
駄文集
経済選挙《4》
4
一晩中考えた結果、わたしは学校に行くことにした。
朝起きて、無言で朝食を済ませて、無言でリムジンに乗車し、無言で登校した。
その間、兄の存在は徹底的に無視した。
子供っぽいのは分かっています。けれど、わたしはこの世界で生きていく為の準備期間が必要なのです。本来それは三ツ城の屋敷に来た時に身につけるべきだったのかもしれませんが、わたしはどうしようもなく平和ぼけした普通の女の子だったので、仕方がありません。それに過去はどうやっても改変できないのです。
けれど、未来は変えられます。決意し、準備することでこの世界で生きていけるように順応することができます。そう考えたわたしは、心の準備ができるまで兄を無視し続けます。そう決めたのです。
「おや? なにか心境の変化でもありましたか?」
放課後、三ツ城の部屋へと向かわずに帰ろうとしていたわたしに斉藤さんが話しかけてくる。
今日は心を読んでこないのですね。
「この世界に順応しようと」
「それはもったいない」
もったいない? どういう意味なのでしょう。
わたしは素直に疑問をぶつける。
「言葉通りの意味ですよ。かんな様はこの世界では稀とも言える、まともなお心の持ち主。私としてはそのお心でこの世界を変えていってくれることを望んでいたのですが」
そんなことは考えるまでもなく無理なことです。この世界はどうしようもなく、まともではないのですから。
わたしは率直に斉藤さんにそう告げるが、彼は退こうとはしない。
「正直な話を申しますと、かんな様の素行に影響された者は少なくはありません。葉月お嬢様は勿論ですが、他人との関わりを極端に嫌う堀江様だってそうです。他にもかんな様のクラスで数名ほど、違う財閥やグループの方々と仲良くなり始めたと聞いております」
「そんなことは信じられません」
「ですが、事実です。かんな様が二、三日いただけでこれなのです。貴方は自分の影響力をもう少し自覚した方が良い」
「……そんな」
でもわたしはこの世界で生きていこうと決意したのです。そんなすぐに自分が決めたことは曲げられません。
それに、もし自分の今までの行いや振る舞いが正しかったならわたしは兄の所行にどう対処して良いか分からない。
「かんな様のその底抜けに裏表のない表情や行動を見て、多くの人間が自分を偽ることの馬鹿さ加減に気付き始めています。それなのにまともであることの正しさを無自覚で説いていた貴方が仮面を付けてしまっては、誰も真人間にはなれません」
「でも、そうでもしないとわたしは兄の悪行に向き合えません」
「それは貴方の問題でしょう?」
斉藤さんの言うことはもっともです。
悪しき風習がまかり通っているのを正せるのに、多くの人間が死なずに済むようにできるのに、わたしは自分のことを優先してしまっている。これはわたしが元いた普通の世界でも良いこととは言えない。
自分勝手とさえ言えるのではないでしょうか。
「そう言われても、わたしにはどうすることもできません。兄様は家族です。死ぬまで向き合わなければならない種類の人間です。それを気にするなと言われても……」
「ではこうしましょう。三ツ城様がかんな様が気にすべき家族足る人間かどうか試してみましょうか?」
「試す? いや、その前に兄は家族なんで、気にしないと駄目なんですって」
「いえいえ、元より最近血が繋がっていると言ってきたぽっと出の家族です。それにかんな様も仰っていたでしょう『兄としての実感はまだ薄い』と。であれば、たんなる同居人として割り切れば、三ツ城様が目を背けるような行為を行っていたとしても貴方には関係ありません」
……確かにそうですけど。
「どうやって試すつもりなんですか?」
撒餌に魚がかかった時のような綻びをその口元に表せて、斉藤さんは説明を始める。
◇◆◇
プルルー。三ツ城の部屋で、卓上に置かれた文哉の携帯電話が鳴り響く。
そしてそれを当然のように月出が出る。
「はい。三ツ城文哉で携帯です」
基本的に感情の起伏が見られない月出の顔に、僅かではあるが驚いているような感情が表れたのを文哉は見逃さない。
「どうかしたか?」
「妹様が誘拐されました」
携帯を握りながら、月出がそう言い、文哉以外の人間が驚く。
しかし文哉自身は冷静に「誰が誘拐をした?」などと訊ねている。
「岐阜家の斉藤が身柄を預かっているそうです」
「岐阜か……放っておけ」
文哉はそう言うと月出から電話を取り上げ、強制的に通話を切ってしまう。
「文哉。良いのか?」
「問題ない。どうせあの馬鹿な岐阜が、斉藤に言いくるめられて行動しているだけだ」
「俺は、だから大丈夫なのかと聞いているんだが」
「どういう意味だ?」
「あの斉藤はかなり切れる。今までは実行段階で葉月ちゃんが失敗していたが、どれか一つでも成功していたらお前の地位は危うかった。違うか?」
今まで岐阜が引き起こした問題行為を脳内に思い浮かべながら、文哉は考える。
「確かに、最悪の場合でお前ら全員か俺一人が死んでいたな」
「葉月ちゃん、ウチら全員を共には死なせてくれなさそうだしねぇ」
まるで皆一緒に心中するのが本望だとでも言うように、萌が冗談っぽく言う。
「だが、岐阜が介入したことでそれらは全部失敗に終わっている」
「葉月ちゃんも、かんなちゃんに負けず劣らずドジだからねぇ」
「そうだ。それに、これはかんな自身の問題だ」
「かんなちゃんが自主的に誘拐されたとでも思っているのか?」
「ああ。今朝のかんなを見ただろ。あれは俺が過去に指示したことに関して嫌悪感を感じている眼だ」
「確かに、今朝の妹様はいつもと違いました」
「オ昼ノ時モナニカ違ッタ」
「それでユッキーがウチに相談してくるくらいだもんねぇ」
「ソ、ソンナコトハシテイナイ」
一見すると一人問答しているように聞こえなくもない、同じ声で、しばらくそんなやり取りがある。
その間に文哉は考え始めた。
斉藤元就の目的と今後の行動を。
◇◆◇
「お嬢様をお連れ致しました」
斉藤さんがわたしの監禁(ということになっているらしい)場所である岐阜家のお屋敷、そのゲストルームに葉月ちゃんを連れてくる。
「はぁぁぁん! 寂しかったですぅぅぅぅぅぅぅ!」
「はっ離せッ! 離すのじゃっ!」
「あーもうっ! わたしこの家の子になるっ! そして葉月ちゃんのお母さん代理になるっ!」
「だから妾の母上は生きておると言っておるじゃろっ!」
そんな状況が大体三十分くらい続いて、わたしは正気になりました。
「はっ! わたしこんなに和んでいる場合じゃなかったです!」
「やっと理解できた……えぇぇい! そう言いつつも妾を離さんのは何故じゃっ!」
「……ああ、すいません。条件反射でして」
それはもう林檎が地に落ちるくらいに自然な摂理と呼べるくらいの条件反射でして。
「…………………まだ引っ付いたままじゃが」
「諦めて下さい」
「開き直りおった!?」
「かんな様は大切なゲストです。お嬢様も多少のことは我慢致しませんと」
「多少でこうもべったり引っ付かれてはかなわんのじゃが」
「葉月ちゃ~ん。お母さんのお膝の上に座りましょうねぇ」
「あと、このあからさまな子供扱いもどうかと思うのじゃが」
そんな文句を言いながらも、きちんとわたしの膝の上に座ってくれる。
「仕方ありません。かんな様をお連れする際に『葉月ちゃんを可愛がって良いなら致し方ありませんね』という条件を付けられたのです」
「えっ? なんかそれおかしいじゃろ! なんでこいつが上目線なんじゃっ!」
「その代わりに抵抗もせず、至極大人しくご同行頂きました」
「それ違うじゃろっ! 確実に妾をいじれるから大人しくしてただけじゃないかっ!」
「まあまあ、落ち着いて下さい。なんなら膝枕してあげるからお昼寝でもします?」
「子供あちゅかいっ……こほん。子供扱いするなと言っておるじゃろう?」
噛んだのを隠そうとする葉月ちゃん可愛いです。
「ああ、かんな様。先程三ツ城様へ連絡を差し上げました」
急にわたしのテンションを下げることを言われて、多少恨めしい顔で斉藤さんを睨んでみる。けれど彼はそんなのどこ吹く風、という感じでにこやかな表情のまま続けた。
「三ツ城様から『放っておけ』と電話に出た月出さんが言われておりました」
そう言い終わるやいなや、彼は証拠にとでも言うように録音された音声を彼の携帯から流す。
確かに、兄がわたしのことは放っておけと言うのを最後に通話が切れる。
「文哉のやつ、妾を馬鹿にしておるな」
わたしが岐阜にいるということを聞いて、即座に電話を切った兄に対して葉月ちゃんが怒る。
おそらく自分が他人を傷つけるような行動には出られない、根性なしだと思われているとでも感じたのでしょう。
「まあ、お嬢様は傘下の数では圧倒的に、他の三ツ城親族と差が開いておりますし、今は仕方がないかと」
「う゛ぅぅぅぅ~」
「まあまあ、わたしも放っておかれた身ですから……二人で仲良く暮らしましょうっ!」
「ひゃっ!? お、おおお主、こ、ここにずっと居座る気か?」
人を誘拐しておいて何を言っているんですか、この子は。引取り先が引取り拒否をしたらわたしの居場所は誘拐先(ここ)しかありませんでしょう。
「大丈夫ですお嬢様。私が何とかして三ツ城様を困らせて差し上げますから」
「ほ、本当かっ! 頼むぞ斉藤よっ!」
「ん~、納得がいきません。そんなに葉月ちゃんはわたしのことがお嫌いですか?」
「え……いや、そう言うわけじゃないのじゃが…なんと言うか……そのな……」
お母さんは分かりますよ! ええ、お腹は……痛めていませんが、我が子のことです。きちんと分かりますとも!
「葉月ちゃんはわたしのことが苦手なのですか」
「あ、まあ……そうじゃな。今までお主のように接してきた者はおらんかったし……文哉を除いてな」
「兄様が?」
「ああ、今はお主も知っている通りじゃが……小学校卒業くらいまでは妾に会う度、お主に近い感じで接してきおった。じゃから妾は、いつかお主も文哉のように態度を変えてしまうのかと思ってしまってな」
わたしが言うのもなんですけど、もう終わったこととはいえ、異性がわたしと同じ事をやるとそれはそこはかとなく犯罪臭がしてきます。
「ああっ! と言っても、お主ほどではないぞっ! い、一応文哉も、お、男じゃしなっ!」
はは~ん。ピキーンときましたよ。葉月ちゃんは兄に好意を寄せています。
「かんな様。大当たりです」
心を読んだ斉藤さんがサムズアップをして正解を教えてくれます。
しかし斉藤さんではない葉月ちゃんは、なにが大当たりなのかも分からず、わたし達の二人の顔を交互に見ながら「なぬっ? なんじゃっ?」と言っている。
「でも、兄様はなんでそんな純粋で純情な葉月ちゃんに対する態度を突然変えてしまったのでしょう?」
「それはきっと思春期特有のものだと思います」
「えと、あの『女子なんかと遊んでるなんて格好悪いぜ!』ってやつですか?」
「ええ。それが妥当なところかと……それではわたしはまだ仕事が残っておりますので、これで失礼致します」
音を立てずに部屋を出て行く斉藤さんを見ながら、わたしは考える。兄が思春期特有の行動をするだろうか、と。あの、近くにアイドル声優やクールビューティーの面々を置いてどうどうとしているあの兄が。
「斉藤が言っていることも多少はあるのじゃろうが……多分違うぞ」
唐突に膝の上から言われて、わたしは葉月ちゃんを膝に乗せたままであったことを思い出す。
……ええ、勿論片時も忘れていませんでしたよ。これは、その……言葉の綾です。
「と言うことは、葉月ちゃんは兄が変わったきっかけに心当たりがあるんですか?」
訊ねると、葉月ちゃんは多少言うかどうかを迷ってから口を開いた。
「お主、文哉が人を殺す依頼をしたのは、もう知っているじゃろう」
「え、ええ。それは昨日斉藤さんから」
「では、その大まかな経緯なども聞いたか?」
「はい、それは渡邊さんに」
「ふん。あの爺やか。それでは、全てを聞いたわけではないのじゃな」
全て? あの話しが全てではないのですか。……とはいえ、経緯はどうであれ、殺人をした人の話。わたしの考えが変わるとも思えません。
「始めに言っておくが、文哉は自分の為に殺人など一回も指示しておらんぞ。結果的にそう見えるだけじゃ」
それならなお悪いです。他人の為の殺人なら許されるわけではありません。
「まあ、やつ自身が命を狙われていたと言うことは事実じゃがの」
「それは聞きました。三ツ城家の本家筋に産まれたからだとか」
「ああ、確かに理由としてはそれだけでも十分じゃ。じゃがの、文哉の場合は違う。やつは優秀すぎたのじゃ。優秀すぎて凡才な大人など軽く恐怖を感じるくらいじゃったらしい」
まあ、わたしの前では馬鹿げたことしか言っていませんけど、兄も本多さん達に認められるくらいに凄い人物だとは思っていましたよ。……可能性の問題として。
「やつが今どれくらいの会社を経営しているか、お主知っておるか?」
「えっ? 兄様の会社があるんですか?」
「勿論あるに決まっておろう。三ツ城家の者は幼い頃より英才教育を施されておる。妾とて数は少ないが直々に二社ほど持っておる」
それは初耳です。そんな素振り一度も見たことありませんでしたし。
「ちなみに、どれくらいの会社を持っているんですか?」
「さぁの。最後の妾が聞いた時には大小含めて五十社を超えておった」
五十っ!? そんなに経営をしながら学生も選挙への準備もしているのですか。……これは兄に対する見方を変えなくてはなりません。常人ではないというくらいには。
「そのうちやつを暗殺しようとしていた者共が経営していた会社は八割以上。……分かるか? これらの会社は潰れてしまっても三ツ城財閥に被害はない。じゃが、やつは自分が取締役になることでその者共やその下に就いている社員達が路頭に迷わぬよう、会社を存続させる為だけに乗っ取ったのじゃ」
「それは、その暗殺を企てた方々が誰かに指示されてやっていたからですか?」
財閥に被害がない程度の会社であればそう誰かが指示したようにしか思えない。トカゲのしっぽ。切ってもまた生えてくる程度の会社。
「ああ、勿論、実際に裏で糸を引いておった者はもう財閥から追放され、牢屋の中じゃ」
「つまり葉月ちゃんは兄が自分の暗殺に関しては平和的に解決したと仰いたいのですね」
「そう言う事じゃ」
「なら、兄は誰の為に暗殺を指示したのですか? 自分の命とは違って逼迫性も緊急性もなかったでしょうに」
「それは複数じゃ。お主の知っている堀江姉弟、月出嬢、本多の坊主も確かそうじゃった」
それは今の傘下の面子そのものではないか。
わたしはそう思い、彼らが何故兄に従っているのか少しだけ分かった気がします。
「けれど、それこそ暗殺しなくても兄が吸収してしまえば良かったじゃないですか」
「それは吸収後の話しじゃ。本人が駄目だと分かった他の連中は、やつを陥れようと周りの人間を攻撃することにしたのじゃ。勿論、自分が黒幕じゃとは分からないようにな」
一度成功した作戦は二度と成功し難い。対人戦でそれは言うまでもなく当然のこと。故に兄は身内を暗殺されるのを知りつつ、悠長に犯人捜しで企業を取り込む活動などやっていられなかったのだろう。それに、このような話を聞いていると忘れがちだが、当時の兄は小学生。まだティーンにすらなれていない年端も行かない少年の話しなのだ。
「じゃが、あやつ変わったのはその問題が解消されてからじゃ」
「いやいや、他に誰がいるんですか?」
もう参加のメンバーを全員言ってしまっている。他にいる人間など……。
「お主が残っておるじゃろう」
「わたしぃっ!?」
「いや、正確にはお主の母君じゃな」
そう言う葉月ちゃんの表情は悲しそうになっている。
「うちの母様は病死ですよ? わたしが小学生になった頃には入院していましたし」
「では聞こう。お主の母君のご病気は?」
「えっと……あれ?」
いやいや、聞いたことありますよ。なんか長ったらしい学術名が付いていたことも覚えていますし。えっと、なんでしたっけ。
「ガンじゃよ」
「いや、なんかそんな一般的なやつじゃありませんでしたよ。もっとなんか、聞いたことのないやつでした……えっと、き基底細胞母斑症候群?」
「それは遺伝性で、なおかつ顔貌や皮膚などに障害を起こす病態じゃ。そしてガンの元でもある。お主の母君は痩せてしまっている以外、外見的には健康体と変わらんかったじゃろう?」
「ええ、確かにそうでした」
「つまり、それが本当の病名ではない。……お主にも分かりやすいように言うとじゃな、主治医がお主の母君を殺したのじゃ」
「……………………………………………………………は……い?」
「本来お主の母君が入院した頃、その基底なんとかとは関係のないガンは、初期状態じゃったらしい。その時点で問題となっている内臓の一部を摘出しておれば、きっと今もご健在じゃったはずなのじゃ。じゃが、主治医はなんの処置もせず、ただ入院のみを薦め、そこで薬と称した栄養剤のみを与え続けたのじゃ。その結果が、一昨年の葬式じゃ」
色々と聞きたいことが頭に浮かぶが、どれも上手く言葉にできない。シャボン玉のように、口を開くと消えてしまう。
わたしはなにをしている? 怒っているのか? 泣いているのか? 自分の感情を把握することすらできない。
そんなとても思考とは言えない、ぐちゃぐちゃな考えを最後に、私は気を失っていた。
「……落ち着いたか?」
気付くとわたしは葉月ちゃんに膝枕をされていた。
いつの間に気を失ったのでしょう。
「すいま――」
「気にするな。お主は妾のゲストじゃからな」
謝ろうとするわたしより先に、葉月ちゃんは屈託のない笑顔でそう言う。
「これじゃあ、どっちがお母さんか分かりませんね」
わたしも少し無理をして笑顔を作りながらそう言うが、葉月ちゃんは哀しそうに「すまぬな。三ツ城家の問題にお主を巻き込んでしまって」と言った。
その言葉はどこか懐かしい響きを帯びていた。何処かで聞いたことがある、心が申し訳なさと否定したいという気持ちと、愛されているのだという確信が混ざり合った心境にさせてくれる、そんな声だ。
しかしわたしは思い出す。思い出そうとすることもなく、焼き上がったパンがトースターから飛び出るように、その記憶は浮上した。
三ツ城の男との間に子供を作ってしまっただけで殺されてしまった女性の言葉を。
『貴方の三ツ城という苗字はね。お母さんの誇りなの』
わたしが母と違うことを嫌がっていた、この三ツ城という苗字について彼女はこう答えたのだ。それがいつだったか、母がその時どんな顔をしていたかも思い出せないのに、何故かその声だけはリピート再生されるまでもなく鮮明に思い出せる。
その声に恨みや憎しみなどはなかった。むしろ屈託のない笑顔で自信をもって言っていそうな気さえする。だから、わたしは母の死を悲しんではいけない。哀れんではいけない。そう言われているような気がした。
しかしそうと分かっていても、わたしはそんな簡単に気持ちを切り替えられない。母の敵を討ちたいし、母を苦しめた人間に母が感じた以上の苦しみを与えたい。それが人の道を外れていると知っていても、わたしは自分を止められる気がしない。
ただ、今のわたしにその術はない。わたしは、わたしでいる限り、そんなことを実現できない。どんなに憎んでも、どんなに呪っても、願いだけで人は殺せないから。
だからわたしは一つ決心する。わたしは母の敵を討つ為、人の道を捨てる、と。
「お主。今、自分がどんな顔をしているか分かっておるか?」
唐突に葉月ちゃんに問われ、わたしは自分の顔を触ってしまう。けれど触ったところで自分の顔の形状など分からない。
「お主は今な、文哉と同じ顔をしておったんじゃ」
「っ!?」
そう言われて、なにかを気づけた。そんな気がした。
でもはっきりとは分からない。
それは雲以上に不確かなかたちでしか感じられなかったから。
「兄様は……母様の死を知ってから変わったんですか?」
「ああ、そうじゃ。そして……守れなかったと嘆いていた。それが妾が聞いた、やつの最後の本音じゃよ」
最後の本音。
その言葉にわたしは彼女の悲しみを感じる。
「一つ聞いても良いですか?」
「許可しよう」
「葉月ちゃんや兄様は、わたしの母様と認識があったんですか?」
「妾はない。が、何度か文哉のやつからお主の母君のことは聞いておる」
「それはどんな内容でした?」
「取り止めもない、普通の親が子にするようなことをしてもらったと、嬉々として語っておったよ」
……三ツ城家の屋敷に連れてこられてからずっと思っていた疑問の一つが解けかかる。あの家に兄の親はいない。それはわたしの父でもある三ツ城家当主も、兄を腹を痛めて産んだ三ツ城婦人も、あそこにはいない。
いるのは大勢の使用人と兄、だけ。
勿論、渡邊さんや木田さんは良い人だし、父代わり母代わりにはなれるかも知れないけれど、兄の近くには本当の両親がいない。
兄は一体どんな幼少期を過ごしたのでしょう?
初めて自分の中に兄という個人に対する興味が湧く。そして、今までそんな簡単なことすら気にかけていなかったことに気付く。
わたしは斉藤さんの言う通り、兄という肩書きの他人としてしか彼を見ていなかったのだ。口では兄様兄様と言っていたくせに、その実わたしは彼を『ニイサマ』と言う呼称の人間だとしか思っていなかった。
「わたしは、兄不幸な妹ですね」
「そんなのは誘拐を自ら承諾した時点で決まっておるわ」
「あはは、葉月ちゃんって意外と厳しいです」
しかしわたしが気づけていなかったことを気づかせてくれたのは葉月ちゃん、貴方なんです。ありがとうございます。
心の中でそうお礼を言って、いつも通り彼女をいじ……もとい可愛がり始めます。
「しかし葉月ちゃんは、色々と知っていたのに、なんで兄様を攻撃するような問題ばかり起こしていたんですか?」
「それはほら、思春期特有のあれですよ」
わたし達の入浴後に、夕食を持ってきた斉藤さんが会話に加わる。
「し、思春期特有のあれとはなんじゃっ! 妾は別に男子と遊ぶことに対してなんの恥じらいも感じないぞっ!」
「ビッチですね」
「ええ、お嬢様。それは些かはしたないかと」
わたしと斉藤さんのダブルアタックに、葉月ちゃんは自分が何を言ったのか考え始め、すぐに理解できたようで、狙い通り恥ずかしがる。
「ち、ちがっ! 違うのじゃっ! そう言う意味ではないのじゃっ!」
そう言いながら葉月ちゃんはわたし用のベッドから枕を取ってきて、わたしや斉藤さんに向けて振り回し始める。
……わたしは全攻撃を受けているのに、斉藤さんはティーポットを片手に持ちながら軽々と避けてしまっています。勿論紅茶も一滴と溢すようなことはしていません。
しばらくして、「ぜぇぜぇ」と肩で息をしている葉月ちゃんがベッドの上に座ったので、わたしは再度質問をする。
「それで、葉月ちゃんが兄様に色々な行動を起こしていたのは、葉月ちゃんなりに『わたしを見て! アイラブユー!』的な意味だったと解釈してもオーケーです?」
「それで問題ないかと」
「大ありじゃっ!」
「本人もこう言っておりますし」
「え、いや、妾はいま否定したのじゃが……え?」
「そうですね、本人が肯定しているのにこれ以上突っ込んでも面白くありませんし。この話題は終わりにしましょう!」
「いや……じゃから、妾は……否定を」
「はい、そうですね。……それではわたしはこれにて失礼させて頂きます。お嬢様方も、明日は学校がありますので、お早めにお休み下さい」
ぽかーんとしている葉月ちゃんをそのままにして、斉藤さんは食事や紅茶を乗せてきたトレイをもって部屋を出て行く。
「え、妾は」
「葉月ちゃん。ユー、もう認めちゃいなよ、です。その方が楽ですよ」
「じゃから、妾は最初からそんな気はないと」
「うんうん。やっぱり人は正直が一番ですねっ! じゃあ、明日からはわたしも微力ながら助力致しますのでっ!」
「え?」
危ない危ないです。危うくループに入ってしまいそうでした。
わたしはそれに気付き、話を戻す為もう一度同じ内容の言葉を言う。
「っとまあ、冗談はここまでにしておいて、葉月ちゃんに聞いておきたいことがあるんですが――」
「今まで妾の言うことを無視していじっておきながら、聞きたいことには応えよと言うのは些か虫が良すぎるのぅ」
あっ、再起動しました。いつもの元気で尊大な態度をしているけど見た目可愛いからどうでもいいや、的な葉月ちゃんです。
「そんなこと言って良いんですか? わたし、三ツ城文哉の妹ですよ」
「じゃからなんじゃ?」
「わたしが『葉月ちゃんと結婚なんてしないでお兄ちゃんっ! ヤダヤダー!』とでも言えば葉月ちゃんの幸せ家族計画は脆くも、そして簡単に崩れますよ」
そう脅すと葉月ちゃんは少し考え始める。
……いや、本当に結婚止めたくてもそんなことは絶対に言いませんけどね。馬鹿丸出しですし。
~葉月NOW THINKING~
「……ま、まあ」
あっ、結論が出たようです。
「まあ、文哉と政略的に結婚をしなくてはならない可能性がないわけではないからな、その際の問題を今のうちに排除しておくのもやぶさかではない」
要約すると『ふみやんラブラブちゅっちゅ~』と言うことらしいです。……まあ、一応自分の兄なので、それを口に出して葉月ちゃんをいじる……違いますよ、可愛がる、程の気概はないのですが。
「まあ、そんなのはどうでも良いのですが」
「どうでも良くないわいっ!」
「どうでも良くないんですか? と言うことは兄さんとの結婚問題は重要なことだと?」
「ち、違うのじゃ……そういう意味で言ったんじゃ……」
大体このようなやり取りが更に五往復くらい、時間にして約一時間半くらい続きました。
「……それで、聞きたいこととはなんじゃ?」
やっと諦めて頂いた葉月ちゃんに、感じていた疑問をぶつけられます。
「今までの計画と今回の誘拐。詳細に至るところまで策を練ったのって斉藤さんですか?」
「そうじゃな。あやつは優秀じゃからのぅ」
優秀すぎて危険です。
わたしはそう思うが、斉藤さんの優秀さを誇るようにそう言った葉月ちゃんには言わずにおく。
誰であっても、信頼している人に裏切られるのは辛いでしょうからね。
◇◆◇
葉月がかんなにいじられている頃、三ツ城文哉はいつも通り自室で、膨大な報告書や提案書、許可依頼などの書類と向き合っていた。
ぴーぴー、とふいに携帯とは違う電子音が室内に鳴り響く。
「文哉」
「有紀か。なんだ?」
「暇潰シニ斉藤家ノめーる通信記録ヲ漁ッテミタ」
「なにか見つけたのか」
「ウン。今元就カラ実家ニ送ラレタめーる記録ヲ転送スル」
有紀がそう言い終わると同時に、文哉のデスクトップにデータ転送完了の表示がなされ、即座に送られてきたデータ内容が表示される。
「これが罠である可能性は?」
「ナイ、ト思ウ。コノめーる送信ニ使ワレタノハ、はっきんぐ防止処理ヲ施シタさーばー」
「そうか……なら対処は明日の朝までに考えておこう」
「ソレ、遅クナイ?」
「問題ない。斉藤にも岐阜の部下という立場がある。メール内容が本当なら、そこだけはなにをおいても死守しなくてはならないからな、性急なことはしないだろう」
「分カッタ」
「待て」
「ナニ」
「……本当に暇潰しで、斉藤家用にプロテクトが何十にもかけられたサーバーにハッキングをしたのか?」
「…………ソウダト言ッタハズ」
「そうか。いやちょっと不自然だったから疑問に思っただけだ。許せ」
文哉がそう言うと、もう有紀の音声は聞こえてこなくなった。
「まあ、概ね計画通りか」
そう言って文哉は顔色を変えて再度書類の山を処理し始める。