合いをしていた。そして姫美に一緒には帰れない旨をメールで伝えた後に、根を詰めすぎるなと釘を刺されたこともあり、気分転換を兼ねた校内の巡回に出ることにした。
 その途中、プールの更衣室から出てくる青ざめた一人と出会した。
「おいっ! 大丈夫か!?」
 明らかに大丈夫でないのは彼が引き摺っている足下に溜まった液体が知らせてくれる。
「おいっ!」
 返答はない。
 一人はなにも見えていないのか、俺を無視して何度も転んでは倒れを繰り返して校門へと向かっている。
「……くっ」
 かつて衆目にその器を晒し、認められ、慕われた者の成り果てがこんなにも惨めな姿になっている。
 彼が何をしたんだ?
 何もしていない。
 でも、だからといって俺が他人をどうこう言えるわけもない。
 俺だって、彼を虐げる一員にして一因なのだから。
 それでも、今ここで俺にもできることはある。
 俺は救急車を呼び、一人がきちんと運び出されるのを見届けなければならない。
 すぐに携帯を取りだして、救急車を呼ぶ。
 その間に一人が無茶をして自分の死期を呼び寄せる真似をさせない必要があった。
「止まれ」
「……」
 一人は意外にも俺の言うことを素直に聞き、即座に停止した。
 それがまた、俺を苛立たせる。
 お前は無意識の状態でも他人の言うことを聞くようになってしまったのか。
 そんな俺の苦心を知ってかしらずか、サイレンと共に、救急隊員達は程なくしてやってきた。
「彼に何が起こったのですか?」
 優しそうな救急隊員が俺に、一人が何故今眼にみえる悲惨な状態になっているのかを訊ねる。
「……彼は、契約不可者なので」
 そう言った瞬間に、優しそうな救急隊員は表情を激変させる。
「役立たずだってよ~。適当に救急車ぶっ込んどけ」
 俺は自分の耳と目を疑った。
 ほんの数秒前まで優しそうな声と顔で俺に語りかけていた救急隊員は消え、醜い表情の男が現れた。しかも彼は、一人を人間と扱おうとしていた同僚達に「それは物だぞ。丁寧に扱うだけ損だ」とでも言うように一人が契約不可者であることを伝えた。
 一人は今までこのような世界にいたのだろうか?
  自分が契約者と分った途端に対応を変える人間達。
 優しそうな人間の裏側。
 社交的な場では見られない、仮面が覆い隠した人々の本性。
 誰を信じて良いかも分からず、物として扱われる為だけに存在するギャップフィラーとしての役割。
 そんな世界にお前はいたのか。
「あの!」
 何か言ってやらなければと思い、口を開くが、何も出てこない。
 俺は一人のいる世界になど行けない。
 そんな人生に耐えられる気がしない。
「なんですか?」
 救急隊員が仮面を俺に見せる。
「……え、あの」
 仮面では隠しきれない救急隊員の目を見てみる。
 酷く濁っているように見えた。
 それだけで、俺は尻込みしてしまう。
 俺には勝てない。
 正しくても、どうしようもないことは沢山ある。
 これもそのひとつだ。
 逃げではない。処世術だ。
 そう考えている自分に嫌気がさすが、やはりどうすることもできない。
「一応学内で起きたことですので、必要最低限の処置はお願い致します」
 心にもない言葉が頭から降りて、口を出た。
「はい、それはもちろん」
 任せて下さいとでも言うように救急隊員は俺に優しく言って、救急車へと入っていく。
 サイレンが鳴ることもなく、ゆっくりと救急車は校内から出て行った。
「……」
 無言で俺は立ち尽くす。
 どうすれば良かったのだろうか?
 誰か答えを知っているのだろうか?
 分らない。
 そんな行き場のない疑問を抱えながら、俺は数分ほど疑問だけを頭の中で問い、生徒会室へと戻った。
 俺にはやらなければならない仕事があるのだ。
 そう言い聞かせながら。
 
 8
 
 一人のことを考えさせられ始めた俺とは違い、姫美はここ一ヶ月で随分と一人に構わない生活に慣れたようだった。
 そんな姫美を見ていると、ふと訊ねたくなってしまう。
『俺達は本当に人間なのか?』
『本当は悪魔なのではないか?』
『契約できなかった人間達を虐げている悪魔なのではないか?』
 最近はそんなことを何度も口走りそうになってしまう。
 もしかしたら、今日こそは姫美に会ったら言ってしまうかも知れない。
 そんな答えのない疑問を、俺は姫美に押しつけてしまいそうだ。
 だから、今日も登校途中は足が重かった。
 その所為か、ふと時計を見てみると遅刻ぎりぎりの時刻を指していた。
 走らなくては。
 そう思うと同時に、視界の端に一人が見えた。
 下を向き、眼に生気はなく、絞首台へと赴く囚人のような不安定な足取りで彼は歩いている。
 見るだけで痛々しい。誰もが目を背けたくなる姿をしている。
 実際に俺も、一人の何万分の一ともなる我慢ができずに、目を背けてしまう。
 辺りを見回してみるが、他の誰も彼がそこにいることを認識できていないのか、俺以外は目を背ける素振りすらしない。
「……なんだよこれ」
 俺は疑問を感じずにはいられない。
 誰もが一人を見ていない。見えていない。認識できていない。
 日常風景に存在するブラインドスポットのように、誰も一人を気にしていない。
 でも、それを咎める資格が俺にあるのだろうか?
 皆が蓋をしている物をこじ開けてまで臭いを漂わせる必要があるのだろうか?
 人がそれぞれ対処することで保たれている日常を壊す権利が俺にあるのだろうか?
 答えは分からない。
 正解は人によって違うのだ。
 俺が違うと批判しても、それが大多数の人間に求められなければ意味はない。
 そんなことをしても俺に蓋がされてしまうだけだ。
 俺が盲点に入れられるだけだ。
 そんな生活に俺が耐えられるか?
 想像しただけでも無理だと理解できる。
 想像でこれなのだ。現実はもっと悲惨だろう。
 そんな世界に一人はいる。
 世界のブラインドスポットに追いやられている。
 他人の視界には都合の良い時にしか登場させられず、都合の悪い時にはすぐさまカーテンコールを余儀なくされる。
 きっと、そんなのは辛いなんてものじゃないだろう。
 言葉になんてできるはずもない苦労を一人は経験している。
 けれど俺にそれをどうすることもできるはずはない。
 自分の無力が苛立たしい。
 しかしそれならそれで折り合いを付けなくてはならない。
 皆が一人をブラインドスポットへと追いやっているように、俺も何らかの対処をしなければならない。
 ではどうする?
 結論を急がなければならない。
 そんな気を引き摺りながら、俺は校舎へと向かった。
 
 9
 
 一人に対する対処法を考えさせられた日。姫美は学校に来なかった。
 携帯で連絡を取ることもできず、姫美の家に行っても中へ入れてもらえなかった。
 病気だろうか。そう心配もしたが、家人も理解できていないようなので、そうではないと結論付け、俺は帰った。
 
 10
 
 姫美の家へと行ってから数日後。
 姫美が死んだ。
 原因は自殺。
 遺書には一人を虐げている連中に強姦された旨が書かれていたらしい。
 
 11
 
 姫美の葬式が行われた。
 雨の日だった。
 帰り際に一人を見た気がしたので、追いかけて殴ろうとした。
 気付いたら知らない場所にいて、一人はいなかった。
 
 12
 
 姫美の両親に呼ばれて姫美の家へ行った。
 幼い頃に幼なじみ三人で撮った写真を渡された。
 姫美の視線は一人に向けられていた。
 他にも色々と渡されたが、覚えていない。
 
 13
 
 町内にいる契約不可者の子供がぶつかってきたから殴ってやった。
 何故か涙が出た。
 
 14
 
 姫美を襲った連中を呼び出した。
 返り討ちにあったが、撮影した動画を上手く編集して退学処分にしてやった。
 ざまあみろ。
 
 15
 
 退学処分では足りないと感じたので、国営放送のニュース番組宛てで姫美の死因を綴った手紙と一緒に返り討ちにあった際の動画を送りつけた。
 モザイクなんてかけやがって。
 
 16
 
 姫美を襲った奴らが全員病院送りになったらしい。
 しかもニュースに送った映像が功を成したらしく、退院したら逮捕されるらしい。
 正義は存在するんだな。
 
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 一人が学校に来なくなったらしい。
 どうでもいい。滅んでしまえ。