駄文集


経済選挙《3》

 
 昨日と同じように傘下の面々が揃うリムジンの車内で、昨日と同じく兄が馬鹿なことを言っているのをわたしは眺める。
「その有能な部下共を残らず殺せ」
 朝から高カロリーな言葉を聞いて、胸焼けがしてしまいます。
「小谷グループにいて、我々の驚異となりそうなほど有能な部下の数は二十名を超えておりますが」
「構わん。いつものやつらに指示を出しておけ」
 いつものやつらって……この兄は常日頃からコンビニ感覚で暗殺を頼んでいるのでしょうか?
 兄の言動からないとは言えないのが哀しいです。彼と同じ血が半分もわたしに流れていることが特に哀しいです。
「文哉。さすがに二十人をこの時期に殺ってしまうのは危険だ」
「ん、そうか? 見せしめには丁度良いと思ったんだが」
 見せしめって。世間的に暗殺を企てた者の末路を見せしめてしまいますよ。
「斉藤グループが傘下ならもう少しはやりようがあるんだけどねぇ」
 萌さんがそんなことを言い、わたしは昨日会った葉月ちゃんのことを思い出す。……いや、勿論一秒たりとも忘れてはいませんが。
「そう言えば、斉藤さんも葉月ちゃんも会いましたよ。昨日」
 兄だけではなく、リムジン内の面々が驚いた。
 ……有紀さん。頭部に口を大きく開けだ映像を流しても、普通は驚いているなんて思いませんよ。雛鳥が親鳥に餌をねだっているようにしか見えません。
「お前、岐阜と会ったのか?」
「ええ、ですからそう―」
「いつ、どこで!?」
 何故か驚いている兄に少し脅えながらも、わたしは応える。
「ええと、昨日三ツ城の部屋に向かう途中。道に迷って―」
「なにをされた?」
「いえ、なにも」
「なら、なにか言われたか?」
 何故兄がそこまで必死になっているのか分からないわたしは、自分が葉月ちゃんに言ったことは覚えていても、葉月ちゃんに何を言われたか覚えていない。
 ……だって、わたしの中では『妾の母君なってくれたもう』としか言われていませんし。
「あっ、そう言えばわたしの出自に関して知っていると仰っていました」
 一応、本多さん達が知っているのか知らないわたしはぼかして兄に伝える。
「ああ、それくらいか。それなら三ツ城親族と、それに近しい人間は知っていることだ」
「と言うことは本多さん達も」
「知っているよ。ただこれは、かんなちゃんには失礼だけど、いわば三ツ城家の恥。三ツ城財閥の人間がこの汚点を公にすることはないから、安心して」
 まあ、分かっていましたけど、わたしは恥で汚点ですか。個人的には兄の方が恥で汚点で愚者なのですけれど。
「というか、兄様はなにをそんなに心配しているんですか? 葉月ちゃん、可愛くて良い子でしたよ?」
「馬鹿か、お前。岐阜は現段階で敵勢力だ。馴れ合うなんて以ての外」
「でも可愛い子ですよ?」
「あのな、可愛かろうがなんであろうが、敵は敵だ。……それに岐阜だけはなにをしてくるか分からん」
「ああ、葉月ちゃんバッカだもんねぇ!」
「確かに一般的な思考から外れているお方です。そんな人間がなにをするか文哉様が分からないのも致し方ありません」
「てか、葉月ちゃんの行動は誰にも読めないだろ~」
「非論理的ナ思考ハぷろとこるガ破綻シテイテぷろぐらむデ行動ヲ解析スルコトモ不可能」
 皆さん葉月ちゃんを悪く言いすぎです。ここはなにか物申さねばならないでしょう。……子を馬鹿にされて黙っている親はいないのです。
「皆さんっ!」
 一気に皆さんの視線が集まる。
 ……恐いです。けれどここは退けません。親の意地です。
「その、えと、あの……葉月ちゃんは可愛くて良い子ですよ?」
 そう言って、わたしは俯く。本多さんが笑い始めているが、なにについて笑われているのか分からない。
 だって、可愛いは正義だと誰かが言っていました。
 そして膝を注視していたわたしの視界にタブレットが横から置かれる。
 それを差し出したのは兄。
 なんの意図があるのかと彼を見てみるが、その横顔から感情は読み取れない。
「……器物破損一一三件、軽傷者の出る謀一八件、校舎の一部が使えなくなる事件三七件……なんですか、これ?」
「岐阜葉月が行った問題行為の数々だ」
「えっ!? あの可愛い葉月ちゃんが? わたしの『絶対幼女(マイ・スイート・ドーター)』の葉月ちゃんが?」
「かんなちゃん、葉月ちゃんの親御さんはご健在だよぉ~」
 動揺のあまりわたしの純粋無垢で謙虚な願いが口から漏れてしまっていたようです。危ない危ないです。
「とにかく、岐阜には近づくな。あいつは問題児だ」
 そう言われてもわたしは挫けません! 馬鹿な子ほど可愛いと言うじゃないですかっ! きっとわたしが葉月ちゃんを立派な淑女に育ててみます!
「かんなちゃ~ん。誘拐はいくら従姉妹とはいえ犯罪だよぉ~」
「心を読まないで下さいよ、萌さんっ!」
「いや、かんなちゃんの心って、表情に巨大看板広告掲げてるくらい読みやすいからそれは無理っ!」
 笑顔でわたしの願い事を拒否する萌さん。……ん~、彼女も可愛いのですけれど、やっぱり娘に欲しいのは葉月ちゃんだけですねぇ。萌さんはわたしのお姉さんって感じです。
「かんなちゃんが夢の家族計画を練っている間に、オレらも小谷攻めの方針を固めよう」
「そうだな。馬鹿を相手にしている暇はない」
 そこまで言われても、わたしは兄がこの世の存在しなかった時の家族構成を考えるのに夢中で、気にはなりません。
 
「……ほのかさんはわたしの親友ポジションです!」
「あっりがとー!」
 昼休みになり、昨日と同じように昼食を食べ終えたわたし達は、今朝わたしが考えた家族構成について大いに盛り上がる。
「有紀さんは弟さんですね」
「……ア、アリガト」
 恥じているような音声ではあるが、有紀さんの頭部はいつも通り。それに若干の違和感を感じつつも、わたしは視界の端に『未来の我が子(ようじよ)』を視認する。
「はっづきちゃ~ん!」
「――っ!」
 脅えている姿も守ってあげたくなりますっ!
「かんちゃん。脅えさせてるのが自分だって気付いてる?」
 ほのかさんの世迷い言を無視して阿音速でわたしは葉月ちゃんの元へと飛び出す。
 途中「今日は岐阜家まで取り込んだのっ!?」「あの子何者?」「さすが三ツ城様の妹です!」などという言葉が耳に入ってきますが、わたしの鼓膜が受信拒否をしているので聞こえません。ええ、聞こえませんとも。
「葉月ちゃん、一緒にご飯食べましょっ!」
「わ、妾はもう食べ終わったのじゃ!」
「なら丁度良いです! わたし達ももう食べ終わって、ただ今絶賛雑談中です!」
 そう言ってわたしは彼女の手を取ってわたし達のテーブルまで連れて行く。
 その間ずっと葉月ちゃんは「い、嫌じゃー!」と言う内容の言葉を複数のバリエーションで言っていましたが、子供の我儘を全部聞いていては良い親ではありません。
「こちらわたしの『未来の娘(はづきちやん)』です」
「違うのじゃっ!」
「こちらほのかさんと有紀さん。お二人とも『わたし(おかあさん)』のお友達なんですよぉ」
「お母さんとはなんじゃっ! 妾にはもう立派な母上がおるのじゃっ!」
「まあ、この子ったらわたしを立派だなんてっ! 嬉しいですぅ」
「違うと言うとるじゃろうがっ!」
「あの……岐阜さん。多分……今のかんちゃんには何を言っても無駄ですよ」
「同意」
「……はぁ」
 ほのかさんと有紀さんが葉月ちゃんを説得してくれたことで、彼女は大人しくなる。
 やっぱり持つべき者はよい友人ですね。
「葉月ちゃん、今日は斉藤さんと一緒じゃないんですか?」
 わたしは隣に座った葉月ちゃんに抱きついて、撫でながら訊ねる。
「斉藤は高校課程じゃからな、高校棟にある食堂で食べているのじゃろぅ」
「そうなんですかぁ。じゃあ今日は一人で食べてたんですか?」
「まあの。妾は三ツ城財閥の親族。妾達を嫌煙して馴れ合おうとする者など、何らかの意図がある者だけじゃ」
「………………ひっぐ」
「ど、どうしたのじゃっ!?」
「あーあ、かんちゃん泣いちゃったよ」
「葉月ガ泣ーカセタ。イーケナインダイケナインダ。セーンセーニ言ッテヤロ」
「わ、妾がっ!? 妾はなにもしていないぞっ!」
「……いえ、違うんです。葉月ちゃんがお友達も作れないなんて悲しくて」
「まあ、この学校は特殊だからね~」
「友達ハ基本デキナイ」
「それでも、葉月ちゃんならどこでもお友達が作れるはずですっ!」
「妾は別に友達なんぞ望んでおらんっ!」
 ああ、なんと言うことでしょう。愛するわが子の心はここまで荒んでしまっているのです。きっと数年後、葉月ちゃんが中学生になったら「友達など弱者が群れているにすぎん」だとか「我は暗闇に生きる者。我に近づくと組織に狙われるぞ」とか言い始めてしまうのです。
「妾はもう中学生じゃっ!」
「シカモ来年ハ高校生」
「っていうか、かんちゃん。考えだだ漏れてるって!」
「……こほん。葉月ちゃん、明日からはわたし達と一緒にお昼を食べましょう」
「い、嫌じゃっ!」
「多分拒否シテモ無駄」
「だねー。かんちゃんなら岐阜さんの教室まで乗り込んで強制的に連れてきちゃいそう」
「なぬっ!?」
 わたしの友人達がなにか葉月ちゃんを脅すような説得をするので、わたしは彼女を安心させるためにきちんと否定しておくしかありませんね。
「そんな事しませんよ。ただ葉月ちゃんが一人、お手洗いでご飯を食べるなんてことがあったら保証はできませんが」
「ソレ、原因ハカンナダヨネ」
「うん。あたしもそう思う。逃げ惑う岐阜さんがやっと見つけた『安住の地(おてあらい)』に機関銃持って乗り込むのが簡単に想像できてしまったわっ!」
「…………………こと…………………わ、分かったのじゃ」
 友人二人の訳が分からない妄想はさておき、葉月ちゃんが納得してくれたようなので由としましょう。
「ご理解頂けたようで何よりですっ!」
「いや、岐阜さん絶対お昼抜きを一瞬覚悟したけど、諦めたって感じだったよね」
「ウン。ぼくニモソウ見エタ」
 こうして毎日娘と親子仲睦まじくお昼が食べられるという契約を取り付け、満足していたわたしは今朝リムジンで兄に言われたことを思いだした。
 ……関わるなと言われましたけど、そんなことを思い出すよりも先に約束してしまったのだから仕方ないですよね。それに有紀さんも何も言いませんでしたし。
 
 毎日ハッピーなランチタイムを味わえると言う事実と同じように、人生にはマイナスの制約もある。
 基本的にわたしは『人生良いこともあれば悪いこともある』もしくは『山あれば谷あり』という言葉の意味を『人生はプラスのこととマイナスのことでバランスがとれている』と解釈しています。なので昼のハッピーアワー(※お酒は関係ありません)があれば放課後のアンハッピータイムがあっても仕方がないと思っています。
 しかし今朝「毎日放課後は三ツ城の部屋まで来い」と兄に言われた時は若干の絶望を感じたのもまた真実。
 だからわたしがお昼ご飯を葉月ちゃんと毎日食べましょうと言ったのは、故意とはいえ、仕方がないと判断できましょう。
 そして道中、当然の如く迷って昨日葉月ちゃんと会えた高校棟の中庭に到達してしまったのも仕方がないことなのです。……意図的ではまったくありません。だってわたしこの道しか知らないのですから。
「おや、今日も道に迷われましたか?」
 斉藤さんです。
「……」
 辺りを探しても斉藤さんだけです。
「……いえ、この道しかわたし覚えていないので」
「ああ、お嬢様をお捜しですか?」
 なんか見抜かれてしまいました。わたしってそんなに分かり易いんですかね。
「いえいえいえいえいえいえいえ、そんなことはありませんよ?」
「ははは。申し訳ありませんが、お嬢様は本日宿題をやる為、そして家庭教師のご予定があるので早々にご帰宅成されました」
 葉月ちゃんもお受験なさるんですかね?
「ああ、家庭教師といっても経営学や語学の類です。受験は関係ありませんよ」
 なるほど、経営者になった時必要になる勉強ですか。つくづくここの学校生活がよく分かりませんね。
「まあ、結構特殊な学校ですからね」
 ……っていうか、いま完全に心を読まれていません?
「いえいえ、そんなことは御座いませんよ」
「……」
 読まれてますっ!
「あっ、ばれてしまいましたか」
「く、口を動かしてないのに、どうしてわたしの考えていることが分かるんですかっ!?」
「斉藤家は戦国時代から続く武家商人の家系でして、取引に必要な程度で相手の心の内を読めるよう幼き頃より仕込まれております」
「……戦国時代にエスパーさんがいるなんて初耳です」
「いえ、相手の細かな視線の移動や諸動作などを観察して、経験からそうだと思える程度のものなので超能力の類とは違い、完全に読めるというわけではありません」
 また心読まれましたっ!?
「今のは口に出しておられましたよ」
「そうでした。すみません」
「いえいえ、お気になさらず」
「ちなみにそれって誰でも読めるんですか?」
「いえいえ、普通の方でしたら大まかになにを考えているか程度。かんな様のお兄様くらいになると、なにかを考えているなくらいしか分かりません」
 つまり、わたしの思考は読みやすいということですね。反省します。
「かんな様のそういったところもよろしいかと思いますよ、私は」
「でも郷に入りては郷に従えという言葉もありますし……あれ? ローマでしたっけ?」
「When in Rome, do as the Romans doは英語版ですね。両方とも同じ意味です。……けれど、この学校にはかんな様のような方が今までいらっしゃらなかったので、一人くらいはいてもよろしいかと、私は思います」
「ありがとうございます。確かに葉月ちゃんみたいな子が友達を作れないなんておかしいですしね!」
「まあ、その件に関しては現段階では仕方がないとしか言いようがありませんね。この学校は経済界の縮図。生徒一人一人がいずれ社会に出た時、自分達が属する組織を代表しているのです。同じ勢力であれば仲良くする者達もいますが、基本的には同じ勢力内でも権力争いがありますので、そのような例は稀だと言えましょう」
「それは分かっているんですけど……って、うちの仲良い感じって稀だったんですかっ!」
「はい。特に同じ本家血筋の兄妹がどちらも継承権を破棄せずに争っていないのは、前代未聞です」
 ……そうなんですねぇ。これは十回ボタンを押したいくらいの知識です。わたしに直接関係ありますし。でも、わたしは継承権を持っているんですか。そんなこと兄から一切聞いておりませんけれど。
「ええ、三ツ城財閥の親族は、継承権の破棄や譲渡が行われない限り、産まれた時点で有しているものとされています。勿論例外はありますが」
「その例外は内縁の子は継承権持てない、とかですか?」
「いいえ。例外はこの学園に入学しない場合です」
 ということは兄はわたしにわざわざ継承権を与え、ライバルを身内に作ったことになる。
「はい。ですので親族の方々、皆が三ツ城様のお考えを理解できていません」
 それはそうでしょう。普通ライバルは少ない方が良いに決まっています。少なくとも直系という普通に考えたら一番の敵となる位置の人間は人知れずに排除したがるでしょう。
「はい、実際に三ツ城様は驚異となりそうな組織の嫡子達を過去に何回か暗殺されておりますし」
「……………………………へ?」
「もし私の言葉が信じられないのであれば、こちらから資料をお送りすることもできますよ? それに仲の良い堀江様に調べて頂いてもよろしいかと」
 いやいやいや、あの滑稽な兄は暗殺を口にしても、実際に行うようなタイプではありませんよ。うん。ありえません。今朝だって……。
「他の者に否定されようとして、わざわざ過激な手段を三ツ城様が仰っていると思われているのであれば、それは違いますよ。過去のデータを調べれば実際にそのような過激な手段を用いているのは明かです」
「……」
 考えがまとまらない。なにを考えたいのか、なにを思っているのかすら考えられない。わたしはとりあえずここに長居しては駄目だと思い、斉藤さんに「えっと、それではわたしは三ツ城の部屋へと行かなければならないので」と言ってその場を後にした。
 けれど、とてもではないが兄と顔を合わせる気にもなれず、渡邊さんに連絡して体調不良ということで迎えに来てもらった。
 
「お嬢様、大丈夫ですか?」
 ひとりぼっちのリムジン内に渡邊さんの声が響く。
「あの……」
 渡邊さんに訊ねてしまいそうになって、思いとどまる。もし彼が知らなければそれは兄にとって致命傷となってしまう。
 けれど、殺人犯を守る意味はあるのでしょうか。
「なんですか、お嬢様」
 優しい声。
 きっと祖父がいたらこんな感じなのでしょうね。けれどわたしには分かりません。
 なにも分からない。
 もしかしたら渡邊さんは兄の凶行を知っているのかもしれない。ふと、そう思えた。けれどそれを知りつつ、彼は優しい声でわたしを心配する言葉をかけてくれているのかもしれない。でも、もしそうならそれは犯罪者を庇う、間違った優しさだ。
 人間ではない。
 兄も渡邊さんも、そして木田さんも、皆兄の所行を知っているのであれば彼らは人間ではない。人間の道をとうの昔に踏み外してしまった者たちだ。
 そしてわたしは今、そんな者たちに囲まれて過ごしている。元より生活水準の違いや、学校の雰囲気の違いなどでこの世界がわたしの知っている世界ではないと知っていた。
 けれど分かっていなかった。
 人を殺してまで目的を達成するような世界なんて、分かりたくもない。
「かんな様」
 ふいに名前を呼ばれる。
「かんな様。もしや文哉様の過去をお聞きにでもなられましたか」
 わたしはどう答えて言いか分からず、沈黙を保つ。
「そう、ですか」
 それはペットの死を隠して、ペットは何処か遠くへ行ったのだと吐いた嘘が、子にばれた親のような声だった。
 そこから続く言葉になんの意味がないことを理解している声だ。
 一度失った信頼を回復できないと知りつつも、その言い訳を述べて少しでも子の理解を得ようと考えている声。
「何を言っても無駄だと思いますが……」
 案の定、渡邊さんはそんな前振りから始まった。
 そしていつもより長い時間を掛けて三ツ城の屋敷まで到着した頃には、渡邊さんの言い訳は終わっていた。
 けれど、わたしはまだ納得できません。例えそこに合理性や必要性があっても、わたしには理解できません。
 だからわたしは車の扉を開けてくれる渡邊さんに「兄をそこまで思ってくれて、ありがとうございます」としか言えなかった。
 
 その晩、木田さんが夕食を部屋に持ってくると兄の悪行を誰が知っているのかを教えてくれた。
 使用人では木田さんと渡邊さんだけ。
 傘下の四人で知らない者はいない。
 そして親族の間でも知らない者はわたしだけだったようで、それはわたしの父様も知っていたことを指す。
 だが誰一人として兄を糾弾する者はいない。
 親族に至っては彼の行った所行を『日常的なこと』として片付け、それを使って兄を陥れようとすら考えていないのだとか。
 それを聞いて、つくづく自分がなにも理解していなかったことに気付かされる。
 わたしは環境が違っても、普通に暮らそうと努力すれば可能な限り今までの生活に近づけると思っていた。
 実際に友人もできたし、傘下の人達とも誰彼構わず普通に接していた。
 接することが許されていた。
 けれどそれは大きな間違いだったのだと気付かされた。
 わたし以外の人間は皆、経済界という別世界の住人で、経済人という人間とはまた違う種類の動物だった。
 そんな環境でわたしはこれから過ごしていかなければならない。
「わたしには無理です」
 暗い部屋に自分の言葉が響く。
 今までいた家で自分の声が響くことがなかったのに、ここではどうしようもなく響いてしまうのだ。
 そんなことにすら泣きたくなってしまう。