駄文集


第三章――商休止――

 
10月2日(水)正午前――ロンドン大学校内、講義室――
 朝食後、マット達と別れた桐栖達は、大学へと来ていた。
 その目的は当然、講義を受ける為である。
 言うまでもなく、現在彼らがやるべき仕事は山積みだ。
 アーサーからの情報に目を通す、重要な点の確認調査をする、商品の具体的な行方を調べる、など挙げればきりがないくらいの仕事があるはずだ。
 だがそんな事情を忘れてしまったのか、もはや恍惚とした桐栖がマット達を送り出した後に「大学へ行こう!」と言った為、それらは全てショーンとその部下達の仕事となった。
 当然、ナターシャもショーンも彼を止めた。「商会がどうなっても良いの?」やら、「桐栖様しか処理できないものもありますので」やら、理にかなった指摘をして、彼女たちは桐栖を制止したのだ。
 しかし桐栖の返答は至極シンプルだった。
「今日の講義はディケンズ教授のなんだっ!!」
 この言葉に二人は絶句した。
 要するに、魔学という学問においての権威であるティモシー・ディケンズの講義を彼は聴講したいだけなのである。
 そして、ショーンは知っていた。このように何かに関して恍惚とした表情を浮かべている桐栖は、梃子でも動かないということを。
 諦めるしかない。ショーンはそう思い、本来桐栖がやるべき仕事をしに、昨日アーサーからもらった大量の資料を持って、家を出た。
 一応、桐栖といつでも連絡が取れるように、ナターシャに商会専用の通信機を持たせはしたが、これからやらなければならない仕事の量を考えると、ショーンの足取りは重くなっていた。
 しかしナターシャは、こんな桐栖を見るのは初めてである為、諦めなかった。
 講義が開始するまで、隣で「帰ろう」や「商会の為」などと言った言葉を掛けていたが、講義が始まってからは、そんなことを言える雰囲気ではなくなった。
 彼は用意していた自動書記用ペンを、四本同時に使い始めたのだ。
 前後左右の机では書き手のいないペンが踊り、桐栖の前の机では彼自身もペンを持って記述をしている。
 それ(特に研いだナイフのように鋭い桐栖の眼)を見るだけで、ナターシャは言葉を掛けられなくなった。
 そして手持ちぶさた(講義中なのでこれはおかしいのだが)になったナターシャは、一応、ティモシーの講義を聴講することにした。
 ティモシー教授は今年八一歳になる老人だ。
 しかし彼の身体は、彼の人生を語っているのか、かなり筋肉質で、スーツを着ているのにその身に纏っているオーラも相まり、軍服にすら見える。
 けれど彼の柔和な表情と丁寧な口調により、周囲に緊張感を強要することはない。
 その彼が今、板書をせずに講義内容を口にしている
「……こうなるのだが、これは分子レベルでの結合が大いに関係しており……」
 確かにティモシー教授の教え方は丁寧で、分かり易いとナターシャには評価できた。しかし、桐栖が自分や商会の未来を投げ捨ててまで聴きに来なければならないほど素晴らしい講義(仮にそんなものがあったとして)というわけでもない。
 ピリリーピリリー。
 そんなことを考えていると、ポケットにある通信機が静かな講義室で自己主張を始めた。
「……ちっ」
「っ!???」
 桐栖が舌打ちをした。それと同時に研ぎ澄まされた殺意も込められているであろう視線が、自分へと向けられたのにナターシャは驚かずにはいられない。
「……えっ……あ、あの……ご、ごめんなさい」
 なんと言っていいか分からずナターシャは涙目になりながらそう言って、講義室を出て行く。
 ピリリーピリリー。
 廊下に出ても、通信機は未だ自分の存在をアピールしている。
 ピッ。
「……クリスに殺意向けられた」
 ナターシャのその言葉に、少し遅れてショーンから謝罪の言葉が返される。
「それで、どうしたの?」
「いえ、一昨日頼まれていたマットさん達の素性と、彼らを昨日アーサーさんのところまで届けた人物の詳細を報告しようかと思いまして」
「マット達の素性?」
「ええ、一応仲良くなるのであれば取引に影響がない人間かどうかを確認しておきたい、とおっしゃっていました」
 そう説明し、ショーンは「纏めた資料があるのですが、見当たらないので口頭で」と続ける。
「分かった。……でも今のクリスは通信に出ないと思う」
「はい。なので、貴女から講義が終わった後に伝えてもらえますか?」
 講義が終わったら元の桐栖に戻るのか多大な不安を感じながら、ナターシャは「……分かった」と応え、マット達の素性を聞いた。
 そんな彼らの素性を、質問を交えながら三十分ほど聞いて、ようやく話は昨日マット達をフリーマーケットまで車で送ってくれた人物の話へと移る。
「その人物は、ハドン商会デボン支部所属の支部長補佐です」
 ショーンは結論だけを先に言い、その人物が善意からマット達を送迎してくれたわけではないことを伝える。
「支部長補佐が、なんでそんな諜報活動みたいなことをしてるの?」
 本来であればそんなのは末端の仕事だ。支部長補佐は支部長の傍らにいて、支部長の代わりにやらなければいけないことが多々あるはず。
 同じく支部長補佐であるナターシャにはそれが分かる。彼女も大学が始まるまでは、それなりの時間、書類とにらめっこをしていたのだから。
「それは、目下調査中ですが、桐栖様や貴女に気付かれずに昨日一日中貴方達を監視していたのであれば、隠密能力が長けているのだと思います」
 最後に気をつけて下さい、と付け足して、ショーンは支部長補佐の情報を話し始める。
「名前はイリア・ヤンシーナ……名前からして、支部長と同じくイングランド人ではないでしょうね。年は十六歳。魔級は第四位ケセド。外見は赤髪のポニーテール……」
 ナターシャはイリアの魔級を聞いて、警戒心を高める。自分よりも二つ魔級が高い。
 これだけでもかなり警戒しなくてはいけないのに、更に彼女はわずか十六歳にして支部長補佐という地位にまで上り詰めている。
 ナターシャは桐栖の父親が任命したので、実績がなくてもなれたが、それ故にもう一人、ショーンという実力も実績もある人間が同じく支部長補佐という役職に添えられている。
 しかし普通、支部長補佐は一人というのは慣習上の原則。
 絶対のルールというわけではないが、補佐はいわゆるサブだ。そういくつも必要なものではないし、補佐の補佐などと言うのは本末転倒。通常ではあり得ない。
 つまりイリアという少女は、その実力と実績で、今の地位まで上り詰めたことになる。
 魔級が高いだけなら、生来の素養と一笑に付すこともできるが、自分の足で上り詰めた地位は無視できない。
 ナターシャはその後もイリアの情報を静かに聴いていた。
 
 カーンカーン。
 講義が終わる合図と共に、大学全体が少し騒がしくなる。
「……と、現状で分かっているのはこのくらいです」
 ちょうど良く、ショーンもイリアの説明を終えたようだ。
「分かった。講義も終わったみたいだし、伝えておく」
 ショーンが「よろしくお願いします」と言って、通信が切れた。
 無音になった通信機とは違い、大学の構内は段々とそのざわめきの音量を上げていく。
 ナターシャが通信機をポケットに仕舞った頃には、数人ほど忙しそうに講義室を出てくる生徒もいる。
 そんな生徒達を横目に、彼女は再度桐栖がいる講義室へと入ろうとする。
 が、ドアノブを触るのが若干躊躇われた。
「もし桐栖が元に戻っていなかったら……」
 その後に続いた台詞は桐栖にとっては好ましくないものだった。
「……殴って正気に戻すっ!」
 桐栖がこれを聞いていたらきっと、「殴っても人や物は正常に戻らない。むしろ、より壊れてしまうよ」と言って彼女を制止していただろう。
 しかし残念ながら、この場に彼はいなかった。
 だから扉を開けた瞬間、桐栖がティモシーと歓談し、自分が書いていたノートを見せている姿を目撃したナターシャが、次の行動に出たのは仕方のないことだろう。
 まず、彼女は右の拳を握り込んだ。
 次に、腕輪の魔術陣を起動させることにより、拳の周囲に氷の塊が生成される。
 最後に、思いっきり踏み込んで、桐栖目掛けて跳んだ。
 勿論、そんな恐ろしい行動をしているナターシャに、桐栖は気付く。
 だが、彼の「ちょっ、まっ、なたっ、ぼくっ、痛いのやだっ!」と言った、翻訳すると「ちょっと待って下さい、ナターシャさん。ぼくは痛いのは嫌なので殴らずに平和的解決を模索しましょう」という台詞は、やはり聞き入れてもらえなかった。
 その代わりに「ぼくがなにをしたって言うんだ」という呻きの合間に漏れた抗議の言葉は、しっかりと聞き届けられた。
 勿論、それは「何もしてないのが問題なの」という正論によって粉々に打ち砕かれたのだが。
 
 突如行われた襲撃に対して、老齢なティモシー教授が漏らした感想は、しかし「氷の生成が素早くて、スジも良いですね」という通常とは若干ずれたものだった。
 その感想に対してナターシャが「桐栖が作ってくれた魔術陣の腕輪だから」と照れながら言ったのも、やはり人が一人倒れているこの場では不自然なものだろう。
 だが、そんな不自然さに気付くことなく、ティモシーは自身の講義を十数分程度しか聞いていない少女に微笑み、桐栖には「今日明日でどうにかできるかは保証できませんが、伝えておきます」と言って、部屋から出て行ってしまった。
 
同日一二時半――ラッセル・スクエア周辺のカフェ――
 大学が昼休みへと入り、桐栖達は今日も同じカフェへと来ていた。
 本日は桐栖が観測する限り、昨日マット達が何かをやらかしたらしく、マットを警戒する範囲が一昨日の倍以上(具体的には半径二〇メートル近く)が閑散としている。
 そして先日先々日と同じ席を占領(これは武力こそ使っていないが、マットという対一般客兵器を使っている時点で実質的な制圧とも言えるだろう)して、ティモシーが言っていた言葉の意味を桐栖が説明していた。
「ごめん、なさい」
 説明を聞き終えた一同の中で、ナターシャが謝罪する。
 対して桐栖は、頬をさすりながら「良いよ。説明しなかったぼくも悪かったし」と応え、彼女を許していた。
 そのやりとりが終わると、説明を聞いている間は押さえ込んでいた疑問をマットは解放する。
「え、えっと、その内容って、僕達も聞いて良かったの?」
 同じくマリーが、首を縦に振りながら同意の意を表明している。
 桐栖が説明したティモシーの言葉に意味は、そのまま桐栖達が現在抱えている商会の問題へと繋がっている。
 つまり、彼は商会の恥とも言える『商品強奪をされた』という汚点を商会会員以外の人間に曝してしまったのだ。
 けれどそんなことを気にしていない桐栖は、二枚の紙をポケットから取り出して、無言でマット達の前に差し出す。
「こ、これって!」
「私達の?」
 桐栖がショーンの部屋から拾っておいた、自分達の素性が書き連ねられている資料を二人は見て、驚愕する。
「悪いとは思ったんだけど、今後の取引に影響がない人物か調べる為に、二人の素性を調査させてもらったんです」
 ごめん、と桐栖は申し訳なさそうに続ける。
「……私たちに何か不審な点でもありまして?」
 あまり気にしていなさそうなマリーは(自分の異様なパステル色の服を無視して)訊ねる。
「いや、これは別に不審な点があるとかないとかじゃなくて、仲良くなっても商人として問題ないか、って話なんですよ」
 本当に申し訳なさそうに、桐栖がそう言うと驚きはしたものの、あまり気にしていなかったマリーは「そういうことでしたら、訊いて下さればお話し致しましたのに」と言って桐栖を許してくれる。
 けれど、マットはそういうわけにもいかないようで、更におどおどとした口調で「ええ、えっと……そそそ、それで、きき桐栖は、どどどう判断したたたのかな?」と桐栖が調査して考えたことを訊ねる。
「ん? 『特に問題なし』ですけど」
 逆のマットやマリーの素性のどこに忌避すべき点があるのか、とでも言うように桐栖は応える。その返答にマットは心底安堵するように胸をなで下ろすが、口調は変わらない。
「ででで、でも、ぼぼ僕なんかとなな仲良くなりたいとかって、おおお思わなくなったんじゃ?」
 マットが何かを怖がっているようにそう言うので、桐栖は少し理解できた。
 彼は自分の経歴から、身内にそうされたように見捨てられてしまうと思ったのだ。
 だから桐栖は「そんなこと思うわけないですよ」と言って、彼を安心させるように微笑む。
 勿論、その言葉だけですぐにマットが安心できるわけではないだろうが、そうすることが始めのステップだと桐栖は思った。
 そんな桐栖の対応に感謝しながら、マットは脱線してしまった話を元に戻す。
「そ、それで、こ今回の事件を話したのはなんでなんだい?」
 その問いに、桐栖は真剣な表情になり、口を開く。
「それは、二人に危険が及ぶ可能性があるからなんだ」
 マットは再度驚き、マリーは興味を失ったのかナターシャに抱きついていた。
 
同日夕方五時頃――デボン州、ハドン商会デボン支部応接室――
 バン。
 ノックもなしに扉が開かれ、大柄な男が横柄な態度で歩を進める。
 その突然の来客に、褐色肌の男は驚くが、これは今に始まったことではないと諦める。
「これはこれはスコット少将閣下。よくぞいらっしゃいました」
 褐色肌の男は心を内に秘め、外郭を理性でコントロールして慇懃な言葉を発する。
「よくぞいらしてやった」
 対して筋肉と脂肪が同じ量、その身体に入っていそうなスコットは、身体と同じく大きな態度で返答しながら三人掛け用のソファーにその腰を預ける。
 褐色肌の男は長年の付き合いから、スコットがこのように突然来て、機嫌が良さそうに見える時は要注意だと言うことを理解していた。
「本日はどういったご用件でしょうか?」
 しかし、これを問い質さないことには、地雷を踏むことすらできない。そしてスコットの地雷は時限式でもある。のらりくらりと逃げていたらいつか盛大に爆発してしまう。
 だが今日の地雷はこれだったようだと、スコットの顔色が変化していくのを観察している褐色肌の男は確信した。
「どういったご用件?」
 その次に続く台詞は褐色肌の男はもうすでに知っていた。
「貴様が失敗した所為で、私に軍本部への出頭命令が下っておる!」
 過去にも何回かあったことだ。
 あまりにも連続してスコットが発注した商品が強奪されるので、軍も彼を疑っているのだ。
 けれど今までの全てが証拠不十分と言うことで、彼は何の被害も被っていない。
 今回も同じだ。褐色肌の男はそう思いながらスコットを説得する為に口を開こうとする。
 だが、今回はいつもとは違い、スコットは彼の気休めなど聞く気はないようだ。
「しかもその出頭命令を出させたのは、あのディケンズだぞ! 今度こそ終わりだ……お前も道連れにしてやるからな!」
 スコットは明らかに憔悴しきっている。
 おそらくここまで想定できる最悪のケースを考えながら来たのだろう。
 しかし『ディケンズ』が出頭命令を出させたというのは、褐色肌の男にとって初耳だった。
「『ディケンズ』は、その……どちらの?」
「忌々しい、息子の方だ!」
 決まっておるだろう、とスコットは続けるが、褐色肌の男からしたら何が決まっているのか分からない。
 だが、息子のディケンズならまだやりようがある、と褐色肌の男は考える。
「トーマス中将なら、大丈夫ですよ」
 褐色肌の男はそう言って、スコットをなだめる。
「……本当か?」
 文字通り大の男が縋るような眼で、褐色肌の男を見つめる。
「ええ、トーマス中将は商会の仕組みには疎う御座います。そんな彼がスコット少将閣下の策略を見破れるはずが御座いません」
「……そうだな! そうだった。彼奴は我と違って世俗に疎いお坊ちゃんだからな!」
 やっと気を持ち直したのか、スコットは一人称を『我』に戻して、トーマスの悪口を言い始める。そのどれもがトーマスという人物からはかけ離れた悪評である。
 しかし褐色肌の男は『世俗に疎いお坊ちゃん』はお前も同じだろう、と心の中で思う。
 スコットもトーマスも、代々軍の将校をつとめる家系の出だ。多少の差はあれど、生活苦を感じたことは確実にない。
 とはいえ、褐色肌の男も生活苦というものは感じたことがない裕福な家の出なので、他人のことは言えない。それを理解している彼は、内心自嘲気味に笑う。
 勿論、表面には一切そんなことを出さずに。
「しかし、今回の相手は少しやっかいなのではないか?」
 一通りトーマスを罵倒を終えると、ふとスコットは鋭いところに気付く。
 それに関しては、褐色肌の男も同じように感じていた。
 だが、トーマスがスコットに出頭命令を出させたのは無関係だろうし、この男はどこからそんなことに気付いたのだ、と考えながら男は応える。
「ええ、正直に申しまして、今までと比べると少しやっかいです。けれど、スコット少将にご迷惑の掛からないよう、十全の体制にて事に挑んでおりますので、ご安心を」
「ふむ。なら、その十全の体制とやらを話してみろ」
 尊大な態度で、スコットは強制的に男がどんな策を講じているのか説明させる。
 褐色肌の男にそれを断るのは、デメリットが多すぎることもあり、彼は素直に話し始める。
「まず、今回少将閣下との取引予定を、無礼にも不意にしてしまいそうな――」
「前書きはいい。何をするのかを言え」
 男の心の中で、歯軋りをする音が響く。
「はい。今回の相手は、おそらく私が商品を強奪したと言ってくるでしょう」
「証拠もないくせに、極東の犬は良く吠えるらしいからな」
「ええ、ですが勿論、私はそんな不法行為に及んだ記憶はございません」
「勿論だ。そんな犯罪者と我が親しいわけがないからな」
「はい。ですので私は全ての倉庫をその者達に披露して、自身の潔白を証明したいと思います」
 褐色肌の男がそう言いながら嫌らしい笑みを浮かべると、スコットは驚く。
「そんなことをして良いのか?」
「身の潔白を証明するにはこれが一番かと」
 その言葉にスコットも意図が汲み取れたらしく、男と同じような笑みを浮かべる。
 そしてスコットは盛大に笑った後、わざとらしい口調で男に訊ねる。
「して、貴様のノルマンディ支部への輸送船だが……今はどこにいるんだ?」
「残念ながらノルマンディの港で船体に異常が見られましたので、今は修理中です。……帰還するのは予定より二、三日遅れてしまいますね」
「そうか。船が沈没してしまっては大問題だからな。念入りに修理しておくと良いだろう」
「はい。そう命じておきます」
 そう言って二人の男は笑い始めるが、すぐに機械音によって遮られた。
 ジリーンジリーン。
 どす黒い室内の雰囲気を入れ替えるように、電話の着信音が鳴り響く。
 スコットの顔が、男に「出ろ」と言っている。
「……私だ」
 男はスコットにも聞こえるように、受話器を自分達の中間地点に持ち、応答する。
 そのようなことがされているとは知らない電話の相手は、いつも通りに報告を始めた。
 少しして、今までと似たような内容が告げられ、スコットは「彼奴らは間抜けの集まりか、何も分かってはいないじゃないか」と安心しているような顔で背もたれに体重を預ける。
 それは当然だ。彼らが自分達に気付いた、と言う報告は昨日の時点で為されている。今日の報告は、それを省いているのだからスコットにそう思われても仕方がない。
「分かった。調査を続けろ」
 男はそう言って受話器を降ろそうとするが、電話の相手はそれを許さない。
 すぐにもう一つの件を報告し始める。
 内容は『対象の周辺人物』である。
 その内容に興味を惹かれたスコットは、重心を前に向けて乗り出してくる。
「カンブリア家の面汚しか」
 言外に「面白い」というスコットは、男に顎で指示を出す。
「そのマフユー・カンブリアとやらを連れてこい」
 承伏する声が聞こえ、男は受話器を置く。
「カンブリア家に次男がいたとはなあ」
「ええ、私も初めて知りました」
「その子息には貴様の潔白を証明する証人になってもらおう」
「かしこまりました」
「ああ、それと……貴様に対して激昂した、自己の商品管理も碌にできない商人が何かをしでかさないよう、我の部下を警護にあたらせてやろう」
「ありがとうございます」
 男はそのような事態にはならないと信じているが、スコットが自らそう申し出るのであれば断る必要もないと考え、素直に礼を言う。
 その後、他愛のない雑談をしてから、スコットは立ち上がる。
「我の出頭命令は明後日だ。できるだけ、その前に解決してくれたまえよ、コシック君」
 かなり気分を良くしたスコットはそう言って、応接室からその身を揺らしながら出て行った。
「畏まりました」
 この豚野郎、と言う言葉は飲み込んで、コシックは笑顔でスコットを見送った。
 
同日六時頃――ロンドン市内、フルハムの高級住宅街――
 2LDKの一室で、マットはクラシック曲のレコードを聴きながら、読書をしていた。
 その本のタイトルは【ハラキリNIPPON】というタイトルで、彼が日本を好いていることが窺える。勿論、この本を見せた瞬間、桐栖やまともな日本人であれば「読んでないけど、その本に書いてあることは全て嘘だと思う」と言うだろう。
 しかしそんなことが分からないマットは、その本を読みながら興奮していた。
「ブシドー!」
 興奮しすぎて、このように日本単語を発する始末である。
 ピンポーン。
 そんな時、来客を知らせるベルが室内に響く。
「……めんどくさいな」
 しかし彼は一人暮らしである。放っておいても、誰も代わりには出てくれない。
 それをこの数週間をかけて理解したマットは、のそのそと玄関へと向かう。
 その間、何度もベルが鳴らされているが、それはマットを急かすことはない。
「はいはーい」
 マットはそう言いながら、玄関へと到着する。
 バーン。
 同時に扉が勢いよく開かれた。
「あっ! 開いてったー!」
 その軽快な声と共にマットに視界に現れたのは、イリアだった。
「い、イリアっ! ……さ、さん?」
 他人を認識して、やっとどもっているいつもの口調に戻ったマットは、更にその声を震わせることになる。
「マフユー・カンブリア。お前を拘束して移送して、監禁させて頂きます」
 異様な威圧感を放つイリアに、しかしマットはいつも以上に怯えただけで、返答は至極シンプルなものだった。
「す、すす素直に攫われるから、い、いい痛くしないで、くく下さい」
 その発言にイリアは笑いながら「オッケーよん、人質一号くんっ!」と再度軽快な口調へと戻して、承諾したのだった。
 ちなみに人質二号の予定はない、はずである。
 
同日同時刻――ロンドン市内、軍本部――
 桐栖はとある部屋の中で、通信機をいじっていた。
「えっと……確か、これで通じるんですよね?」
 彼は同じ部屋にいる、軍服を着込んだ若そうな見た目の割りに胸に数々の勲章を頂いている、兵士に訊ねる。
「ええ、それがデボン支部のものだったはずです」
 当然それは電話と違い、一般回線ではない。
 桐栖が今使おうとしている回線は、軍本部からの直通回線だ。
 その回線から自分宛の通信が入るというだけで、それが何を意味しているか彼も理解できるだろうと、桐栖は信じて通信を開始する。
 ピーガガガッ。
 通信機特有の音を奏でた後、少しして相手が応答する。
「はい。ハドン商会デボン支部、支部長のコシック・カーです」
「えっと、初めまして。今回、御商会支部に商品を強奪された者ですが」
「っ!」
 桐栖の間抜けとも言える自己紹介に、ではなく、桐栖が軍本部の回線を利用していることにコシックは驚く。
「単刀直入に言いますが、貴男が弊商会の商品を強奪したことは、調べが付いてます。なので、数日中に――」
「であれば、明日、お越し下さい」
 桐栖の言葉を遮って、コシックは提案する。
 その提案になんの意図があるのか、と桐栖は考える。
 しかしそれについては彼の中では明白だった。準備期間を削らせる為だ。
 何をするにあたっても準備は必要。
 しかし、その準備期間を意図的に操作すれば、事態を掌握することだってできる。
 つまり、彼は万全の準備で桐栖達が来ることを望んでいない。
 そう判断し、桐栖は同意するつもりで困ったように日程を延ばそうとする。
「えっ、いや、せめて明後日とかはダメですかね?」
「明後日だと大事な商談が予定されておりますので、明日にして頂きたいですね」
 桐栖の予想通り、彼は桐栖達の準備が整っていないと信じ、強固な姿勢で明日を推してくる。
「明明後日でも、ダメですか?」
「明日以降は基本的な業務が山積みです。もし明日いらっしゃれないのであれば、ご対応可能な日程は来月以降になってしまいます」
「……畏まりました。明日、向かわせてもらいます」
「はい、それではエクセタ・シティまでお出で頂ければ、送迎の車をお出し致します」
 そう言ってコシックは一方的に通信を切断した。
 軍人は、その様子を眺めながら「それでは予定通り、明日決行させて頂きます」と言う。
「ええ、お願いしますトーマスさん」
「いえいえ、父の頼みでもありますし、私自身も軍内部に報告頂いたような不祥事が蔓延っているのは許せません」
「ありがとうございます」
 桐栖がそう言ったことにより、桐栖がここまで来た用事を済ませたと思ったトーマスは、動こうとしない桐栖に訊ねる。
「まだ何か?」
「ええ、おそらくコシックが自信を持ってぼく達を招いたと思われる原因を、排除しておこうと思いまして」
 そう言って、桐栖は再度通信機をいじり始めた。


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