
駄文集
第一章――商人の日常――
一九〇九年九月三十日(月)午前十時――ロンドン大学(UCL)構内――
ラッセル・スクエアや大英博物館を周囲に置いた位置に、このユニヴァーシティ・コレッジ・オブ・ロンドン(通称UCL)はある。
そしてその校内では、今学年度初日の講義が各部屋で行われている。
しかし、このやる気の意欲を願い井戸(ウィツシング・ウェル)に投げ捨てることで職を得たような教授の講義は、とても盛況とは言えなかった。
受講生二名。
他の講義と比べなくても、この講義が人気のないものだと分かる数字だ。
だがそれは、いささか不公平な評価である。
何故ならこの【魔学概論基礎講座】という講義は、魔学部の生徒のみが受講を許されている。
そしてその魔学の学部生は、合計二名。
今年度に入ってやっと、五年ぶりにゼロ以外の数が計上された学部なのだ。
つまりこの講義は、受講生の割合だけを見れば、100%という素晴らしい数値を叩き出している講義ということになる。
けれど五年ぶりに開講となった割に、教授の意欲は例年通り数多くの生徒を相手にしている者達と似たようなもの。
勿論、その責を彼に課すのは少しばかり酷だろう。
教授も五年ぶりの講義ということで、この講義室に入るまでは意欲も期待も多大にあったのだから。
「……というように、この世の魔術の基本属性は火・水・土・闇の四つから成り立っており、四大元素(フォーエレメンツ)と呼ぶ。そしてこれらの四大元素を掛け合わせて作ることが可能なものを上位要素(アドバンスドエレメンツ)と言い……なんだい、ミス・グレイズ」
この講義が始まってから約一〇分しか経っていないのにも関わらず、ミス・グレイズと呼ばれた少女はこの度で見事、二〇回目の挙手を成し遂げていた。
もう教授も彼女に賞賛として、この授業の単位を送りたいくらい辟易している。
「風は基本属性じゃない?」
大学生には見えない、幼さが残る整った顔の少女は、挙手の回数を超える五〇回目の質問を、その言葉に抑揚を感じさせることなく教授に投げた。
その女生徒は長髪の茶が混じった金髪が特徴的で、その下にある整った顔も美しかった。
特に教授には、彼女の蒼く澄んだ眼はガラス細工のもののように綺麗で、好ましく思えた。
使い古された言い回しではあるが、年甲斐もなく教授は彼女を初めて見た時、彼女を精巧にできた人形と思えたのだ。
それほどまでに彼は少女に心を惹かれていた。
しかし、それも講義が開始するまでのこと。
講義が始まるやいなや、彼女の感情がまるで感じられないトーンで発せられる質問の嵐は、まさに豪雨と喩えても良いほど浴びせられることになったのだ。
結果として妻子を持つその教授は、家庭崩壊を避けられたわけだが、その難を逃れられても講義の継続は避けられない。
故に彼も彼女に対抗して、五〇回目となる返答を溜め息を吐きながらする。
「風は水を蒸発させる際に生じる現象だ。基本属性とは、他の何かから作り出すことができないものを指す。よって、風は先ほど言った上位要素に該当する」
教授が律儀にそう教えると、少女は納得したように手を降ろす。
それが彼女の疑問が解決した合図となっている。
これは三〇回目の時に「質問は挙手をして行うように」と教授が言ったことに起因していた。
講義が始まったばかりの時は、話の途中でもお構いなしに質問を浴びせてきていたのだ。
だから彼はそう言わざるを得なかった。
だが意外にも彼女は、そう言われてからは素直に挙手をするようになった。
けれど、と教授は考える。こう何度も話を遮られるのであれば、「質問は講義が終わったときに纏めてするように」と再度言い直した方がいいのかもしれない、と次の挙手を少し怯えながら教授は講義を再開する。
「上位要素は四大元素を掛け合わせて作らなければいけないため、その生成に必ず、魔術の源となる生力(エナ)の少しが消失(ロスト)してしまう。これは運動時にエネルギー消失(ロス)する現象と似ていて……」
そして無事に講義が再開させられると、また紺色のセーターと白いブラウスに包まれ隠れた華奢な腕が、空へと向けられる。
教授は板書をして、気付かないふりを試してみるが、これはもうすでに失敗している試み。
案の定、手が上空を指している状態で、小さな体の彼女は教壇にまで上がってきた。
前回はここで屈してしまったが、ここでも無視をし続けたらどうなるのだろう。
ふと教授の脳裏に『名案』という単語と共に、そんな考えが浮かび上がってきた。
「んっ! んっ!」
少女は口を閉ざしたまま、飛んだり跳ねたりし始める。
教授は無視を続ける。
「はっ! ん!」
黒板と教授の間に割り込もうと少女が体を捻り込ませてくる。
さすがにこの状況で無視を続けるのは無理だと判断した教授は口を開く。
「……なんだい、ミス・グレイズ」
もう溜め息も在庫が切れたのか、素直に訪ねる。
「消失(ロスト)って、消えてしまうの?」
無垢な瞳を至近距離で向けながら、彼女はそんなことを問う。
「消失と言っても、完全に消えるわけではない。この場合の『消失』は『ロス』であって、消える……ええと『ヴァニッシュ』と言うよりは『失われる』が適切だ」
「『消える』と『失われる』は違う?」
「『失われる』は、なくなったわけではなく、存在はあるが他に再利用できないと言うこと。『消える』は完全になくなってしまったことを指す」
やっと手が下がり、彼女は黒板に背を向けて自分の席へと戻っていく。
もう一人の受講生である、和服の下にワイシャツを着込んだ東洋人の青年の隣席へと。
教授は、入室した際に彼らは知り合いだと思っていた。
なにしろ隣に座り合っているのだから、そう思って当然だろう。
しかし青年は講義開始からずっと、何かを熱心に書いており、隣で騒いでいる少女のことなど気にも留めていない。
知り合いなら彼女を止めてほしかったが、知り合いでないのであればそんなことを頼むのもお門違いである。
教授はそんな不平を嘆く為、再入荷した溜め息を外へと出荷して、少女に「質問は纏めて講義終了後にして下さい」と懇願した。
だが、返答が得られないまま、教授は仕方なくびくびくしながら講義を再開する。
そしてその願いが天へと届いたのか、それとも少女が単に慈悲深くも届け入れてくれたのか、残りの講義はつつがなく進行した。
勿論、講義の最後に用紙二十枚に渡る質問に、教授は答えなくてはならなくなったのだが。
しかしそこは講義終了の合図であるベルを理由に、彼は逃げることにした。
よって少女は質問をぶつける標的を、教授から青年へと代え、席に戻るなり青年の着物の端を掴む。
裾に自分の腕以外の重力が加算されたことを感じ、少年は顔を上げる。
「……ん? どうしたの?」
青年は流れるように動いていたペンを休めて、訊ねる。
教授は男性だった故か、少女の方にばかり目が惹かれてしまっていたようだが、青年もまた、大学生とは言えない外見を有している。
東洋人のなかでも彼は童顔の部類に入るだろう。
背丈がそれなりにある為、高校生くらいに見えるが、顔だけで言えば中学生でも通りそうだ。
「これ、分からないの」
「それなら教授に……って、もう講義終わっちゃったのか」
青年は教壇に誰もいないことを確認して、納得する。どうやら彼は、あの後半はやる気の消失(なくならず、再利用できない)によりお経にも似ていた教授の有り難いお言葉や、知恵を拝借する気はさらさらなかったようだ。
「ん~! っと……それより初めての授業はどうだった?」
のびをしながら、青年は話題を逸らす。
どうやらこの紙束は、見る者のやる気を奪う魔術的な効力があるようだ。
「たくさん怒られた」
「へ~、怒られちゃったんだ」
まるで自分はその場にいなかったように青年は話を進める。
「どんなことを怒られたの?」
「質問は挙手してする、とか、質問は講義が終わってからまとめてする、とか」
「結構基本的なとこを重点的に怒られたね」
「うん。クリスと違って教え方、下手だったから」
「ははは。まあ、五年ぶりの講義だっただろうし、仕方ないでしょ。それに教授全員が、教え方が上手いって訳でもないし」
「そうなの?」
「そうだよ。教授達は自分の専門分野では、研究者として活動しているんだ。大学の講義なんて、研究をするための副業(パートタイム)の仕事でしかないよ」
まあ、優れた研究者ほど教え方も上手いけど、と青年は続けて、暗に先ほどの可哀想な教授を優れた研究者ではないと言ってしまう。
「っていうか、ナターシャって本当に授業受けるの初めてなんだね」
「うん。生まれて初めて」
「授業中に立ち上がったり、歩き回ったりしなかった?」
「した」
「ははは。これは授業の受け方をきちんと教えとかないとだね」
こうして一限目の教授が生け贄となり、ナターシャは一般的な受講態度を教えてもらえることとなった。
きっと来週の彼女を見たら彼は驚くだろう。いや、もしかしたら来週は諸事情により休講になるかもしれない。青年はそう思いながら、次の講義に向けて準備を始めた。
「……と、生力と魔術式との反応を量子力学で紐解くことが可能となっている。よって……」
午前中最後の講義は、その年齢からもベテラン教授であることが窺える老齢な人物だった。
しかし彼は一限目の教授とは違い、元からやる気というものが感じられない。
具体的には、溜め息に変化をつけて辛うじて言葉に変換することを成功させているような声で講義をしているのだ。
そしてナターシャに至っては、青年の受講態度レクチャーが効を成したようで、今は一般的な生徒のようにペンを動かして、講義に全く関係のない絵を描いていた。
だが彼女は通常ではやりたくてもそう簡単にはできない、自動書記も平行して行っているようで、隣の机の上では書き手のいないペンが文字を書いている。
そのペンは自動書記を可能とする製品で、それに生力を込めるだけで考えていることを自動的に書いてくれる優れ物だ。
これは一般的にも市販されている為、これを使っていること自体はそこまで平凡の域を逸脱しない。しかしその商品説明にもあるように、考えていることを自動書記するのであって、明らかに違う動作である絵を描いているのに、文字を記入することは通常ではできない。
けれど、この答えは簡単だ。この製品は青年の物で、青年が改竄した魔術式では使用した人物が聴いた言葉を自動書記するようになっているのだ。
簡単にそんなことができるわけではないが、元から魔学知識に富んでいる青年であれば、そこまで難しいことでもない。
しかしベテラン教授がそれを老眼故、認識できていないのか、それとも認識しているのにも関わらず無視しているのかは分からないが、本来であれば魔学部の教授でも目を見張る技術だ。
勿論、講義を新たな呼吸法だけで行う教授に比べれば、まだまだだが。
「……と個人の生力量を基準に、十段階で魔術階級、通称『魔級』の一つが付与される。国際魔術協会に所属している国家のみ、成人するまでは毎年、成人後は3年以内毎に受判定義務があり、これは――」
カーンカーン。
教会のベルに似た音が講義室内に届く。
「――それでは、今日はここまで。課題の締め切りは再来週だ」
そう言うと、終ぞやる気の片鱗すら見せることなく、ベテラン教授は部屋を去っていった。
だが青年達は今もなお、熱心に紙の上でリズミカルにビートを刻んでいる。
一限目と同じく青年も真面目に、気怠そうな教授のお経を聞いていたわけではないようだ。
教授のいない部屋で文字を書き続ける青年と、絵を描き続ける少女。
そんな状況が教授の退出から優に十五分ほど経過し、変化が訪れる。
青年が手を止めて講義室前方を見た。
「あれ、教授が消えた」
消えたのは君の注意力だけだ、とあの教授がまだ室内に残っていたら言っただろうか。
いや、きっとあの教授はなにも言わないだろう。
そんな気の利いた台詞は、彼が朗読していた教科書(本人著者)には書いてないからだ。
「クリス」
どう見ても日本人である彼には似つかわしくない名前を呼び、再度彼の着物を掴む。
「ん? なんだい、ナターシャ」
クリスと呼ばれた青年は、彼女が手にしている紙を見つめる。
「ああ、課題出てたんだ」
ナターシャは頷きながら、自動書記を可能とするペンを駆使して書いていた紙を渡す。
「やっぱりナターシャに自動書記を頼んでおいて正解だったね」
青年はそう言いながら、ナターシャの頭を撫でる。
「~♪」
彼女は嬉しそうに撫でられながら、「次はこっちも見て」と言う代わりに、講義中熱中して描いていた複数の絵を見せる。
これは青年の提案でもあった。
授業内容は自動書記にて彼女に書かせ、その内容を後で読んで、理解できないところを青年が教えるという案だ。
勿論、自動書記が聴覚のみで可能となっている為、彼女は講義中手持ちぶさたになってしまう。それに関して彼は「その間は好きなことをやっていればいいよ」とも言っていた。
その結果が、この数十枚に渡るちょっとした画集にもなりそうな数の絵だ。
「ん? なに?」
それを青年が受け取って見ると、絵ではなく、この校舎の見取り図であることが分かった。
そしてその複数の図面には、様々な状況が想定された脱出経路や対策が記されている。
「クリスが狙われたら、これ便利かな?」
ナターシャはそう言って、無垢な瞳を青年に向けた。
しかし青年にはこれらの脱出経路を使う状況が思い付かない。
勿論、どんな状況に用いるかは、わざわざ書かれていた文言により、理解はできる。だが、例えば一枚目にある【敵が攻めてきた時】というのは、まず『敵』が存在しなくてはならない。
そして青年は、大学の講義中にまで襲ってくる無粋な敵を作った覚えはない。
更に【敵が攻めてきた時】はその三十まであり、文言や状況からその全てが別の組織、別の敵であろうことが読み取れた。
「えっと……ぼくって、こんなに嫌われてたっけ?」
もし彼が日本人というだけでこれだけの敵が存在するのであれば、日本人はイングランドに来てはいけないことになる。
勿論「来たら死ぬだけだから、来るなら自己責任でお願いね。はぁと」などとイングランド政府が表明しているのなら納得できるが、青年に限らずそんなふざけた発表(『はぁと』抜きでも同様にふざけていると言えよう)を聞いたことがある者はいないだろう。
「違う。武器商人は狙われる……らしいから」
ナターシャは首を振りながら否定するが、いまだ青年にその意図は通じない。
「武器商人が狙われるって、どうして?」
「人を殺す道具、売ってるから?」
そう言われると青年は否定できない。
確かに彼は武器商人だし、売った武器は人を殺す為に使われる。けれどそんな理由で命を狙われた武器商人のことを、彼は聞いたことがない。
「ぼくが売る武器は、人を殺すけど、それを売った国の人に恨まれることはないよ」
「そうなの?」
「ぼくが商品を売る相手はその国の軍だ。つまり、ぼくがイングランド軍に武器を売り続ける限り、イングランド軍はより良い武器を使えることになるし、そのおかげでイングランド人は死なない確率が上がるんだ」
「なら敵国から狙われちゃう?」
「それはあり得るけど、そんな事したってうちの商会員はぼくだけじゃないんだから、より良い製品が手に入らなくなるだけだよ」
「じゃあ、誰から狙われの?」
「元から狙われる心当たりはないよ?」
「狙われない?」
「多分ね」
「……そう」
落胆しているのか安堵しているのか分り難い声で彼女はそう短く言うと、数十枚の紙束を纏めて、燃やした。
その際に火の粉をまき散らさず、手に火傷を負わないくらいに手慣れていることから、彼女の魔術技量の高さが窺える。
「クリスは、なに書いてたの?」
ナターシャは、青年が書いていた数十枚の紙束を指して訊ねる。
「これはさっきの講義、約半年分の授業内容」
青年は「シラバス通りに進めば、だけどね」と捕捉して紙束をナターシャに渡す。
「……」
彼女は無言でその内容を読み始める。
その彼女を眺めながら、一限目の教授同様、彼女から質問のシャワーが浴びせられるのではないかと少し怯んでしまう。
そうならないように彼は、可能な限り分かり易く、そして補足知識や情報を含めて書いておいたのだが、彼女の疑問感を覚える器官は相当優秀だ。
何気なく渡してしまったことを次第に青年は後悔し始めた。しかし意外にも彼女が半分ほど読み終えたところで、何の質問も出ず、彼女は紙の束を机に置いた。
そして彼女は片手をお腹へと持って行き、口を開く。
「ぐぅ」
ナターシャは青年と目を合わせて、そんな擬音を口に出した。
青年は彼女と出会ってまだ三ヶ月しか経っていないが、この合図がなにを意味しているかは熟知している。
これは必ず、一日に三回はなされる合図なのだ。
「オッケー。それじゃあ、お昼ご飯でも食べに行きますか」
「うんっ!」
青年達はすぐに荷物を纏めて、講義室から出て行った。
同日正午――ラッセル・スクエア周辺のカフェ――
本日、この飲食店が通りに連なる飲食街は、異常事態が発生してた。
そして驚くべきことにその異常事態を発生させているのは、カフェのオープンテラス席に座るたった一人の青年。
彼はストロベリーブロンドで、中肉中背の一般的な青年だ。
三つほどの点を除けば。
その一つは彼の発している言葉。
「ここに来るかな? もしお弁当を持っていたらこないだろうけど……いや、来るさっ! 絶対にここに来る。そう僕が信じないでどうするんだ!」
この台詞だけではどこにも異常はなさそうだろう。
一人で座り、大声でこれを言っていなければ。
そして次の点。
パステル色の黄緑色で染め上げられたスーツを着ている。
その生地が上等なものである為、彼が中流以上の家庭の出だということは分かるのだが、誰もそんな細かいところまで気を配れない。
視覚的に刺激的なパステル色は『眼に毒』と言うよりも『眼に劇薬』だ。
最後に、彼は誰かを狙い撃ちそうな目で周囲を見回している。
彼のパステル色という、遠目からでも分かり易い服は、一目見て彼を『普通ではない人』と思わせている。そこで一般人はしない一人問答でそれを確定付けているのだ。
更に、ぎょろ目という言葉は自分の為にあるのだ、とでも言いたそうな彼の目は周囲を怯えさせ、彼の怖がっているように怒鳴るという奇異な喋り方は他人を警戒させる。
つまり、多少変な人レベルの一人問答、もそうだが、彼のパステルスーツと挙動不審な周囲を窺う視線も相まって、かなり危ない人レベルまで彼の評価は引き上げられている。
この結果として、彼が座っているカフェの来客数は、彼を除けば閉店時と変わらずゼロとなり、同じく隣接するカフェのオープンテラス席は、閑古鳥が鳴いて喜びそうだ。
「……でも、もしかしたらこないかも。そうしたらどうしよう? そうなったら僕が……」
彼の口に出して行われている自問自答は、滝の激しい水流がごとく終わりが見えそうにない。
しかし、そんな彼を見て微笑む者がいた。
飲食街で多少怯えながらも、昼食を楽しもうと努力していた客達にとっては不幸なことに、その彼女もまた、パステル色のピンクに染め上げられた学生用ドレスを身に纏っている。
しかし彼女は身なりこそおかしいものの、その言動に普通から逸脱したものはない。むしろ、服だけ替えればどこぞのご令嬢とも言えそうな、整った顔立ちと佇まいだ。
更に、頭の後ろで纏められた黒に近い茶髪は、彼女を快活で人当たりの良さそうな人物であることを窺わせている。同時に、彼女の一挙手一投足全てに気品が感じられ、彼女がそれなりの家の出だということが分かる。
勿論、これらはすべて服の色のみで台無しにされているが。
そして彼女は迷うことも警戒することもなく、「おもしろい方ですわね」と呟いて、パステルイエローグリーンの青年に向かっていく。
彼女がパステルのカフェ(店名ではない)まで来ると、店員達はパステル人(仮称)がこのカフェを制圧に来たのだと思い、神に祈りを捧げ始める。
しかし残念ながらその祈りに即効性はないようで、パステル(女)はパステル(男)の下まで辿り着いてしまう。
「こちら、相席してもよろしいかしら?」
「……来なかったら探しに行くしかないよね? でも迷惑じゃないかな? いや、理解してくれるはずだ! だから……」
しかし彼はパステル少女の存在に気付かない。
ぎょろぎょろと周囲を見ているくせに、何故最も目につきやすいパステルピンクのドレスを見落としているのだろうか。
もしかしたら彼は、目的の人物以外の人間が見えていないのかもしれない。彼女はそう思い、もう少し荒い問いを掛けてみることにした。
「あーいーせーきっ! ……よろしいかしら?」
パステルピンクはそう言いながら、思考のだだ流し作業をしているパステル青年の肩を叩くことで、彼の行為を止めさせて、自分に注目するように促す。
「………………………………えっ!? ぼ、僕?」
「他に誰かいますかしら?」
黄緑は周囲を見渡すが、勿論半径五メートル以内には、店内に非難したカフェの店員以外誰もいない。
「相席、よろしいですわよね」
ピンクはそう言いながら、イエローグリーンの返答を待たずに対面の席に座る。
「え、えっと……ぼ、僕に何か用があるの? ご、ごめんなさい」
なにも言われていないのに、何故か謝るパス男。
しかしパス子も否定せずに、自分の話したいことを話し始める。
「貴男、確かマットさんでしたっけ? こんなところで何をしているんですの?」
急に自分の名前を言われて、パステリオは怯えながらも考え始める。
何故彼女は自分のことを知っているんだ、と。
しかしパステリーナはそんな疑問に思考を割く時間を与えない。
「誰かを捜している様子でしたけど、待ち合わせかなにかですの?」
「え、えっと……い、いえ、別に待ち合わせとかじゃ――」
「あっ、申し訳ありませんわ。私(わたくし)、マリーと申します。貴男と同じ、LSEの経済学部一年生ですわ」
パステル(マット)の返答を遮って、パステル(マリー)は自己紹介を始める。だが、これにより、マットはいくらか納得できた。
もし彼女が同じLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)の経済学部で、一年生なのであれば、おそらく自分達は午前中に同じ授業を受けてきたのだろう、と。
だが、残念ながら(何が残念なのかは不明だが)パステル・マット(略:パット)は午前中の講義中、更に正確には今朝の朝刊を読んでから、一つのこと以外頭に入っていなかったので、パステル・マリー(略:パリー)の存在を認識していなかったのである。
だが、そのパステル色故に、パリーはパットのことを簡単に見つけられたのだ。そして同パステル族(そんなものが存在するかは不明だが)故か、彼女は彼に興味をもち、後をつけてきたのだろう。
それに似たような、説明がピンクの女から成された。
「そ、そうだったんだ」
「そうだったんですわ」
怯えるような、どもっているような口調は変わらないが、やっと黄緑の青年が納得したので、ピンクは話を戻す。
「それで……誰かと待ち合わせしたわけではないのであれば、何をしていらしたんですの?」
その問いに黄緑は、頭の中の情報を整理して、分かり易く説明する為、相手が自分と同じ情報を知っているかを訊ねる。
「え、えっと、今日の朝刊って見た?」
「新聞ですの? いいえ。私、文字が多いと目が疲れますの」
「……そ、そう」
大学に入ったのに、それで卒業できるのだろうかという心配をしながら、イエローグリーンは説明を始める。
「きょ、今日の朝刊に、UCL魔学部の講義が五年ぶりに開講されたってあったんだよ」
「それでUCLの近くにあるここに来たんですの。納得できましたわ!」
話の導入部で納得されてしまった。
パステルスーツは否定しようと思ったが、UCLの近くにあるからここまできたというのはあながち間違えでもないので、どう切り返そうか迷う。
しかし運良く(少なくとも悪くはないだろう)、パステルドレスは講義が開講されたことと、今彼がここにいることの無関係さ気付き、問い質す。
「五年ぶりの……その『まがくぶ』でしたっけ? の開講と、貴男がここにいるのは関係があるんですの?」
「え、ええ、勿論あるよ。そ、その五年ぶり開講されたのは、学部生が入学したからなんだ」
「その入学生を捜しているんですの?」
「は、はい。今年の入学生は二人いるんだけど――」
「ふたりっ!? 少な過ぎじゃあありません?」
またもや黄緑スーツは遮られる。
「い、今まで誰も入学できなかったから、多い方だよ」
「それは、学部が閉鎖されていたとか、学部そのものがなかったとかですの?」
「が、学部自体は毎年入学生を待っていたんだけど。た、ただ、入試がイングランド最難関とも言われるものだから、誰も合格できなかったんだよ」
桃色ドレスは「ほぁ~」と感嘆の声を上げている。
「でも、その魔学部って言うのはどんな学部なんですの? 入試が最難関ってことはよほど専門的な知識が必要なのでしょうね」
「い、いや、実はそこまで専門的な知識は必要ないよ」
「なのに試験が難しいんですの?」
「う、うん。ま、まあ、確かに多少は専門的な知識も必要だけど、それよりも必要なのは知識の多さなんだ。ま、魔学部は、魔学技術に関係する全てのことを学ぶ学部だから」
「魔学技術に関する全てっ!? 魔学技術は一般的な生活を補助する製品にも使われているんですのよ? 自然現象全てを理解するなんて言っているようなものでしょう? そんなの無理じゃありませんの!」
「ぼ、僕もそう思うんだけど。で、でも、実際にそれらに必要な基礎知識を備えた人達が入学しているわけで」
パステルはパステルに同意する。そして同時に、自分が何故ここに来ているかを伝えた。
するとパステルはパステルを見ながらパステル調の微笑みを見せて、パステルに同意した。
「それは確かに、興味深い方々ですわね」
「そ、それに、二人のうち一人は、凄まじい速度で、西欧諸国に魔学技術で追いついた日本帝国の人なんだよ!」
パステルAはパステルBに自分の興奮を露呈するが、パステルBはそこまで日本に関心はないようだ。
「日本……ああ、あの『トーゴー』のいる国ですわね」
しかし一応、日本に対してそれなりの知識はあるようで、東郷平八郎の名を挙げる。
だが逆に、パAは『トーゴー』を知らないのか、パステル色の疑問符を表していた。
きっと、パBがきちんと『東郷』と言っていればそれもすぐ消えただろうが、似ているようで似ていないパステル同盟であった。
と、ここまで来て、恐怖を教授することに専念し、自らアクションを起こさず祈ってばかりいたカフェの店員達がついに、動くことにした。
彼らはなにもパステルズ(複数形)の存在に怯えるだけではなく、しっかりと彼らの会話を盗み聞きしていたのだ。
それに関して下品と罵られようと、彼らはまだこのカフェを諦めたわけではない。
店員の一人が、確信を持って他の店員達に告げる。
「『トーゴー』を連れてくれば、彼らは帰ってくれるっ!」
しかしやはり祈りながらの盗み聞きは、正確な情報を得られないようだ。
こうして、彼らはほぼ地球の反対側で軍務についている東郷平八郎を捜しに出たのであった。
同日数分後――UCL校舎、メインエントランス前――
「『トーゴー』ですか?」と問われて「はい、そうです」と応える人間は少ないだろう。
特に、自分の苗字が『トーゴー』ではない場合(勿論『東郷』でもない)、多くの人間は「いいえ、違います」と応えると思う。
しかしそれが異国にいる日本人で、察しが良かった場合は別だ。
自分の中で、『トーゴー』と『日本人』を符合させて、「いいえ、でも日本人ではありますよ」と応える人はそう珍しくもないだろう。
特に四年前の日露戦争以来、西欧諸国で東郷平八郎の名が知れ渡ったという知識を持ち合わせていれば、そこまでの不自然さもない。
よって、昼食を食べる為にUCLの校舎を出た青年と少女が、待ち構えていたカフェの店員に「『トーゴー』ですよね! 平和の為にご同行願いますっ!」と、断定的に『トーゴー』だと言われて、この飲食街へと連れてこられたのは当然とも言えよう。
勿論、青年も少女も始めは怪しんだが、断ろうと口を開くと「お願いします!!! 見捨てないで下さい!」と、恋人と別れ話を持ち出す場面のように涙目で懇願されてしまうと、訝しみながらもついて行く外なかった。
そして青年達がマットとマリーのいるカフェへ到着した時、彼らはようやくある程度の事情が理解できた。
「繁盛してない」
少女の的確な感想に青年も同意する。
しかし彼らは先ほどまで(今現在も)繰り広げられているパステル同好会(仮名)の悲劇を知らないし、その前にマットによって繰り広げられていた一人パステル戦略問答(命名:店員A)も知らないのだ。
故に、店員がパステル同好会(決定)を見てある程度のことを察してほしいと思っても、それにはいささか無理があるだろう。
けれど青年はそこにも気付いていた。
何故ならマットとマリーが囲んでいるテラス席を中心に、半径十メートルが不自然な形で空けられているからだ。
「……えっと、まあ、いいか。とりあえず、ランチセットを二つお願いします」
「かしこまりましたっー!!」
元気よく青年達を連れてきた店員が、メシアの帰還を知らせるようなトーンで店内にオーダーを告げる。
そのオーダーを聞いた店員達も彼と同じく「了解ですっ!」と快活に言って、まるで宴でも繰り広げそうなテンションでランチの生成に励み始めている。
「それではお席の方へご案内致しますっ!」
「……はい」
異様に高いテンションの店員に圧倒されて、青年は頷く。
しかし店員の後についていくと、辿り着いたのはマットとマリーの座る席。
「えっと、他の席はダメなんですか?」
「全面改装中ですので」
工事の形跡が全くないのに、店員はしれっとそんな嘘を述べる。
その嘘と、席に座るマットとマリーの相席に対して嫌がるどころか嬉しがっているように見える目により、青年は理解した。
どうやらこの二人は、この店に何らかの迷惑を掛けており、その影響を抑える為に自分達をここに連れてきたのだな、と。
しかしそれを察せなかった少女が、口を開く。
「改装って、工事してないのに?」
「えっ? あ、いや、その……」
「具体的にはどんな改装をしているの?」
「いえ、その、あの……」
平然と嘘を言ってしまったが故に、店員は目を泳がせながら窮地に立たされた。
そして、おそらく理解してくれているであろう青年に、彼は目で何かを訴える。
青年はその目に対して、内心溜め息を吐きながら場を濁す。
「ナターシャ。とりあえず、使えないってことらしいから、ぼくたちはここに座ろう」
「……分かった」
青年に同意すると同時に、疑問の視線を店員からマット達へと移動させる。
その鋭い視線に二人は驚く。
「ひっ!」
「ひゃっ! びしょうじょ……こほん。なんでもありませんわ」
「……相席よろしいですか?」
「クリス、この人達ヘン」
少女の感想ももっともだが、青年からしたら自分の周囲100メートル以内にいる人物は全員『ヘン』に思えるので、あえてなにも言わずに、マット達に微笑んで再度確認する。
「あ、ああ。ど、どうぞどうぞ」
マットは少女から視線を離さずに、青年達の相席を許可する。
「お飲み物はなにになさいますか?」
一連の流れをそわそわしながら見ていた店員は、今は青年以外の人間がこの場にいないかのように彼だけに営業スマイルを向けて、尋ねる。
どうやら彼だけが信頼できる一般的な常識人だと認識したようだ。
「アールグレイをお願いします」
「かしこまりましたっー!」
そう言いながら、店員は全力疾走で店内へと引っ込んでいった。
カフェに着いた時と同じ言葉なのに、今度の台詞には「すたこらさっさー」というような擬音が聞こえてきそうだな、と青年は思った。
「ナターシャさんって言うんですの?」
「うん」
「私は、マリー・ウッドストックと申しますのよ」
「そう」
「ナターシャさんは、あの魔学部に入っていらっしゃるのですわよね?」
「うん」
「凄いですわぁ。そんなに可愛らしいのに、頭も良いなんてぇ」
「そうでもない。クリスが教えてくれたから」
何故か目を輝かせながらナターシャとの会話を試みるマリー。
しかし当の本人はマリーに興味がないようで、返答が素っ気ない。
そしてマットはナターシャを畏怖している。
青年からすると、これ以上居心地の悪い昼食会はないだろう。
故に、彼は少しでもマシな気分で昼食を食べる為、とある提案をする。
「……ええっと、これも何かの縁ですし、自己紹介でもしませんか?」
その提案に無垢なナターシャの視線。
マリーから興味のなさそうな一瞥。
マットに至っては、恐怖のあまりナターシャから視線を逸らせずにいる。
青年は溜め息を吐いて、ナターシャに自己紹介をするように促す。
「……(こく)」
彼女は頷いて、自己紹介を始める。
「ナターシャ・グレイズ。十七歳。UCL魔学部一年生。魔級は第六位ティファレト。クリスの部下……」
どこかの会員証に書いてありそうな単文で、自らのプロフィールを挙げていく。
「……幼い頃に両親が死んで、以後叔母夫婦に引き取られて仕事に行かされた。それで――」
「ストーップ! もういいよ、ナターシャ」
たかが自己紹介で自分の暗い過去(本人は気にしていない)を語られては、雰囲気の改善など図れない。そう思った青年はすぐに彼女を止めて、マット達を見てみる。
「ご、ごめん。ぼ、僕、てっきり君のこと、怖い人だと……ぐすっ」
「ナターシャざぁぁぁん! 神はなんて苦労をこんな可愛い子に課すのでしょうっ!」
泣いている。
絶賛号泣中。
青年は『幼い頃に両親が死んだ』と『奉公に出された』ということだけで、彼らが涙を流すとは思わなかったので、少し驚いた。
しかしマットはナターシャを見直した(?)みたいでもあるようだし、これはこれでいいか、と青年は満足する。
だが、問題はその後だった。
いかんせん、彼らは本気でナターシャに同情している為、一向に泣き止まない。
途中、怯える店員が足を震わせつつも上半身だけは立派にいつも通りに振る舞い、紅茶を持ってきた時も、その後に青年と少女のランチを持ってきた時も、彼らはずっと泣いていた。
さすがに桐栖達が昼食を食べ終わった頃には泣き止んだが、またもや気まずい雰囲気が充満しそうになる。
マットとマリーは両者とも申し訳なさそうにしているのだ。
しかし、そんな状態で帰るというのも申し訳ないと思った青年が、次は自分が自己紹介すると宣言すると、マリーが率先して次の自己紹介を買って出る。
「私はマリー・ウッドストックと申します。年は十八歳。LSEの経済学部一年生で、魔級は……えっと、第七位ネツァクですわ」
「い、今、自分の魔級忘れてたよね」
「いや、まさかそんなことはないと思いますよ。魔級は自分の名前と同じようなものですよ?」
「でも、明らかにちょっと間があった」
魔級は自身の魔術的能力を表す階級。その階級次第で人生を左右されると言っても過言ではない。それを覚えていなかったマリーに対して、青年達はひそひそと顔を合わせて議論する。
しかし音量が小さくても、マリーがいる位置は彼らから一メートルも離れていない。
当然、彼女は彼らが言った全ての文言を聞いている。聞こえてしまっている。
「ああ、もうっ! 忘れてましたわよっ! これでいいんですのっ!? 満足致しましたのっ!? このマリー・ウッドストックは馬鹿な子ですっ!!」
「まあまあ、落ち着いて落ち着いて。……あれですよね。きっと去年の魔級判定で、変わったんですよね?」
「クリス、でももう十月。変わってても覚えてないのはおかし――」
「ナターシャっ! 紅茶をもう一杯どうかな?」
「大丈夫。まだ残ってるから」
「そう……」
青年はナターシャの突っ込みにマリーが気分を害していないか見てみる。
「あはははは。私は馬鹿な子蛙の子。きっと生きてても仕方がない馬鹿なのですわ。あははは」
背もたれに全体重を預け、試合に負けたボクサーのようになっていた。
「え、えっと。じゃ、じゃあ、僕が自己紹介をしてもいいかな?」
空気を読んだのか、マットはこのままにしていても埒が明かないと判断し、自己紹介を買って出る。青年もそれに同意し「お願いします」と頼む。
「ぼ、僕はマット・カンブリー。と、年も大学も、学部もマリーと同じ。ま、魔級は第九位イェソドなんだ」
そう簡単に、どもりながらもマットが自己紹介をすると、マットの魔級が自分より低いものだと知ったマリーは若干復活する。
「低いですわねっ!」
「こ、こればかりは生まれ持った総生力量次第だからね。ど、どうしようもないよ」
「それで、経営者になるべくLSEに経済学を学びにいらしたんですの?」
「ま、まあ、家の事情とかもあるんだけどね。だ、大体はそんな感じ」
「貴男も苦労してますのね。……それでは次は、貴男の出番ですわね。ク・リ・スさん♪」
マットへの返答もそこそこに、嫌みったらしくマリーは青年を見つめる。
おそらく彼女は青年も自分と同じように何らかの恥をかけばいい、と思っているのだろう。
しかしそんなことはマットが許さなかった。
「か、彼のプロフィールは知っているよ。……あ、ああ、それと、彼の名前は『桐栖(きりす)』だからね、マリー」
「えっ、だってナターシャさんが『クリス』って呼んでましたわよ」
「た、確かにそうだね。な、なんで?」
「言い辛いから」
「くぃり……きゅり……こほん。私も『クリス』さんと呼ばせていただいてもよろしいかしら?」
「許可」
何故か自分の呼び方が自分の目の前で、他人に許可されたのを不思議そうに見ていた桐栖だが、一応マリーも目だけで「本当によろしいかしら?」と訊ねてきたので、彼も承諾しておく。
「マットは何故、ぼくのことを知っているんですか?」
「け、今朝の朝刊で見たんだ」
『今朝の朝刊』というと【UCL間学部五年ぶりの開講】という記事が桐栖の記憶の中にある。
そしてそこでは細かなことは伏せてあるものの、どうやって調べたのか、彼の名前や武器商人であること、そして故郷である日本のことなどが掲載されていた。
「そ、その朝刊では、桐栖は僕たちと同い年で、武器商人をやっているって書いてあったんだ」
マットはその真偽を問うような視線で、桐栖に報告する。
「あの記事に偽りはありませんよ。……マットは武器商会に興味があるんですか?」
「い、いや、そうじゃないんだけど、日本の魔学技術には凄い興味がある。ほ、ほんの半世紀前までは僕たち西欧諸国と、ほとんど交易もなかったのに、四年前はあのロシア帝国を打ち破るくらいに魔学技術を発展してる。こ、こんなに凄い速度で技術レベルが追いついたのって、何か理由があるのかな?」
マットは興奮しながら、きらきらと輝かせた目を桐栖に向けて訊ねる。
日本の魔学技術が急成長した要因はいくつもある。一概に一つのものを挙げることはできないのだ。いくつもある発端が相互的に作用し、そして時には運も重なり合い、結果的に西欧諸国に負けない程度にまで到達したのだ。
だがマットがその要因全てを知りたいわけではないと言うことを、桐栖は分かっていた。
この質問は導入部であり、辻詰めてしまえば、彼が聞きたいことは『日本独自の魔学技術』。彼の興味はそこに集約している、と桐栖は判断した。
明治維新が起こるまで、長い間鎖国していた日本で育まれた魔学技術は、良くも悪くも日本帝国という国を表しているものが多い。
そんな国家的特徴を知りたいのだろう。
そう解釈した桐栖は、返答する。
「日本は他国の魔学技術に影響を受けていないので、もとよりあった特色が色濃く残っているんです。そしてその特色は、日本人の文化を表します」
「う、うんうん」
「日本では、昔から『もったいない』という言葉がありまして、物を捨てずに修繕や再利用をする習慣があるんです。そして、多くの魔学製品もそのスタンスを取り入れています。これは消費する、つまり使い捨てが多い西欧諸国とはある意味で真逆のものになりますね」
「あ、ああ、そうだね。こ、こっちでは使った物をもう一度使うのは意地汚いとかケチっていう印象が強い」
「でも一度使った物を再利用できれば、全体的に見てコストが下がるでしょう?」
「そうは言っても、一度使ったら再利用できない物もありますでしょう。たとえば、その……コーヒーメーカーのフィルターとかはどうですの?」
「それは日本では、フィルターを布にすることで解決してますよ。布地であれば、洗濯するだけで再利用が可能です。この考え方は、一般的な魔学製品だけではなく、武器や兵器にも当て嵌まります」
「で、でも、その考え方だけじゃ、急激な技術成長の説明はできないよね」
「まあ、それと同じくらい日本の『職人』と呼ばれる技術者達が勤勉だったのが急成長の原因でしょうね」
「あ、あと日本で特徴的なのって言えば、省生力主義(しようエナしゆぎ)の魔学生品だよね」
「しょ『しょうえなしゅぎ』ですの?」
マットの発言にマリーは自分の無知さ加減を露呈する。
「『省生力主義』って言うのは、少ない生力で今までと同じかそれ以上の効果を得ようって言う考え方です。日本人みたいな黄色人種は、基本的に生力の少ない人が多いので、こっちの人達に合わせた魔学生品だと、人によっては使えないこともよくあるんですよ」
「そ、そうなんですの?」
一般常識に疎いマリーは、亜細亜民と欧州民の平均魔級の差も知らないらしい。
しかしそんなことをマットは気にもせず、会話を続ける。
「す、凄いよね~。う、うちにも日本製の製品がいくつかあるんだけど、生力をあまり使わずに済むから凄いら――」
「そ、そんなことよりっ! クリスさんの魔級は何ですの?」
マットが日本の魔学生品について語ろうとしているのを遮って、マリーは話題を変える。
「ふ、ふがっ! ま、まふぃー!」
しかも彼女は桐栖がマットとの会話に戻らないよう、マットの口を手で塞いでいる。
「……えっと、一応ぼくもマットと同じ、第九位イェソドですよ。と言っても生力は、例外位ダアトと言えるくらい低いんですけどね」
「それなら、魔術技量がそれなりに秀でていると言うことですわね。……でも、魔学部に入っていらっしゃって、武器商人もされているのに、随分とお低いのですわね?」
マリーは続けて「『最後の剣』、第零位マルクトくらいあるのかと思っていましたわ」と言いながら、がっかりしたようなオーバーリアクションを見せている。
『最後の剣』、第零位マルクトとはイングランド陸・海・空軍の各元帥にのみ、付けられるこの国で最高位の魔級だ。
しかし桐栖はその生力量を考えると、本来であれば通常の第十位、マルクトになるかも知れなかったのだ。イングランド最高の術者である軍の元帥と比較されてはたまらないだろう。
けれど桐栖は自身の魔級に関して、特に気にはしていない。
生まれ持った資質とはそう簡単に変えられないと理解している。引け目は感じていない。
だから平然と魔学部の入学資格に魔級は含まれていないことを伝える。
「魔学部の入学に魔級は関係ないですから」
「それでも、武器商人の方はそうでもないんじゃありませんの? 私が知る限り、武器商人の適正魔級は第六位ティファレトか第五位ゲブラー辺りだったと記憶しておりますわよ」
桐栖はマリーの知識に驚く。
武器商人の適正魔級なんて一般人は知らない。
たとえ知っていたとしても、それは身内に武器商人や軍人など武器に関する職を生業としている者がいる場合か、政府関係者くらいだ。
「まあ、そうなんですけれど、ぼくの場合は例外と言うか……まあ色々ありまして」
「身内が武器商人とかですの?」
「それもあります。でも、普通は親が武器商会の会長をやっていても、子がぼくのように適正魔級を大きく下回っていたら、なれませんよ」
桐栖はそう言って、この会話を終えようとする。
その点を深く掘り下げられると初対面の人間に商会の内部事情を曝すことになりかねない。
それを察したマリーも「分かりましたわ」と言い、理解を示してくれた。
「ま、まふぃー。そ、そふぉそふぉ、てうぉどふぇてくふぇないかな?」
「ああ、忘れてましたわ」
「はー。い、息しづらかったー」
マットは空気の美味しさを噛み締めながら、深呼吸を始める。
そんなマットを見ながら、マリーは何かに気付いたのか、ナターシャと桐栖を交互に見てから口を開く。
「そう言えばさっき、ナターシャさんは『クリスさんの部下』とおっしゃってましたわよね?」
「うん」
ナターシャが短く頷く。
「ということは、ナターシャさんも武器商人なんですの?」
「違う。私は補佐。クリスの手足」
「て、てててて、てあしっ!!?」
「手足と言うより、秘書の方が近いです。基本的にぼくに同伴して、ぼくには手に負えないことを手伝ってもらっているんですよ」
マリーに誤解されないように、桐栖は補足するが、誤解以前に彼女は「羨ましいですわ!!」と彼には理解できない発言をしている。
「そうなんですの。……ちなみにいつ頃からナターシャさんはクリスさんの部下をやっていらっしゃるんですの?」
「三ヶ月前くらいから」
「……えっ? ということは、魔学部の入試に向けた勉強もそこからやり始めたんですの?」
「うん」
「す、凄いね。た、たった三ヶ月でイングランド最難関の試験勉強して、受かるなんて」
「クリスが教えてくれたから、簡単だった」
ナターシャの言葉にマットとマリーの視線が桐栖へと向けられる。
「あっ、とは言ってもぼくは基礎的なことしか教えられなかったんですよ。時間もなかったし」
次は桐栖の発言で二人の視線がナターシャへと向けられる。
まるでテニスの試合観戦客みたいだな、と桐栖は思った。
「基礎的なことが理解できれば、後は応用するだけ。別に難しいことはしてない」
「い、いやいや! そ、そんな簡単だったら『最難関』なんて評価つかないよ!」
「それは基本をきちんと理解できてないから。極端な例を言えば、足し算をきちんと理解できればかけ算も割り算もできる。元々人はそうやって学問や技術を発展させてきた」
「……」
「……」
ナターシャの言っていることは確かにその通りではあるのだが、二人は納得しかねている。
勿論、ナターシャも『極端な例』とわざわざ付け足していることから、足し算だけで合格したわけではない。それを二人とも理解できてはいるが、それでもナターシャの優秀さに驚かずにはいられない。
「可愛くて天才ですのね。……完璧ですわ!」
その二人のうち、半数を除いて。
それから約一〇分ほど取り留めのない話をして、カフェの店員達が祈るように彼らの退店を望んでいたこともあり、彼らは午後の講義へと備える為、各々の大学へと戻ることになった。
マットとマリーのちょっと個性のある性格(とそれ以上に個性的な服装)に惹かれたこともあり、桐栖達は連絡先を交換して、解散した。
蛇足ではあるが、マットの来店により今回迷惑を被った店員達は、会計の終わりに客ではなく神への感謝を口にし始め、退店時、まだ見える位置に桐栖達がいるというのにも関わらず、今にも祝杯を挙げそうなほど喜び、小躍りをしていた。
それを見て、マリーが「おもしろいお店ですわね。これからもあそこを利用させていただきましょう」と彼らの意に反するどころか、絶望を与えかねない感想を述べていた事を知らずに。
同日午後一時――ロンドン市内の倉庫街、ワッピング・ハイ・ストリート――
ロンドン市内の中心を、分断するように蛇行しながら流れるテムズ川。
その東部、河口に近いところにあるワッピング近辺には、日々、交易目的で出入国する多くの船が出入りをしている。
彼らは船に積む荷、もしくは船から降ろす荷の為にこの倉庫街を訪れていた。
そんなワッピングの倉庫街は少し特殊で、テムズ川の隣に倉庫が建てられている。
通常であれば、荷下ろし用の足場や停留用のドックが倉庫と川や海の間にあるのだが、この倉庫街にそんなものはない。
代わりに各倉庫にはテムズ川に面した外壁に、クレーンが備え付けられており、その下に大きく開く扉がある。
これによりテムズ川に入ってくる多くの船は、港に停まる、という出入国申請やその他手続きが必要となる面倒な手順を踏まずに、物品の積み卸しが可能となっていた。
当然、テムズ川が広い横幅を保つ大河であるとはいえ、倉庫に巨船が複数横付けされては、何も通れなくなるほど埋まってしまう。
なので、巨船で交易を為す者達は、小型船(といっても通常の漁船より少し小さい程度で、十分大きいのだが)にテムズ川の河口で乗り換えて積み卸しをすることになっている。
本日は天候が良く、風も微弱で波も安定しているからか、いつもより小型船を含む多くの交易船がテムズ川へと入ってきていた。
それら全ての船は、船体のどこかに自らが所属している商会(武器・一般問わず)を証明する印(通称:マーカー)が、遠目からでも見やすい位置に配置してある。
その船体にあるマーカーを確認し、不審な船はないかと調べる任務の為に派遣された一つの船が、ワッピング・ハイ・ストリート近辺に停留していた。
中にいる軍人(といっても軍服を着ているわけではないが)の一人が、倉庫街に近づく船達を映し出しているモニターの前で声を上げる。
「おい。ハドン商会って、ここに倉庫あったか?」
同じ任務に就いていながら、モニターを見ようともしていない他二名の私服軍人達のうち、一人が気怠そうに顔を上げて、億劫そうに返答する。
「あの世界一の武器商会ハドン様か? 知らね。来てんならあるんじゃね?」
「そんなことよりフィル。お前、レイズするか降りるかさっさと決めろよ」
もう一人は手に持ったカードを動かしながら、モニターを見ていたフィルという軍人に、ポーカーの続きを促そうとしている。
このように不真面目な職務光景というのは、別に異常というわけではない。
国境警備隊はこの国がフランスと協商同盟を結んでからというもの、攻め込んでくる敵がいなくなったと喜び、日夜真面目に職務を怠慢している。
それに比べて、彼らは軍人だ。本来であればこのような任務に就くべき職種ではない。
故に、年齢的にも若い彼らが国境警備隊と同じくらい(といっても、国境警備隊は職務中に水上スキーなどをやっているらしいので、彼らと比べたらまだ可愛いものだが)、この任務に対して不真面目な職務態度を示していても、責められるべきではないと言えるだろう。
しかし不真面目な組織の中にも、数が集まれば一人くらい真面目な人間というのはいるもの。
この三人の中では、フィルがそれに該当した。
「でも一応調べておかないと……問題があったらやばいだろ?」
その発言に、他の二人は意図的に大きな溜め息を吐き出す。
「はいはい。分かりましたよ。んじゃ、俺たちが陸に上がって、目的の倉庫を警護しとくから、お前はこの船でハドン商会さんの船まで行って確かめてこい」
「あーそれいいわ。んじゃ、そんな感じでよろしく」
二人は「俺達はサボるから、お前だけ仕事してろ」とでも言うように提案するが、さすがに真面目なフィルも、いや真面目故か、自分だけ仕事をするという不公平には素直に従えない。
「それなら、ヘッズ・オア・テールで決めよう。当たった方が倉庫の警備。外れた方がこの船で商会船へ向かう」
コインの裏か表かを決める程度ではあるが、ちょっとしたギャンブル性があれば彼らは乗るだろうと思い、フィルはそう提案する。
二人は互いの顔を見て、嫌らしくにやついた後「オーケー」と承諾した。
軍人が倉庫の警備をするといっても、彼らが行っているのは公的な任務ではない。
故に、彼らは軍服の着用を許可されていないし、同時に武器の所持も許されていない。
だからフィルが倉庫の警備をすることにはなったが、実際に彼が行っているのは警護対象である倉庫の前に突っ立っているだけだ。
「一応、無線機は持って来たけど……本当に何かあったらどうすればいいんだ?」
基本的に異常事態が発生することはないだろう、と上官から説明を受けていた為、何か起こった時にどうするかを聞き忘れていたフィルは、今更になってそんな疑問を抱く。
ピーガガガッ。
無線機が音を立てて、船に残った二人の声が聞こえてくる。
「フィル。今日の昼飯は奢ってやる!」
「ああ! その代わりにお前が今から買ってこい!」
フィルが船を出るまで醸していた気分を一八〇度回転させた二人は、気分上々にそんなことを言ってきた。その上機嫌さにフィルは違和感を感じるが、彼はそれを問い質さずに、見当違いな問いをしてしまった。
彼もまた『奢り』という魔法の単語に弱い小市民なのだ。
「どうしたんだ? 今日は何の日だい?」
「俺達の気分が良い記念日だ! 酒も買ってこい」
「上等なやつをなっ! 仕事が終わったら、今度はパブでも奢ってやるよ!」
随分と気前のいい話だ。
ここでハドン商会船と彼らの上機嫌さの関係性にフィルが気付けていれば、この後起こる様々な出来事が回避できたのだろうが……やはり『奢る』というマジック・ワードは、そんなことを考える冷静さすら奪ってしまう。
「分かったっ! 戻ってきても、やっぱりナシとかってのはナシだからな!」
「心配すんなっ!」
「もしそんなことしたら、神に誓ってテムズ川を裸でジョギングしてやるっ!」
そんな誓いを神にされても困るだけだろうに。
しかしその誓いは、フィルには効果的だった。
『誓い』と『奢り』。これら重火器レベルに素敵なフレーズは、フィルに絶大な効力を与えたようで、彼は意気揚々と職務中に持ち場を離れてしまう。
その後、フィル達が警護を担当していた倉庫内にあった全ての物品が消えたのは、言うまでもないだろう。
同日夕方五時頃――ロンドン市内、カムデン・タウンの一軒家――
ロンドンの北東部、キングス・クロスやユーストンなど地方へ行く列車が乗り入れるターミナル駅のある地域より、少し北の方にあるカムデン・タウン。
ここは徒歩三〇分以内にユーストン駅があるのにも関わらず、そこまで栄えてはいない。
土日はカムデン駅から近い位置にあるフリーマーケットが人を呼び、混雑するが、カムデン駅を挟んで逆側にカムデン・ハイ・ストリートを一〇分ほど南に歩いたところにある、プラット・ストリートは終始静かだ。
そのプラット・ストリートに五つも隣接するテラスハウスの中でも、一番カムデン・ハイ・ストリート側に近い、端のテラスハウスに桐栖とナターシャは住んでいた。
この家は、桐栖がイングランド支部設立時に彼の父親から与えられたものだ。同時に隣のテラスハウスも与えられているのだが、桐栖とナターシャ、そしてもう一人の補佐役の三人暮らしで家を二つも使うのはもったいないと考え、隣の家は使っていない。
そして現在桐栖の家の一階にあるキッチンでは、桐栖とナターシャが夕食の準備をしていた。
「ふ~んふふ~ん」
桐栖は大学の帰りに買ってきた食材を切り刻みながら、最近アメリカで流行り始めたジャズというジャンルの音楽を口ずさんでいる。
ナターシャはその曲を聴いたことがないが、桐栖が口ずさんでいるのをよく聴いており、少しずつではあるが、原曲にも興味を惹かれ始めていた。
楽器はクラシックのオーケストラと似たような物を使うのだろうか。
どんな人たちが演奏をしているのだろうか。
歌詞はあるのだろうか。ないのだろうか。
最近はそんなことを考えながら、同時に演奏場面を想像しながら桐栖の独奏を聴いている。
ふいに桐栖が口頭による演奏を止めて、ナターシャに振り返る。
「今日はシチューで良いかな?」
「ニンジンがなければ完璧」
「代わりにパセリとセロリを大量に投下しておこう」
「……やっぱりニンジンで問題ない、です」
ナターシャはそう言って、渋々ニンジンの投入を承伏するが、桐栖の横にあるニンジンが入った紙袋をそっと奪おうと行動を始める。
「あっ!」
「ニンジンは体に良いんだ」
それに気付いた桐栖はそう言いながら、ニンジンを取り出してまな板の上に置く。
「……ニンジンさんは体に良くても、私の舌とは音楽性が違うから無理」
「そんな理由で解散したらファンが悲しむから、分かり合う努力をしましょう」
「育った環境も違うから、価値観が違いすぎて無理」
「ぼくはニンジンと同じ環境で育った人間を知りたいよ」
「ニンジン農家の方々」
「農家の人達が土に埋まってすごしてるのっ!?」
「ニンジンの気持ちを知らなきゃ、ニンジンを栽培することなどできぬ!」
「……」
一瞬だけ、農家の方々が一族郎党、皆首から下が土に埋まっている様子を想像してしまった。
「気持ちは立派だけど、できるよね? 知らなくても栽培できるよね?」
「私も小さい頃は、よく土に埋まって養分を摂取したもの」
「……そう。なら、ニンジンの気持ちが分かるナターシャは、分かり合えるね」
「はっ! 失言だった。やつとは分かり合えない」
「はいはい。それは食卓で話し合って下さい」
桐栖はそんな話をしている間に、ニンジンを小さく切り刻んで、鍋に投入した。
数分後、調理課程が煮込みまで進んだ頃、玄関が開けられ、すぐに誰かが慌ただしい足音と共にキッチンへと入ってくる。
「お帰りなさいショーンさん」
「はぁ、はぁ……た、ただいま戻りました」
ショーンと呼ばれた人物は、短い髪、スレンダーな体躯の人物だった。
どこをとっても中性的で、更にその声までも男女の区別がつかない。
だが、ショーンの服装が黒いスーツという男性用の服装であることから、常識的にはショーンが男性だと考えられる。しかし、実際にショーンが着込むとスーツは、男女兼用(ユニセツクス)の服装だと思えるるのだ。これについてナターシャは、ショーンと出会った時から不思議に感じていた。
つまり、ショーンという人物の性別は外見や仕草、声からでは全く分からないのである。
けれど、そんなショーンのことについて分かることが二つほどある。
一つ目は、ショーンの外見から東洋人(正確には日本人)と西洋人(正確にはアイルランド人)のハーフであると言うこと。
もう一つは、ショーンが桐栖の部下であり、この家に住むもう一人の同居人だと言うことだ。
彼女の名前はショーン・津脇。桐栖より十歳ほど年上で、同じく十年ほど桐栖の商会会員として働いている。
元々は桐栖の父親の補佐役だったのだが、このイングランド支部設立にあたって優秀なショーンを、支部長に任命されたが商人としての経験が浅い桐栖の下に就けたのだ。
そして、そのショーンが息を切らせながら帰宅した。
「どうしたんですか、ショーンさん?」
悪い予感しかしないのに、桐栖は訊ねる。
「倉庫に保管されていた商品が、全て奪われました」
ショーンの言葉に桐栖は手に持っていた菜箸を落とす。
「うばわれました?」
桐栖は驚かずにはいられない。
このようなことがないように、彼はイングランド陸軍に相応の代金を支払って警護を依頼しているのだ。
しかも今日倉庫に入っていた商品は全て、今週末に予定されていた取引の為、先週日本から取り寄せた物だ。「なくなったので、また送って下さい」では間に合わない。
『取引相手は確かイングランド陸軍のスコット少将だったな』桐栖は頭の中で取引相手の情報を展開する。
けれど、その陸軍将校は今回警護の依頼をした隊と指揮系統が違う。
そうなると、今回の失態を理由に、取引を反故にすることはできない。
なによりそんなことを言えば、イングランド陸軍を侮辱して自己の責任を取引相手に擦り付ける姑息な商人だと悪評が広まってしまう。
そんな噂が広まれば桐栖の商人人生は勿論、商会全体の信用問題につながる。
少なくともイングランド国内では、もう商売はできなくなるだろう。
「現在は、警備を担当していた隊の者と連携して犯人を捜しておりますが――」
「それはあまり意味がありませんね」
「はい。もし犯人が軍関係者であれば、内部で処理されてしまい、こちらは犯人を特定できずに終わってしまいます」
桐栖の指摘に、ショーンは元から考えていた懸念事項を述べる。
「ショーンがいたのに、なんでそんなことになってるの」
ナターシャがきつい口調でショーンの責を問う。
だが、倉庫の管理はショーンの仕事ではない。それはもっと下の人間の仕事だ。
ナターシャもそれは理解しているが、もとよりショーンと仲良くないと言うこともあり、口調が自然ときつくなってしまったのである。
それを察した桐栖は、ナターシャの頭を撫でながらショーンを弁護する。
「それはショーンの仕事ではないよ。それに、今日は確か、新規の取引先を獲得する為の営業に出ていたんですよね。えっと……マンチェスターまで行っていたんでしたっけ?」
「……はい」
「それなら、予定よりも早く帰ってきて『陸軍と連携して調査をさせる』という基本的な処置ができていることを評価してあげなきゃ」
「でも――」
「でもじゃないよ」
桐栖は冷淡な口調でそう言うが、すぐに表情を和らげる。
「それに今、優先しなければいけないのは、責任の所在や責任者の者の瑕疵を問うことではなく、この事態をどう対処するか、だ」
そう言われては、ナターシャは黙るしかなかった。確かにここで誰の責任かや誰がこうするべきだったなどと議論するべきではない。そんなことは事態が収拾した時に論じればいいのだ。
「それでは桐栖様。ここからはどう致しましょう?」
「そうですね。……これだけ大それた事を為すには、それなりの組織が関与しているのは明らかです。陸路にしろ海路にしろ、倉庫から全ての商品を奪うにはそれなりの手順と人員が使われたはずですからね」
「はい。私もそう思います」
「であれば、こちらも捜査する人員を増やさなくてはならないでしょうね」
「っ!? それは無謀です! 組織だっての犯行だった場合、今も我々の周囲を窺っている可能性があります」
「それは重々承知しています」
「なら――」
「それを利用するんですよ。相手が今もまだぼく達の周りを嗅ぎ回っていて、ぼく達の行動を調べているのであれば、それを許可してあげましょう」
ショーンもナターシャも桐栖の考えについて行けないのか、疑問符を浮かべている。
「つまり、彼らには『大々的に調査してますよ~。でもなにも見つかりませんよ~』と思わせるんです。だから、増員する調査員は公募するのが良いでしょう」
「ですが、そんな増員するほどの資金が……その、今後の支部運営を考えると」
「そこはほら、今回失態をして下さった陸軍にでも出していただきましょう」
ついでに判明した情報は全てお伝えしますとでも言っておけば相手も出し惜しみしないでしょう、と付け足して桐栖は提案する。
その提案にショーンは桐栖の優秀さを再確認する。
もとより幼い頃の桐栖を知るショーンは、彼の優秀さを理解していたが、ここに来て、機転の利く彼のことを尊敬し直す。
「つまり、陸軍に資金を出させて調査員を増員し、その者達を遊ばせている間に、既存の商会会員や信頼できる者達を本来の調査に充てさせる、ということですね」
「はい、そうです。その間にぼくとナターシャで商品の行方を調査しておきますので」
「私とクリスだけで?」
声に出して問うナターシャと同じく、ショーンもそれを不思議がる。
「そうだよ。今回重要なのは、ぶっちゃけ『犯人』よりも『商品の行方』なんだ。でも、これに関しては他人に任せてはいけないし、任せられない」
「犯人に知られちゃうかもしれないから?」
「それもあるけど、商品確保はタイムリミットがある」
「今週末、ですね」
「そうです。今週末の取引までに犯人を確保しても、商品がなかったら商人対顧客の信頼関係は、どのみち崩れてしまいます」
「ですが、それならそちらの方に人員を割くべきでは?」
「いえ、それに関しては情報屋を使えばすぐに分かるでしょうし、先ほど陸路か海路を使ったか分からないと言いましたが、これは確実に海路です。そして海路であれば、ちょっとしたツテがありますので、すぐに分かりますよ」
「海路って断定する根拠は?」
「それは、単純に陸路なら目立ちすぎるからだよ。あの倉庫にあったのは一般的な車に積載できる量を超えている。そして、逆に一般的な車を使っていないのであれば、それを陸軍が把握できていないわけがない」
「……となると、海路しかないね」
「そういうこと。……あっ、ショーンさん」
「はい。なんでしょう?」
「ちなみに、倉庫の扉は破壊されていましたか?」
「いえ、ただテムズ川に面した方の扉が開きっぱなしでした……でも、明らかすぎませんか?」
「強奪実行犯が金で雇われただけの人間であれば、全然」
桐栖の何気ない応えに、再度ショーンは気付かされる。
確かに商品を強奪した者達が、その強奪を計画した者と直接の関係があるとは限らない。
桐栖が言うとおり、単に金銭を与えられて行っただけの可能性もあるし、もしかしたらその後いくつかの箇所を経由して、最終的には当初の者達とは全く関係のない人物へと商品が辿り着く可能性だってある。
つまり、桐栖が犯人の捜索にあまり意味がないと言ったのは、こういった面もあるのだろう。
犯人を見つけても見つけても、商品があった場所は判明しては移動されていた、の繰り返し。
そこまで用意周到な計画を用いていることも、想定しておいた方が良いだろう。
これは突発的な強盗や窃盗とは性質が違うのだ、とショーンは理解し始める。
武器商人から武器を奪うなんて、よほど用意周到でなければやるだけで命を落としてしまう。
桐栖は普段は温厚な好青年だが、自分の商会や身内に仇為す者には容赦しない。
だが、それは別に桐栖に限ったことではない。武器商人のほとんどがそうなのだ。
最近は、いつも優しい桐栖しか見ていなかった為、ショーンは危うくそれを忘れてしまうところだった。
「畏まりました。それでは私は、軍との交渉の後、調査員の指揮をします」
「よろしくお願いします……と言っても、今日はほどほどで良いですよ、もう遅いですし」
「今日中には戻ります。シチューは残しておいて下さいね」
笑顔でそう言って、ショーンは来た時と同じように素早く玄関から出て行った。
「クリス」
ショーンが出て行ったからか、ナターシャはすぐに桐栖の着物を掴んで彼の名前を呼ぶ。
「調査、今からするの?」
「いいや。明日から」
だから気にせずニンジンと対話してね、と付け足して、桐栖は膨れっ面になったナターシャを見て笑う。
しかし彼の頭の中はもう、商人のものへと切り替わり始めていた。
同日深夜十一時三十分――ロンドン市内、桐栖の家――
産業革命以降、ロンドンという町はかなり忙しくなった。人々は労働に明け暮れ、その労働内容もどんどんと加速していくように感じられていた。
より早く全ての準備を行えるように。
より早く今の作業を終えるように。
より早く次の作業を行えるように。
その結果、様々な工程が効率化され、人員が増やされることが多くなった。
しかしそれも魔学技術の発展で、人員は一定数いれば後は機械が同じことをやってくれるようになり、その代わりにさらなる作業のスピードアップが求められた。
しかしそんなロンドンも、夜が更ければ静かになる。
特に日付が変わろうとしている時間に働いている者は、普通いない。
だが、桐栖の部屋はいまだ明かりが灯っていた。
コンコン。
彼の部屋がノックされる。
「どうぞ」
ガチャ。
扉が開かれると、ショーンが入ってきた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
「まだ起きていらしたんですね」
「ええ、今やるべきことをやっておかないといけませんからね」
桐栖はショーンに軍との交渉や増員の手筈がどうなったかを訊ねない。
彼はショーンを信頼しているのだ。
「ナターシャは、もう寝ているのですか?」
「この時間ですからね」
「それなら、桐栖様ももうお休み下さい」
「あと少ししたら寝ます」
そう言う桐栖が何をしているのか、興味を惹かれたショーンは彼が作業している机に近づく。
すると、その机の上には何かの設計図と思われる歪な図面と、多くの部品が置かれていた。
桐栖はそれらの部品を、小さな筒状の入れ物の中へと入れている。
「……商品の行方を考えていたのではないのですか?」
驚きと呆れた感情をそのまま声に乗せて、ショーンは訊ねるが、桐栖は集中しているのか素っ気なく「それはもう、ある程度予想できました。今はその可能性の中で、もしかしたら必要になるかも知れない装置を作ってます」と返答した。
ショーンは、今度は完全に呆れるしかない。
桐栖は昔から変わっていない。
頭は良いのに、機械いじりが好きすぎて、どんな問題が起こっても装置を開発し始める。
ただ、これを止めさせられないのは、実際にその問題を解決するにあたって、彼が開発した機械や装置が一役を買うからだ。
「今回必要になるかも知れないのは、どんな装置なのですか?」
「微量のっ……生力を発信する……装置です」
その説明だけではいつも通り、桐栖以外の人間には必要になる場面の想像すらつかない。
どんな場面でその魔学道具が必要になるのかショーンは考えてみるが、やはり分からない。
実際に訊ねるかどうかを迷っていると、桐栖は装置を完成させたのか「ふー」と一息吐いて、顔を上げる。
「あと多分、他にも今まで作ったのが必要になると思いますよ」
「? ……ああ、吸魔刀とか閃光弾ですか」
一瞬桐栖が何を言っているのか理解できなかったショーンは、過去に桐栖が作り上げた魔学道具を思い出しながら、確認した。
「はい。あと、ショーンさんが来る前にもう二つ完成させてあるので、正確には吸魔刀・閃光弾・結界装置・魔術人形、と今完成した、これです」
「結界装置と魔術人形は聴いたことありませんね。それが完成した他の二つですか?」
「そうです。……それで、ショーンさんにお願いが二つほどあるんですけど、良いですか?」
ショーンは桐栖から改まってお願いをされたことに、というより確実に桐栖が意図していることとは違う想像をして、若干気恥ずかしさを感じながらも「い、良いですよ。二つと言わず、三つでも四つでも」と顔を逸らしながら言っている。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……これに生力を注いで下さい」
「はい?」
布で作られている人形を桐栖から差し出されて、ショーンは二つの意味で意外に感じる。
一つは当然、人形という布に生力を注ぐことの意味が理解できないと言うこと。
もう一つは……これはショーンの先走った妄想なので、省略しよう。
「これが、魔術人形ってやつです。英名はドッペルゲンガーにしようと思っているですけど、その名前からある程度の機能は伝わりますかね?」
「つまり、生力を注いだ人間と同じ姿になるってことですか?」
「正解です。その後の行動は、起動した人間の指示に従いますけどね」
「き、起動した者の指示に従うっ!?」
鼻息を荒くして、再度イマジネーションを爆発させるショーン。
ナターシャの前では冷静な人物を装っているが、桐栖とその親族、それと自身の家族の前では常にこんな感じだ。
「なにを想像しているのか分かりませんが、身近な人間に変化させれば囮に使えるからですよ」
「お、囮? 私の分身が裸で剝かれちゃうんですか!」
「裸なら剥くものもないでしょうに。あと、服を着た状態で生力を込めれば、服も一緒に再現されますから安心して下さい」
「脱がすのが良いんですねっ!」
「……生力を込めて下さい」
多少無理矢理に桐栖が魔術人形を手渡すと、ショーンは渋々生力を込め始める。
そしてすぐに生力が込められた人形が返ってくる。
「属性とか付加しなくて良かったんですか?」
「属性を付加したらその属性を纏った人間として再現されてしまうので、それは大丈夫です」
「凄いですね。……はっ! 炎のように熱い桐栖様がこれで再現できると言うことですか!?」
「何ですか、そのいつものぼくは氷のように冷たい、みたいな言い方」
「……冷たいじゃないですか」
「言っておきますけど『炎のように熱いぼく』と言うより、実際に炎を身に纏って温度的に熱いぼくができあがるだけですからね」
「それじゃあ抱いて寝るのは難しいですね」
「寝る前にこの家が全焼します。っていうか、ドッペルを抱き枕にしないで下さい」
「高性能抱き枕として商品化しましょう」
「売れません」
「私が全商品買い占めます」
「市場に流れないので却下です」
「それならボーナスはドッペル払いで良いですよ?」
「なんですか、その新しい支払い方はっ!?」
そう突っ込むが、ショーンは冗談で言ったらしく「それで、もう一つのお願い事とは何ですか?」と笑顔で桐栖に訊ねる。
それに対して桐栖は「この人達の経歴などを調査して下さい」と、二名の名前と電話番号が書かれた紙を渡される。
その瞬間、ショーンは真面目な顔つきに戻り、問う。
「この二人が犯人ですか?」
「えっ? ああ、違います違います。今日仲良くなった人達なんですけど、今後の商売に害のない人物かどうかを調べて欲しいんですよ」
「……………………はい?」
桐栖の説明にショーンは口を開けて唖然とする。
桐栖様に友達?
今まで一人も友達がいなかった桐栖様に!?
「畏まりました! 洗いざらい調べておきます!」
「いや、なんかそこまで真面目な返答されると、ぼくに友達ができたらおかしいみたいじゃないですか」
「おかしいですよっ! 今までぼっち道を貫いてきた桐栖様に友達ができるなんて!」
「いやいや、ぼくにも友達いましたって!」
「それは使用人とか桐栖様の親族だったじゃないですか。友達には入りません」
「……随分はっきりと言ってくれますね。まあ、確かに事実ではあるんですけど、それってぼくの実家が武器商会とか、使用人全員がカタギの人じゃないとか、ぼく以外に問題があったと思うんですけど?」
桐栖がそう反論すると、ショーンはあっさりと「そうなんですけどね」と理解を示し、「それじゃあ、明日の夜までには調べさせておきます」と言って部屋を出て行く。
最後に扉を閉める時「お休みなさい」と言い合ってから、桐栖の部屋の明かりは消えた。