
駄文集
伽藍球《-5章~魔界と契約と~》
「挫けそうになると誰かが耳元で囁くんだ。『大丈夫。きっと何とかなるよ』って」
1
人類が本当に月へと足を踏み入れた年はいまだ確固たる証拠がないが、確実に証明が成されている、魔界と呼ばれる地球の裏側へと足を踏み入れてから約百年が経過した頃、当然だが世界はかなり変わっていた。
人は純粋な科学技術の発展を止め、魔界に居住まう魔族と呼ばれる種族と契約を結んで、魔法という新しい力を使っていた。
魔界への『門(ゲート)』と呼ばれる入り口が開いて間もない頃にあった、魔族という異世界の住人達への疑心は既になく、人は魔族との共存という道を歩んでいる。
つい半世紀ほど前までは珍しくなかった『魔族撲滅運動』などというものは馬鹿げたこととされ、現在人は魔族なしでは生きていけなくなっていると言えるくらい魔族に依存している。しかしそれは魔族も同じ。人は生活を魔法に頼る為、魔族は魔界の存続の為に、それぞれが必要になってしまった。
生き物は全て、甘美な蜜の味を知ってしまうとそれなしでは生きていけなくなってしまうものだから。
2
二〇九九年九月一日
久瀬居一人(くせいかずと)は悩み、苦悩していた。
その問題は日に日に重大化しつつある。しかし、それに対して彼は何もできないでいた。それは怠惰故、努力を怠っているからではなく、単純に産まれ持った資質の問題であり、彼が対処するには些か壮大すぎる問題だ。
彼は、魔族との契約ができていない。
一般的には小学校入学の前日までを期限とし、魔界へと赴き、自分に適した魔族との契約を結ぶはずなのだが、彼は魔界から契約もせずに帰ってきた。いや、正確には契約できずに帰ってきてしまった。産まれ持った資質故。
最近は制度が施行されてから百年近くも経過していることから、契約システムも効率化され、ほぼ事務的なものとなっている。魔界に行ってちょっとした適性検査をすると共に、一時間も待てば自分に適した魔族を紹介される。インフルエンザ予防接種の如く極々簡単なことだ。人間ドックのような仰々しさはない。なのに彼が魔界へと出向き、適性検査を受けても彼に魔族が紹介されることはなかった。
その日、彼は『社会不適合者』の烙印を押されたのである。
魔族と契約できない者は珍しいが、いないわけではない。一人の他にも世界に数千人はいるはず。正確な数は国連が管理するはずなのだが、いまだ契約システムを国家制度として導入していない国もあるので把握しきれていないのが現状だ。
しかし地上のほとんどの国々で魔法使用が当たり前となった今の時代、魔族と契約できない者は障害者として扱われ、迫害の対象となることが多い。ほぼ全ての職業で魔法を使用した方が効率が上がるのだから当然とも言えよう。勿論、倫理的な観点からそのような職業にありつけない者たちは国の税金により、生き続けることは許されているが、それが彼らを更なる迫害対象として酷い生活へと追いやる結果となっている。心優しい者はそんな彼らを哀れむが、現状として誰もそれを変えることができない。しかし生産性のない人間は忌むべき存在だと資本主義の理想が証明している。世界を変えられない人間を誰が糾弾できようか。
世間ではいまだにそれが社会問題として取り沙汰されており、強硬派にいたっては契約のできない奴は人間ではない、とまで言う始末だ。
その様な時代でも、一人は普通に学校へと行き、できるだけ普通に振る舞おうと努力していた。客観的に見るとその意味や意義を理解できない、普通とは言い難い考えをもって。
しかしそんな彼でも九月一日という新学期の日は特に、足取りが重くなってしまう。
「ふう」
家を出てから数十回目の溜息。彼を心配そうに見つめる仲西姫美(なかにしきみ)にはそれが一人の呼吸方法ではないかとさえ思えてきた。彼はそう見えるくらい多くの溜息を吐く。
「知ってた? 溜息を吐く度に、幸せが逃げていくんだって」
できるだけ無邪気に、姫美は一人に話しかける。そうすることで少しは彼の気持ちが楽になれば、そう心の中で願いながら。しかしそんな願いは叶わない。
「ふう。これはもう身体が覚えているんだ。僕がやろうと思わなくても、無意識で漏れてしまう」
億劫そうに言いながら、力のない笑顔を見せる一人は末期症状の現れた病人よりも元気がない。彼は元気というものの存在を何処かに落としてきてしまっていたのだ。
そんな一人を見ているだけで、姫美は悲しくなる。
魔界に行くまでは普通の人間だったのに。何故、契約ができなかったというだけでこんな風になってしまったんだろう。
契約を無事に果たせた姫美には一人の苦労が分らない。どれだけ理解しようと努力しても、契約を滞りなく果たせた者に一人の苦痛は分らないのだから。
「かず君。今日から二年生なんだから、しっかりしないと後輩達に舐められちゃうぞ」
姫美の何気なく言った一言が、一人に今まで幾度となく感じさせた絶望を感じさせる。 契約不可となった一人が学校で虐められるのは当然とも言えた。しかし半年もすると虐められてもなんの反応も示さない一人に飽きて、何もしてこなくなる。だがそれは同級生だけではない。上級生も、下級生も同じように一人を虐めて虐げる。特に新入生・下級生は自己の立ち位置を他人に主張する為、上級生や同級生よりもえげつない行動に出ることが多い。新学期になるということは、一人にとってまた半年間我慢をし続けるという意味しかなかった。
胃が痛み、一人の動きを鈍らせる。しかし彼をこの世で唯一心配してくれる姫美に心配をさせたくはない。
今となっては親でさえ気にかけてくれないというのに、気を遣ってくれる姫美に心配をさせる方が彼にとっては苦痛だった。
「じゃ、また学校でね」
学校の近くまで来て姫美は一人に別れを告げる。
そんな姫美の背中を見つめていると、彼女は立ち止まり、振り返った。
「今年は同じクラスになれると良いねっ」
そう言って彼女は走っていく。
数分ほど待ってから、一人は足を進めるタイミングを見計らう。
「ふう」
再度溜息を吐く。
何度ここで引き返して家に帰ろうと思ったか、今はもう数える気もしない。だが、家に帰ったからといって何かが変わるわけではない。家に戻っても、血の繋がった母から罵詈雑言を浴びせられるだけ。それはある意味で学校に行くよりも辛い。学校に行けばどんなに酷くても暴力を受けるだけで済む。彼はその方がいくらかはましだと思っていた。
そんなことを考えているうちに、一人は校門に差し掛かる。
「ふう」
「おい、久瀬居。お前、学校に来るのにそんな辛気くさい顔するなよ」
校門前に佇む清水教職員に一人は呼び止められ、何を言われたかを理解する前に条件反射としての言葉を発する。
「申し訳御座いません」
何を言われていたとしてもこの言葉をまず発するのが最善なのだ。しかし清水教職員は納得していないようだ。
「あぁぁん? 申し訳御座いません、なんだよ?」
「申し訳御座いません、清水様」
そう言い換えると清水教職員は口元を醜く歪ませ「そうだよ、それで良いんだよ。俺たちはお前ら生徒に礼儀作法も教えてやってるんだから、きちんと活用してもらわないとな」と言い、持っていた棒で一人を叩いた。
「―っ!」
叩かれた背中は痛いが、そこを手で押さえるわけにもいかず、一人は校舎へと向かう。
昇降口前の掲示板に人集りができており、皆が自分のクラスを探して一喜一憂しているが、当然一人がその人集りに加わることが許されるはずもなく、掲示板から離れたところにある木の下で皆が校舎に入るのを待つことにした。
「ふう」
姫美は『溜息を吐くと幸せが逃げていく』と言っていたが、一人は溜息を吐く度に気が楽になるような気がする。弱者である自分は、自分よりも弱い空気に向かって憂さを晴らしている気持ちになっているのかもしれない。そう彼は心の中で思い、表情には現れないように苦笑した。
「よっ、久瀬居。お前のクラス探しておいたぜ」
目線を下へと向けていた一人が唐突に話しかけられ、すぐに視線を上げて対応しようとする。
「お前、B組だったぜ」
昨年一人と同じクラスだった和久田は、にやにやと汚らしく口元を歪ませる。
「有難う御座います、和久田さん」
当たり前のように一人は敬語で礼を言う。彼が敬語で喋らない相手など姫美意外にこの世には居ないのだから。しかし和久田は彼の態度に少し困ったようにおどけて、立ち去ろうとしている一人の肩を掴んで止める。
「久瀬居さ、俺、去年やったことは悪かったと思ってるんだ、マジで。その償いってわけじゃないんだけどさ、クラス票でお前の名前を代わりに見つけてこようと思ったんだよ。だからさ、お前も俺のことは和久田って呼んでくれよ」
「有難う御座います、和久田。でも、去年僕はなんの仕打ちも受けてませんから、和久田の言う『償い』というのがなんのことなのか……」
「そんな。俺のこと疑ってるのか? 今年はさ、俺は何もしないから、マジで。だから信じてくれよ~」
泣くような声でそんなことを言いつつ、和久田は一人に寄っていく。
「いえ、僕が和久田を疑う理由何てありませんから、最初から信じていますよ」
「そうか? ま、今年は違うクラスみたいだけど、今後ともよろしくな」
今までの態度はなんだったのかと思えるくらいに雰囲気をがらりと変えて、さっぱりとした口調で和久田は片手を上げながら去っていった。
一人はすぐに掲示板とそれを囲う人達を横目に、校舎へと入る。二階へと上がり、和久田が言っていたB組の戸を開く。クラスメイトと呼称して良いのかも分からない人々が一斉に一人に視線を注ぐが、数秒と経たずににやりと微笑んで視線を元の位置へと戻す。
一人はB組の教室で、教壇から最も遠く、同じくドアからも遠い角を目指し、進んで、一人は腰を地面につけて座す。
彼が学校という場所で机や椅子が用意されたことなど一度もない。最初は親も文句を言ったが「この子はこれから税金を喰らって生きていくのですよ。彼は遠慮するということを知らなければいけないでしょう?」と教職員に言われ、すぐに納得してしまった。
それからというもの、彼は色々なことを遠慮するように仕込まれた。最近では生きることも遠慮するようにと言われているような気さえする。いや、それは契約をできなかった時にそう言われていたのかも知れない。
一人が遠慮して教室の堅い床に正座をしているとチャイムが鳴り、教職員が教室に入ってきた。
「あー、今日から一年間、君たちの担任になる森島だ。担当教科は……」
自己紹介をしながら教壇を目指していた森島教職員は、教室の角に居る一人を見つけて、笑顔を道端で吐瀉物を見つけたような表情へと変えた。
「お前、久瀬居だな。なんでお前がここに居る? お前のクラスはここじゃないだろう」
「申し訳御座いません。クラス表を読み間違えたようです」
一人は立ち上がり、教室を出ようとする。教室内で皆が彼を嘲笑するのを聞きながらドアを開けて廊下へと出ると、森島教職員が何かを言ったのが聞こえた。
一人は悲しみを感じながら掲示板まで戻るが、やはり掲示板に貼り付けられたはずのクラス表はなくなっている。画鋲に大きく紙片が残っていることから、きっと和久田あたりが持ち去ったのであろうことが理解できた。
「ふう」
すぐさま一人は校舎に戻り、各クラスへと出入室を繰り返す。
「何か用か?」「自分のクラスへ行け。完全に遅刻だぞ」「馬鹿か? ここはお前のクラスじゃない」
各教職員に馬鹿にされ、各クラスの生徒に嘲笑われ、それでも一人は次のクラスへと入っては出る。途中、一人は姫美の哀しそうな顔が見えた気がした。
「久瀬居か。新学期早々遅刻とは先が思いやられるな」
何度目かのトライアンドエラーの末に、やっと自分のクラスを侮蔑と呆れを含んだ表情の教職員が教えてくれる。
一人は先程B組の教室でやったように、角を目指して、正座する。
ざっと教室内を見回してみると、嬉しそうな顔を隠そうともしない和久田もそこにいた。
……そういうことか。
悔しい気持ちも悲しい感情も小学校の頃には感じたが、もうこのような仕打ちに一人は慣れてしまった。勿論悲しみは感じるが、それも表に出さないよう振る舞うことくらいはできるように成長もした。
そして教室の片隅で正座し、床を机として教職員が申し渡す新学期及び新学年に関する注意事項を書き写す一人など居ないかのように新学期は始まる。
担任の教職員が出て行き、教職員の名称や委員の役割分担など、勉学には一切関係のない事項が記された黒板を他の生徒達が談笑をして、視界がはれているうちに一人は書き写す。しかしその猶予はないとでもいうように新たな教職員が入れ替わるように入室した。その教職員は今年度の大まかな授業概要を説明して、授業が開始される。
勿論、授業中は一人に板書された内容が見えるはずもないので、教職員の口から発せられる言葉を一字一句間違えずに、全てノートに書き記す。それは彼ら教職員が時折混ぜ込むジョークの類も、自身の人気獲得の為に発せられる一人を貶す罵倒も一切漏らさずに。
小学生の頃は、一人自身に対する罵詈雑言の類を書かずにいて、叱られたことが何度かあった。それは授業終了時に教職員が気分で一人の前に佇み、手を差し出すことから始まる。差し出された手は「ノートを見せろ」という無言の催促。ノートの記入内容に正解などはないが、経験則として、彼は全てを書き記した方が暴力が少ないことを知っていた。
3
チャイムが鳴り、本日の学校が終わったことを生徒に知らせる。
一人は足早に校門まで来ると、そこには新入生達が徒党を組んで並んでいた。
「お早いお帰りですね、先輩」
徒党の中でおそらくリーダー格のひとりが、皮肉るように『先輩』を強調して一人を呼び止める。
「俺達ちょっと校内が分らないんで、案内。頼めますか~?」
「はい、どちらを案内致しましょうか?」
即座に一人は、彼らの使用人にでもなったかのように彼らに傅(かしず)く。
「えーっと、ちょっと体育倉庫とかどうっすかね? 俺達、こう見えて超体育会系なんで」
そう言うと、新入生達は一人の周りを囲み、彼の両脇に着いた者たちは彼の肩を組み、何年来の友人のように振る舞いながら、体育倉庫へと赴いた。
4
日が暮れ、常夜灯が点灯し始めた頃、一人はよろよろとした足取りで帰路に着いた。
「ふう」
一人もまさか彼らが鉄パイプを用意しているとは思わなかった。
彼らに叩かれた肋(あばら)に手を当てて、折れているのが何本あるかを確かめる。
「……五本、か」
鉄パイプまで使って情けない奴らだ。一人は思う。
一人にとっては五本で済んで良かったのは勿論なのだが、彼はもう鉄パイプで襲われることぐらい、何てことはなかった。彼は恐怖という感情をもう感じなくなっている。
ただ、ひとつだけ感じることがあるとしたらそれは身体的な痛みよりも、姫美に負担をかけてしまう精神的な痛みの方が大きかった。
自宅の近くにある公園まで来て、姫美が学生服のままベンチに座っているのを見つける。きっと今まで待っていてくれていたのだろう。そう考えるだけで鉄パイプで繰り返し殴打されるより何倍も、一人は痛く感じるものがあった。
「あっ、おっそぉーい。姫美ちゃんを待たそうなんて百年早いぞっ」
一人が公園の入り口に達すると、姫美は彼の下まで来て、頬を膨らませながら文句を言う。
姫美は何故一人がこんな時間まで帰宅できなかったかを知っている。だから、彼を気にさせないように文句を行った後、無言で治癒魔法を彼の身体にかける。中学生の頃から独学で勉強した現代医療の治癒魔法を、彼女は一人の為だけに研鑽を重ねてきた。今では医大の研修医くらいの技量はあるとさえ言えるだろうが、それは彼女の努力は勿論、頻繁に実験台となれる一人を取り巻く環境も、その技量を高めるのに最適だったと言えよう。だから彼女が何気ない仕草で右手を薄い藍色に光らせて、一人の身体を治していくのは幾重にも折り重なった、不幸な現実を裏付けているだと彼は感じていた。
姫美には感謝している。これは一人の中で嘘偽りない、表に出てくる本当の感情でもあるが、同時に彼女が医療魔法をここまで卓越したレベルで使えるのは、彼自身が抜け出したくても抜け出せない不平等を、抗議したくてもできない、どうしようもなく不条理な現実を証明している。そのことを考えるだけで一人は陰鬱な気持ちにならざるを得ない。
「ごめんなさい、姫美さん。こんな時間まで待たせてしまって」
教職員達のような人間に謝る時とは違い、一人は本心から、そして悲しそうに謝罪する。
「あーあ、また『姫美さん』になっちゃったよ。私、『姫美さん』って知らないなぁ。今度紹介してくれる?」
「ごめん。姫美」
表情を笑顔へと変えて、一人が言い直すと姫美は満足したように「よしっ」と言って右手を一人の身体から話す。
一人は肋を触り、もう痛まないことを確認。そして姫美を見る。
「有難う」
「良いよ、別に。いつものことじゃん。だから、もしもかず君が転んだら、いつでも姫美姉さんの所に来なさい。『痛いの痛いの飛んでけー』してあげるから」
「姉さんって、僕より姫美の方が三日年下だろ」
「三日は年下じゃありませんー。日下ですぅ」
そう言って、姫美はいつものように一人の手を取る。
二人は公園を出て、それぞれの家へと向かう。その間交わされる言葉はなかったが、二人の手は最後まで繋がれたままだった。
5
次の日、魔界へ行く前まで寝起きをしていた部屋の扉が見える床で、一人は目を覚ます。
「ふう」
溜息を吐き、埃にまみれた物置部屋で着替えを済ます。
まだ朝日が見え隠れしているのを窓の外に確認してから、朝食の仕度を可能な限り無音で始める。包丁で食材を切り刻む時に、少しでも物音を立てると、一人の寝場所が、室内(廊下)から屋外(ベランダ)へと変わってしまうからだ。このルールは三年前、その日不機嫌だった母が唐突に決めた。
彼は調理を済まし、食器を静かに運んで並べる。
もう朝日は完全に顔を見せ、早朝ではあるが、手元が見渡せるくらいの光が部屋に差し込んできている。
とんとん。足軽に母が階段を降りる音がする。今は機嫌が良さそうだが、それも一人を見るだけで180度反転するだろう。
一人は素早く台所から出て、裏口を使って外へと出て走り出す。
いつものことだが、一人はこの時点で靴を履いていない。始めは足に苦痛を感じたが、今ではそれにも慣れてしまった。
家から走って十分くらいした頃、一人は新聞屋の前で待っていた主人に新聞紙と暴力と罵倒をもらう。
「申し訳御座いません」
本日最初の謝罪を発し、一人は再び走り出す。
現代では、新聞配達は魔動人形か契約のできなかった者たちがする奉仕活動となっていた。魔動人形ができるのだから一人がやらなくても良いのだが、一人の割り振られた新聞屋のように契約数も少ない小規模の新聞屋は、魔動人形を使うよりも人間を使った方が効率が良い。どちらにせよ給料の支払いが発生しないのであれば、定期メンテナンスの必要ない契約不可者達にやらせた方が良いという風に決められていた。
今日も一人は十分くらいで約30戸への配達を完了させる。しかし一人はここから公園で、最低でも十分は待たなければならない。何故ならたった十分で配達が完了したなどということを、たとえそれが事実であったとしても、新聞屋の主人が信じてくれるはずがないからだ。だが、一人にとってそれは決して嫌うべき時間ではない。
十分ほどの静寂。
人通りのない公園。
他人を気にせず、存在を許される約六〇〇秒。
しかし幸運に感じる時間は誰かが早送りをしているかのように素早く終わってしまう。
通常の四倍速以上で過ぎ去る六〇〇秒は、すぐに終わりを告げ、元の0.5倍速以下で再生される現実へと戻っていく。
タイミングを見計らって新聞屋の主人に配達終了を報告し、再度罵倒と暴力をもらう。
僅かな至福の時間の終わり。
心が痛む生活の再開。
「ただ今戻りました」
帰宅すると、実の父は舌を打ち、腹を痛めて産んでくれた母は汚物を見るような視線で一人の帰りを嘆く。
台所の隅に置かれた汚い皿に、乱暴に盛付けられた朝食を素手で食す。この時、服を汚さないよう最善を尽くす。しかし元より量が少ないこともあり、そんなことを気にする時間はそれほどない。
朝食を食べ終わったら食器を洗い、物置に置かれた、数年前から現れていない布で手を拭く。
学校へ行く仕度を済ませると、なるべく両親の視界に入らないように足早に玄関へと向かい、父と母に朝食の礼と学校へ行くことを告げる。
「今日も朝食をご用意して頂き、有難う御座います。僕はこれから学校へと行かせて頂きます」
実際に用意したのは一人だが、そんなことを主張できるはずもない。
父親はさっさと行けと言うように無視をする。母親はいつまで生き続けるつもりなの、とでも言いたそうに「そう」と端的に言う。そんな毎朝恒例の手順を踏んで、玄関にある靴と一緒に置かれた靴下に足を通し、靴を履く。玄関の扉を無音で開いて、閉じる時も同じようにミュートで。
そうして外へと出たは良いが、いつも通り登校には一時間ほど早い。
暇潰しと孤独を求めて再度公園へと向かう。
しかし残念ながらこの時間になると公園には人が数人ではあるが、ちらほらと居る。閑散としていても、そこにいる人数がゼロでないことから、やはり幾人か一人に絡んできたりもする。
だから『彼』が話しかけてきた時も、一人は『彼』もまた、自分に向けて憂さを晴らしたい一般人なのだろうと思った。
「君は……少し違うようですね」
それが一人に対して発した『彼』の第一声だった。
微笑みながら発せられた『彼』の言葉は、何処か一人に安らぎを感じさせてくれた。
「はい、僕は……その、契約をしていないので」
おそらく『彼』は自分が契約不可者であることを知らなかったのだろう。そう思い、一人は正直に告白する。しかし『彼』は一人が契約できなかった人間だと知っても、罵声や暴力を浴びせようともせずに「違いますね。それじゃない」と言ってなにやら考え始めている。
一人は『彼』を不思議そうに見つめた。『彼』は一人が契約のできなかった『社会不適合者』であると知り、なお普通に接してくる。
失礼とは思いつつも、一人は『彼』に対して不信感を抱かずにはいられない。
自分に普通に、契約のできた人間同士が接するように一人に接してくる者など、姫美以外、彼は知らないのだから。
「ちょっとお手を拝借」
『彼』はそう言うやいなや、一人の了承を得ぬまま、彼の手を取り、撫で始める。これにはさすがに一人も顔をしかめるしかない。
普通に話しかけてくるだけではなく、僕に直接触れるなんて!
一人は心底不安になった。『彼』はおかしい。何をしているのか想像がつかないが、きっと自分を陥れようとしているに違いない。一人の頭にこの後起こりうる厄災が次々と浮かんでは消えていく。
「そう疑心暗鬼にならないでください。私は別に君を陥れようとは少しも思っていませんよ」
その声にはっとして、『彼』の顔を見る。
見て分るくらい僕は顔に出してしまっていたのだろうか? だとすると僕は『彼』に不快な思いをさせてしまったに違いない。ああ、なんてことだ。これを理由に何かされるんだ。
一人に頭に不吉な予想が現れては、更に辛い情景で上書きされる。不安を更なる不安で埋めていくことを彼はもう止められないでいた。
「はぁ、君は本当に苦労してきたみたいですね。まあ、契約のできなかった人間にこの時代での風当たりは弱くはないですからね。仕方がないと言えば仕方ない」
ひとりで納得しながら『彼』はそう言うと、一人の手を解放する。
「あ、あああのっ! も、申し訳御座いませんっ! 手を触れられたことに驚いてしまって……本当に申し訳御座いません!」
彼は動揺しつつも、可能な限り次の瞬間受ける暴行を最小限にしようと、頭を下げて謝罪する。
「君が謝る必要は、なにひとつとしてありませんよ。初対面でいきなり『手を触っても良いかい』なんて訊く私の方が、どう見ても不審者です。謝らなければいけない人物がいるなら私の方でしょう」
『彼』はそう言って「すみませんね」と一言謝罪した。
「い、いえ、僕は貴方様が謝罪するほどの人間ではありません。どうかお気になさらずに」
起こっている出来事がほとんど理解できない一人はいまだ動揺しつつも、いつも通り暴虐を受けないように最善を尽くして、自分を卑下する。
「謙虚になるのは良いが、自分を矮小な人間と評価するのは、ちょっと好めませんね」
『彼』はそう言って溜息を漏らす。その溜息にすら、一人は脅えてしまう。他人が溜息を漏らして彼が怪我をしなかった例しがない。
しかし『彼』はそんな一人のことなどお構いなしに話を続ける。
「それに、君は本来ならば契約者よりも優遇されるべき人間です」
『彼』の言ったことに一人は首を傾げるほかない。
契約した人間より優遇されるべき存在?
契約不可者の一人のどこが優遇されるべき存在なのだろうか。それは確かに労働をしなくても必要最低限の文化的な生活は保障されているが、それは迫害にも近い仕打ちを受けている彼にとって、優遇ではなく冷遇としか言えない。それに『彼』がそれを指していないのは一人にも理解できた。
「な、何を仰っているのか、意味がよく分りません」
『彼』はどうやら一人を同等の人間として接してくれると無意識的に感じ、一人は率直に理解できない旨を伝える。
「やはり、まだ君は自分の偉大さに気付いていないようですね。魔界に行った時に何も言われなかったのですか?」
一人は無言で首を左右に動かす。
表面上はいつもの一人と変わりはないが、内心『彼』の言葉にある種の希望を感じずにはいられない。
もし『彼』の言うことが本当であれば、今の絶望が充ち満ちている地獄の生活から抜け出せるかもしれない。もう、誰からもゴミくずのように扱われなくて済む。もう……。
そこまで思考して、一人の心を去っていた警戒心が舞い戻る。
こんな夢のような話し、あるはずがない。これが夢でなければ『彼』は自分に糠喜びを感じさせているだけなのだ。こうやって何度も裏切られた。真実(まなみ)だって……。
一人は浮き足経っていた思考を地に着け、躍る心を静める。
そうだ、こんな事があるはずない。
一人は自分にそう言い聞かせる。
「おっと、君の警戒心が期待を打ち負かしてしまったようですね。まあ、初対面の人物を素直に信じる人間もいないか」
後半は自分に言い聞かせるように言い、『彼』はまた一人に微笑みを見せる。
「そう、ですね。君が少しでも私を信用できる、若しくは今の生活に耐えられなくなったら私の所に来てください。私はあの、遠くに見えるビルの一六階。そこをまるまる借りています。大抵あそこにいるので、自分の真の実力を知りたくなったら来てくださいよ」
そう言って、『彼』は大通りに面した公園の出入り口へと向かう。途中「……魔界に連れて行ってさしあげます」そう呟くのが聞こえた。
6
魔界への『門』は開かれた。しかし気楽にいつでも誰でも行けるわけではない。逆に開門から一世紀経った今では幼少時の契約以外で魔界へ向かうことなど無理に等しい。魔界で行われる契約は、地上に住む人間が地下世界である魔界に住む魔族と同じように魔法が使えるようにする以外に重要な役割、いや、目的がある。それは考えてみれば至極当たり前とも言えることで、ただ単に人間が魔法を使えるようにするだけであれば魔族にメリットはない。そして契約とは双方のメリットが合致するが故に結ばれるのが基本だ。
それでは契約による魔族のメリットとは何か。それは契約システムの根底に関係するもので、端的に言ってしまえば魔界の存続である。
魔界というのは地球の内部に空間を歪めて形成された、極めて不安定な空間世界となっている。そしてその魔界に居住まう魔族とは、地上の人間達と魂を分かつ生命のことを指す。
つまり地上にとある人物が存在すれば、その人物と魂を半分に分け合った、いわゆるDNAから容姿・性格に至るまで全てが異なる双子が存在することになる。
そして魔界を存属させる為の契約内容とは、その同じ魂を持った異なる人物が同時に魔界に存在しないという条件だ。
元より不安定な魔界という異空間は、同時に同じ魂が存在していることを認識し、壊れてしまう可能性が魔界の誕生から危惧されていた。それ故に魔族と人間は魔界を繋ぐ『門』を閉じていた。
しかしそれは有史以前の話。
そのような記録は魔界にも地上にも残ってはいないし、誰も検証したことはない。
ただ、魔界の頂点に立つ者が、その危険性を説明し、魔界との『門』を開き続けるのであればそれを守ってもらうと一方的に人間達に申し渡してきた。
その結果として契約と適性検査のシステムが構築された。
構築されたシステムとして魔界で行われるその適性検査とは、分かたれた魂達をマッチングする為のものである。魔族は生まれた時にその検査をされるらしいので、人間達が契約にくる頃にはもう既に魂を分けた半身が判明している状態となっている。
それでも契約不可者が存在するのは、その魂の適性検査が完璧なものでないと言うこともあるが、半身となるべき魔族が既に鬼籍に入っていることがあるからだ。
勿論これは、契約後もあり得る事態ではあるが、契約により魔族は魔界での加護を得るので契約した人間が死ぬまでは、基本的に魔族の安全は保証されている。
それに魔族が先に死去した場合、多くの時は二・三ヶ月ほど待てば同じ魂を宿した魔族が転生するので、その時に再契約をすれば良いだけの話し。
故に、適正検査時に契約を果たせなかった者も、多くの場合で三ヶ月ほどで契約できることが多い。
しかしそれも過去の魂情報が魔界のデータバンクに登録されている場合だ。
一人を含めて世界で数千人ほどいるであろう契約不可者達は適性検査後に過去のデータバンクにも適合魔族がいないとし、『契約不可者』としてその魂の情報を登録されてしまった者達を指す。そうなってしまうと、その後契約できた者はシステムが出来上がってからこの一世紀、誰もいない。
だからこそ一人達は『社会不適合者』としての烙印を押されてしまったのである。
そんな一人に魔界へ連れて行ってやると、他の人間よりも優遇されるべき存在だと、『彼』は言った。
一人は姫美を待つ一時間、公園でその事をずっと考えていた。
7
「せんぱ~い」
猫なで声で先日の新入生達が数を増やして下校前の一人を呼び止める。
「なんでしょうか?」
訊く前から彼らが何を所望しているのか理解しつつも、一人は形式的に訊ねる。
「そりゃ、勿論、先輩と親睦を深めようと思って」
「そうそう。俺達先輩をマジリスペクトしてますんで」
「だよな~。俺達もう、先輩に首ったけっての? ひゃははは」
「きめぇ。お前、もしかしてそっち系かよ?」
「ちげえって。あっでも、先輩なら俺掘られても良いかも~。ひゃははは」
新入生達が下種な表情を隠そうともせずに一人に纏わり付き、彼を昨日と同じように人気のないところへと連れて行こうとする。
勿論、言うまでもなく一人に抗う術はない。否、抗ったとして後日より強固な力が彼を押しつぶすことを彼は知っている。不条理という現実が、彼を容赦なく押しつぶし、粉砕する。
「あっ、先輩、昨日の傷とかなおってんすね!」
「えっ? マジ?」
「マジマジ。見てみろよ」
「ホントだ! じゃあ、今日もおもっきしやっちまおうぜ!」
一人達が体育倉庫まで来ると人目を憚らずに済むこともあり、新入生達は彼の身体が癒えていることに、今日も全力で憂さを晴らせると喜ぶ。
昨日と同じように、一人は陸上部が使用するハードルに両腕を縛り付けられる。
「もしかして~、先輩とかって魔法が使えない分、自然治癒能力が高かったりして~」
「えっ? ってことは毎日全力でボーンクラッシュしちゃっても良いの?」
「お前、ボーンクラッシュってなんだよ」
「骨を粉砕ってなんかダサイから英語にしてみたんよ」
「それって粉骨砕身って奴じゃね?」
「そりゃちげえだろ」
「正しくは、先輩の骨を砕くことに粉骨砕身の思いで挑みます、って感じじゃね?」
「おお~、さすがインテリ眼鏡」
「眼鏡じゃねえし」
そんな馬鹿げた会話をしつつも、彼らは縛り上げた一人を体育倉庫へと移動させようとする。
それなら体育倉庫内で縛ればいいのに。
足を引きずりながら一人は思うが、新入生のひとりが「なんか市中引き回しって感じで良いよな、これ」と言うので、訳の分らない快感がこの一手間をかける意味となっているらしいことを一人は理解する。
そして一人が体育倉庫内へと運ばれ、新入生達が倉庫の扉を閉じずに鉄パイプで一人を何度か殴った後、彼は現れた。
「君達、そこで何をしている?」
真面目という言葉が似合う声と口調で、いかにも生徒会に属していそうな男子生徒が新入生達に制止をかける。
「ああ? なんもしてねえよ」
「つか、あんた誰?」
「俺らになんか用っすか~?」
真面目そうな声の持ち主は体育倉庫の入り口まで来て、新入生達のことを臆さず返答する。
「あんた誰、と言う質問に先に答えよう。俺は生徒会副会長の福津真実(ふくつまなみ)だ。そして、何か用か、と言う質問に対しては、君達がしている暴力行為を制止しに来た、と応えよう。何もしていないというのは明らかに嘘だから無視させてもらう」
福津はそう律儀に彼らの質問にひとつひとつ返答する。
それに対して新入生達は一瞬『生徒会』という単語に反応するが、互いに目配せをして緊急会議を開く。
すぐに回答は出たようで、ひとりが福津に向かって「俺達は~、そこの先輩に頼まれてやってんすよ? 嫌だって言ったのに先輩だから断れなくって」と言い訳にもなっていない返答をする。
しかし一人が『社会不適合者』である限り、この言い訳は筋が通ったものとして倫理観はねじ曲げられる。
それは、相手が正義感の強い生徒会副会長様であっても同じだ。
不条理は平等に、一人のような契約不可者達にとって不利な環境を与える。
一見明らかな傷害事件は、契約者の一声で契約不可者の不注意となる。それが殺害という一大事にまで発展しない限りは、契約者は契約不可者の身体を自由に扱っても良い。それが現代社会の暗黙の了解だ。契約不可者達の了解を得ずに決まった、暗黙の了解。
故に、一人が知る限り正義感旺盛な福津が「そうか、ならもう止めて良いぞ。そのような異常者に健常者が付き合う必要はない」と言っても、驚きもしない。たとえそれが姫美と併せて三人で楽しい幼少期を過ごしたかつての福津真実(しんゆう)の口から発せられたとしても。
新入生達は今日が削がれたように皆一様に「あ~あ」など言葉にならない不平を漏らしつつ、体育倉庫を去っていく。
そしてハードルに両腕を拘束された一人と福津が体育倉庫に残される。
「……あぁりぃぐわ」
一人は自分を更なる暴行から救ってくれた幼なじみに礼を言おうと口を開くが、鉄パイプで殴ってくるひとり以外が暇をもてあまして顔や腕を重点的に殴ってきたので、上手く言葉が発せなかった。
しかし、それだけで意味は通じた。
福津は一人が何を言ったか分った。
それでも彼は無言で一人の拘束を解くため、腕に括り付けられた縄に手をかける。
「あぁり―」
「聞こえている」
聞こえなかったと勘違いした一人が再度口を開くと、すぐに苛立ちを隠さない口調で福津は返答する。
一人は五年以上言葉を交わすことのなかった幼なじみに他に何を言えばいいか分らず、無言で拘束が解かれるのを待つしかなかった。
小学校高学年に入るまでは姫美以上に彼を守り、普通に接してくれていた福津。
一人は福津が疎遠になってしまったことを、自分が何かをしたからだと思っている。
何かがきっかけで福津は自分を嫌いになってしまったのだと。
誰かが自分を嫌いになる理由なんて、一人にとっては考えるまでもなかった。
それは魔界から帰ってきた時から明らかになっている。
でも福津や姫美は、いや彼らだけは変わらずに接してくれると信じていた。
事実、小学校で過ごした六年間のうち四年間は、福津も姫美と同じように一人が契約不可者であることを気にせずに接してくれた。いや、福津に関しては姫美以上に一人を守ってくれていたのだ。
福津は小さい頃から曲がったことが大嫌いだったから、学校のような人前でもどこでも、一人に対して同じ対応をとってくれていた。
その結果、福津が虐められそうになったこともあった。
それでも福津は「契約できたかどうかでその人が変わる訳じゃない!」と皆を説き伏せていた。
そんな福津は一人にとっては憧れの対象で、同時に唯一無二の親友でもあった。
小学五年生に上がって間もなくして、それは唐突に変わったが。
今でも一人は自分が何か福津に対して何か悪いことをしてしまったのではないかと思っている。
そんなことはないと、福津は伝えられずにもう数年が経ってしまったが。
「立てるか?」
拘束を解いて、福津は怪我だらけの一人に手を差し伸べる。
「ぁぁあ」
言葉にならないのに、かつての親友と話したいと言うだけで、一人は口を開いて肯定の意図を伝える。
福津はそんな一人を見て、苛立ちを感じずにはいられない。しかしそれを表に出すことなく、一人が立ち上がる手伝いをする。
「ひとりで歩けるか?」
「うぁぁぁ、ぁりぃぐわっと」
首肯して、一人は再度福津に礼を言う。
それを見て、福津は更なる苛立ちを感じずにはいられないが、一人に非がないことは彼も十分理解している。
「それじゃあ、俺は生徒会の仕事があるから」
我慢の限界が近い福津は、そう素っ気なくって、その場を立ち去ろうとする。
「しぃんちゅわん、ぁりぃがと」
背中に聞こえる礼に歯を食いしばって我慢しながら、福津は振り返ることなく去っていった。
振り返れば、かつての親友が今どのような環境で生きているのかを嫌でも理解してしまうから。
8
夕刻、いつもより少し早い時間。一人は興奮を隠さずに姫美に先刻あった出来事を話していた。
「しんちゃんがさっ! 助けてくれたんだ!」
いつも福津のことを聞いてばかりであった一人は、自ら福津のことを語れることに心底喜んでいた。
福津のことを語る一人は三人一緒にいた頃の、子供の頃の一人に戻ったようで、姫美は嬉しく思い、慈愛の表情を浮かべながら一生懸命喋る一人の話を聞いていた。
「かず君、そんなに早口で喋らなくても、最後まで聞くから」
姫美はそう言って少し一人を落ち着かせようとするが、一人は冷め止まない興奮を収めることはできずに福津のことをかなり詳細に語る。
事象として福津との出来事はそこまで語ることはない。
だから一人は事実を美化して、実際に起こった現象をベースとしてかなり誇張した、極端に言ってしまえばほとんどが嘘である壮大な物語を創作していた。
それは姫美も理解していた。
でも一人がここまで嬉しそうに何かを語るのなんて、彼女は久しく見たことがなかったのだ。
彼が嘘を語っていようが、彼の笑顔が嘘でない限り、姫美は彼の満足するまで付き合うことを心に決めていた。
結果として、その所為で不幸が降りかかることなど誰も予見できなかったから。