
駄文集
第二章――商業行為(例外)――
十月一日(火)午前十時頃――ロンドン市内の倉庫街、ワッピング・ハイ・ストリート――
この日の講義は全て休まなければいけなくなったので、桐栖は朝早くから、事前に大学から聞いておいた各教授達の自宅へ電話をして、今日は出席できない旨を伝えた。
どの教授も理解のある人物だったおかげで『仕事の都合で』という魔法のキーワードを唱えるだけで、すぐに納得してくれた。
そんな理解のある教授達に感謝をしながら、桐栖達は中流層が多く利用している地下鉄に乗り込み、朝のラッシュにもまれながらオルド・ゲート駅まで行き、そこから更に二十分ほど歩いて、ようやくワッピング・ハイ・ストリートの入り口まで辿り着いた。
徒歩二十分は苦痛ではなかったが、朝のラッシュでかなり体力を使ってしまった二人は、肩で息をしてはいないものの、明らかに疲れていた。
「ショーンに車で送ってもらった方が良かったね」
「うん。電車はもうイヤ」
ショーンを毛嫌いしているナターシャにこうまで言わせる朝ラッシュは、かなり凄いらしい。
しかし車を利用していたら、この時刻に到着することはなかっただろう。
その理由は、ロンドン市内の道路事情だ。
現在ロンドンの道路は、馬車と自動車の両方が利用している。
勿論、車の普及に伴いその数を減少させてはいるものの、馬車はまだ使われている。
その結果、車と馬車の速度の違いや、道路を利用するその両方の合計数が多い為、渋滞が発生している。
これは平日の朝であれば絶対に起こる現象で、土日も何らかの大イベントが、ある地域で開催されればその近辺で必ず起こる。
つまりロンドン市内で『陸路を使う』はイコール『渋滞を耐えなければいけない』という常識が成り立っているのだ。
その常識に気をとられてしまった為、桐栖達は地下鉄(アンダー・グラウンド)の恐ろしさを失念していた。
「とりあえず、この時間にここまで来られたことで由としよう」
桐栖はそう言うが、ナターシャは無言だ。よほど朝のラッシュが応えたのだろう。
しかし疲れていようがいまいが、彼らがやるべきことは一つ。
桐栖はそれをきちんと認識し、目の前に続くワッピング・ハイ・ストリートを眺める。
そんな彼の気持ちを察したのか、ナターシャも前を見つめる。
「それじゃあ、商業行為を開始しするとしますか(Let's Start the Deal)!」
桐栖は商人としての行動をする前に、いつも必ず言う台詞を口にする。
ナターシャもそれに対して頷き、そしてどちらからともなく、二人は歩き始めた。
五分ほど歩いたところで、ナターシャは疑問をすぐに提起する。
「クリス。倉庫に行くの?」
彼らが利用していた倉庫はこの更に先だ。
だが、桐栖は犯行現場を見に来たわけではない。ある程度の情報はショーン聞いているし、警察のように魔術使用の痕跡を確かめたところで、本件にあまり意味はないからだ。
よって、彼らが歩き始めてから探しているのは、テムズ川を一望できる場所。
基本的にテムズ川に面して倉庫が建設されているので、現在桐栖達が歩いているところからは川があるのかすら分からない。
「いや、確か途中に開けた公園があって、そこからならテムズ川が見えるはずだからそこで警備にあたってた軍の人たちと話すよ」
「そうなんだ」
彼女はそう言って、桐栖について行く。
そこから更に約五分ほど歩くと、すぐにその公園は見つかった。
商船や観光用のフェリーなど、数多くの船がテムズ川を行き交っていた。
桐栖は公園に備え付けられた簡易的な木製の柵を跨いで、五〇センチにも満たない足場に立つと、周囲を見回し始める。
右手には遠くにロンドン橋が見え、左手には倉庫街に停泊する多くの商船が停泊していた。
「軍の船はなさそう」
同じく柵を跨いだナターシャが率直な感想を言う。
「一応、公的な任務じゃないから一般的な船を使ってるはず」
桐栖は自分の頭の中で、倉庫警護の契約をした際に教えてもらった特徴の船を思い浮かべる。「えーっと……あっ、あった」
ナターシャにも分かるように、桐栖は指を指して、十キロ以上先にある船がそうだと教えてあげるが、数々の船が行き交っているので、ナターシャにはどの船なのか分かり難い。
「でも、どうやって連絡を取るの?」
さすがにこの距離では大声を出しても届きそうにない。
「それは、勿論……これだよ」
桐栖は懐から小型の無線機を取り出して、ボタン操作を始める。
そして間もなく、無線機特有の雑音が発せられて、桐栖は自分がここに来た理由を告げる。
「昨日の件について、少しお話をお聞かせ――」
「すぐに参りますっ!」
無線機に出た相手は、桐栖という人物のことを訊きもせずに、通信を終了させてしまう。
その態度に桐栖は溜め息を吐かずにはいられない。
無線の交信周波数を知っていたからといって、それがすなわち身内かその関係者とは限らないのだ。それを彼は分かっていない。
「これは、商品が強奪されたのも頷けるね」
「うん。不用心すぎ、っていうかバカ」
さすがによく知らない相手に対して、馬鹿と評価することを桐栖はしなかったが、頭の中では「馬鹿なんだろうな~」程度には思っていた。
そして、その馬鹿を乗せた船は、交通量の多いテムズ川をかなりの速度で横断してきた。
「……ああ、馬鹿だった」
桐栖はそう断定するしかない。
運良くどの船とも接触しなかったものの、一歩間違えば大惨事だ。
これは交通量の多い高速道路を子供が横断するのと同等に危険な行動だろう。
彼がどれほど愚かなことをしたのか、考えるまでもない。
しかし自分がどれほど愚かしい行為をしたのか気付いていない軍人は、到着するなり甲板に出て、桐栖達に向かってすぐに頭を下げる。
「今回のことは、誠に申し訳ありませんでしたっ!」
軍人はそう謝罪した。
馬鹿は馬鹿でも、誠意のある真面目な馬鹿らしいことが、桐栖達には理解できた。
「えっと、それはとりあえず置いておきましょう。誰の責任かなどを問うのはぼくの仕事ではありません。……とりあえず、貴男が昨日も警備を担当していたのかをお聞かせ願えますか?」
「はい! 自分、フィリップ・ウォール――」
「ああ、名前とかは大丈夫です。別に個人に責任を問うつもりはありませんので」
「……そうですか」
自己紹介を遮られて、フィリップは少し凹む。
「えっと、それでフィリップさん」
「フィルで結構ですよ」
「……かしこまりました。フィルさんと、他には何名いらっしゃいましたか?」
「自分を含めて三名でありますっ!」
「では、そのほかの二名は今どちらに?」
「軍本部で本件に関する質疑応答を受けております!」
「……そうですか」
質疑応答ね。桐栖は頭の中で、そう呟く。
「それでは、もう何度も聞かれているとは思いますが、昨日の商品強奪が発見した時までの経緯を、簡潔に、お教え下さい」
桐栖は無駄だろうな、と思いつつもわざわざ『簡潔に』を強調して言った。
そして案の定、口を開いたフィルは簡潔とは無縁の彼方へと飛行中、とでも表現できそうなくらい的を射ない説明を始める。
「……という流れであります!」
約三〇分。体感では三時間。
これが、彼が説明に要した時間である。
勿論その中には、商船の特徴やマーカーの詳細など、有益な情報も含まれていたが、約九割くらいは無駄な情報だった。
桐栖はマーカーの特徴をナターシャに描かせて、商船の特徴を箇条書きでメモり、フィルの話を纏めることにした。
「つまり要約すると、ここら辺に倉庫を持たないハドン商会の船が来て、それを確認する者と、陸地で倉庫を監視する者とに分かれた。そして、ハドン商会の船を確認した者達が、昼食を奢ってくれると申し出たので、貴男は監視を放棄して買い出しに出かけた。戻ってきたら倉庫から強奪されていた、という感じですか」
フィルは申し訳なさそうに頷く。
しかしその前に、職務を放棄したということを素直に報告するのはどうなんだろう、と桐栖達は疑問に思う。
普通ならば隠すことではないのだろうか。
その点をナターシャは訊ねたが、フィルの返答は「間違ったことをするのは人間ならよくあります。けれどそれを正直に報告しないのは、卑怯者のやることです」というものだった。
桐栖もナターシャも彼の言っていることは理解できるのだが、正直な話、馬鹿だとしか思えなかった。しかしそれは彼を下に見る蔑称としての『馬鹿』ではなく、いい人なんだけれど『馬鹿』なんだ、という好ましい評価だった。
「ちなみに、他の二名がハドン商会の船へと向かってから、何分くらいで昼食を買いに行くように言われましたか?」
「大体二〇分くらいです」
「貴男が昼食を買いに行って、戻ってくるまでに掛かった時間はどれくらいでしたか?」
「ここら辺には店がないので、一時間以上は掛かりました」
つまり、もしハドン商会が商品を強奪したのだと考えると、彼らは約一時間半くらいの猶予があったことになる。
だが桐栖には率直に考えて、その売り上げ・技術力が共に世界一のハドン商会が、自分達みたいな弱小商会の製品を強奪するとは思えない。
けれども現状では、フィルの証言はそう告げていた。
昨日桐栖が思いついた可能性の一つとして、他武器商会が奪ったというものも確かにあったにはあったが、それは名前も聞いたことがない、もっと小規模な武器商会を彼は想定していた。
ハドン商会を利用した者がいる?
桐栖はその可能性を思いつくが、すぐに否定する。
「ハドン商会が犯人?」
ナターシャも同じ考えに至ったようで、素直に疑問を提起する。
「いや、それはない……と思う」
「手法が明らかすぎるから?」
「うん。それもある」
「なら、誰かがハドン商会を利用した?」
「それはもっとあり得ないよ。ハドン商会は、中規模国家レベルの権力を持ち、その上層部は国王陛下に忠誠を誓っている愛国心のある人たちばかりだ。ぼく達がイングランドに仇為す目的で来ているなら、納得がいくけど、それがないのは軍との繋がりですぐに分かることだ」
「じゃあ、上層部に内緒で下っ端が独断専行?」
「……うーん。それはハドン商会の規模からして、ないとは言えないけど、ここまで堂々と商品を強奪すれば、さすがにバレるでしょ」
「バレる前に、相手が消えるからバレないって考えてるのかも」
その可能性は、桐栖も考慮した。
しかし相手がすぐにでも消える、それも相手がなにを言っても信用できないと周囲に感じさせる方法なんてあるのだろうか。
桐栖は再度考え始める。
単に消すだけなら、極端なことを言ってしまえば暗殺があるが、そのような手段をハドン商会の、末端に至るまで、誰かが用いているという情報は聞いたことがないし、隠せるほどの情報でもない。
ということは、商会としての信用を落として、被害者の言葉を信じさせないようにしていることになるだろう。
「……取引の中止、か。それも信頼のある商会に、過失を問うことを理由としての」
それはまさに今、桐栖達が相対している局面であり、このまま何の証拠もなければ、最終的に週末の取引相手にはそう言わざるを得ないだろう。
「ハドン商会が商品を強奪したので、取引はできなくなってしまいました」と。
そして勿論、ハドン商会は自己の潔白を証明する為に動くし、その時にもしそれが根拠もない戯れ言だと判断されれば、商会の信用は地に落ちる。
結果、被害者は消える。
「上手い手法だ」
桐栖はこの方法を考えた者を賞賛してやりたいくらい、感心する。
しかし、ナターシャはそうは思っていないようで、桐栖の服を引っ張って主張する。
「でも、それは今回が初犯でなかった場合」
それに関しては、桐栖も至極真っ当な主張だと思う。
「初犯でこれはないよ、きっと」
「どうして?」
「手口が用意周到、かつ素早すぎる」
同じ手法で強奪を初めてやるのであれば、少なくとも倉庫からあれだけの商品を持ち出すのに三時間くらいは掛かってしまうだろう。そう桐栖は説明する。
「そんなに入ってたんですかっ!?」
今まで二人の考察を聞いていただけのフィルが、唐突に驚きを表明する。
「ええ、今週末の取引相手が陸軍の少将閣下でしてね」
だから部隊用の装備一式を用意しておりました、と桐栖は続けて、新たな可能性を思いつく。
『もしその少将もグルだったら?』
あり得ないことではない。何度も同じことを繰り返しているのであれば、軍の少将というのは便利に使える。
商品を発注すれば確実に倉庫の情報を得られるし、どれほど多い量の商品を発注しても怪しまれない。
これは取引相手も調査すべきかな、と桐栖は考えていると、ナターシャが意図的か無意識か、フィルが感じている罪悪感を増長させるような補足事項を言う。
「天井まで詰まってた」
その発言により、フィルは夕方に朝顔が萎んでいくように、みるみると気を落としていく。
「ほっっんとうに、申し訳ありませんでしたっ!!!」
気落ちして、ちょうど良く垂れた頭をそのままの状態で固定させて、フィルは再度謝罪した。「……まあ、過ぎたことを何度も言うのもあれですし、もう良いですよ」
ただ次があったら気をつけて下さい、と最後に付け足して、桐栖は柵を乗り越えて公園へと戻っていく。
「それじゃ」
ナターシャも彼に倣って、柵を越えていく。
「申し訳ありませんでした!!」
公園から、道路まで桐栖達が戻った時、フィルの三度目となる謝罪が背中にかけられた。
心なしか、この一件をかなり悔いているように聞こえる声だったが、桐栖達は彼を気にしていないという風に思わせる為、振り向かない。
桐栖には、ここで振り向いたら彼は自分を更に責めてしまいそうな気がしたからだ。
「次はどこに行くの?」
ナターシャがそう桐栖に訊ねたのは、ワッピング・ハイ・ストリートの入り口付近まで戻ってきた頃だった。
「次は、商船のマーカーに詳しい人に会いに行くよ」
「それが昨日言ってた、ツテ?」
「……うん。強奪犯が海路でこの倉庫街に出入りしているなら、確実に商船用のマーカーはあるだろうって踏んでたんだ」
桐栖の応えに納得しつつ、ここまで考えていた彼の思考にナターシャは感服する。
しかし、対して桐栖はハドン商会という名称に気が重くなっていた。
世界一位の武器商会を相手にするという点もそうだが、ハドン商会のマーカーをこれから行く人物に問うというのもまた、彼にとっては枷を付けた上で大砲を持ち運べ、と言われているのに等しく、足取りを鈍らせる。
そんな桐栖の気を察したのか、ナターシャは話題を変えようと、一つの質問を投げかける。
「クリス。フィルの同僚達、ハドン商会の人たちになんて言われて丸め込まれたと思う?」
その質問に呆気にとられたのか、若干考えるそぶりをしてから、桐栖は返答する。
「んー。まあ、何通りか考えられるけど、単純に金銭を握らされただけだと思うよ。フィルも羽振りが良かったって言ってたし」
「それで、倉庫を襲撃するのを見逃せって言われたのかな?」
「うん。そうじゃない?」
「でも、それなら二人だけが本部に呼び出されて、質疑応答受けてるってのはおかしくない?」
「それは、フィルが馬鹿正直に『二人が見てたはずです』って言ったか、その同僚の二人がフィルを庇ったんだろうね」
「どっちの方が確率が高いと思う?」
ナターシャのその挑戦的なトーンで発せられた問いは、桐栖のこれからを考えて重くなっていた枷を解いたのか、彼の表情が年相応のものに戻る。
「……ぼくは、同僚が庇った方に賭けよう」
「じゃあ、私はフィルがバカ正直に報告した方に賭ける」
そう二人は自身がどちらに賭けるかを表明するが、彼らがその答えを知るのは、賭けていたことすら忘れて、再度フィルに会った時となる。
その時にナターシャは賭に負けることになるのだが、そもそもなにを賭けているのかすら分からないこの賭は、事実上無効となってしまうのだった。
同日同時刻(桐栖達が賭の話をしてる頃)――同じく倉庫街(桐栖達の後方)――
この十月に下半身はホットパンツとオーバーニーソックス。
上半身はフード付きの革ジャン、ウェストコート、ワイシャツにふくよかな胸部を納めてネクタイをした、10代中盤あたりの少女が桐栖達を眺めながら追跡していた。
一見しなくても、随分とちぐはぐな服装だ。
軽装なのか、フォーマルなのかカジュアルなのか、いまいち把握し辛い。
そして同じく、彼女自身も十代中盤くらいの顔ではあるが、身長は高く、年齢を判別し難い。
その少女は、歌っているのかよく分からないトーンで口ずさむ。
「わっかりやすすぎっ~ってかんじっじ~だったっのっかー♪」
明らかに歌詞としては奇抜すぎるし、リズムもスタッカートの連用という同じく一風変わったものだ。おそらく、それは彼女の感想として口を割って出たのであろうが、なにも知らない人から見れば、意味不明の一言に尽きるだろう。
「だっから~あったっしーはぁ、商船つっかうなー!!! って言ったったのぉにー」
どうやら彼女は桐栖達が、ハドン商会の商船が商品強奪に関係していると気付いたことを知っているようだ。
だが『使うな』と言えたということは、彼女はハドン商会の関係者なのだろうか。
その答えは、すぐに出された。
「ハっドン商っ会デボっン支部っのイっリアちゃんでぇ~すっ!」
イリアというイングランド人のものではない名を名乗る彼女は、ホットパンツのポケットから取り出した通信機を使って、そんなことを言い始めた。
「はあ。……イリア、貴様『隠密行動』って言葉を知っているか?」
「知ってるよんよん♪」
「なら実践しろ。この回線はお前達しか使わないんだ。所属を名乗る必要はない」
通信相手の男は、暗に「知られたらどうするんだ馬鹿!」という意図を込めて忠告する。
しかしその返答も、かなり軽いものだ。
「ほーいさっさっさー」
けれど、さすがは彼の上司(?)。そんな彼女のふざけた返答にも動じない。
「まあ良い。状況はどうなっている?」
イリアは終始ふざけた口調で、先ほど見聞きした桐栖達の様子を男に告げる。
そしてそれを聞き出した男は「分かった。目標の追跡を継続しろ。……そのツテとやらが誰なのかも、調査しておけ」と言って、イリアの返答を待たずに通信を切る。
「りょっかいのあいあいさっさー!」
誰も聞いていないのに、イリアは通信機に敬礼をしながら承伏する。
だが、その後素早く彼女は再度通信機を操作し始め、先ほどとは違う男の声が聞こえると同時に喋り始める。
「状況を開始して。……うん。殺してはダメよ」
先ほどと口調が変わり、その不穏当な発言は、かなり威圧感を与えるものへと変貌する。
そして声だけではなく、彼女の表情は残虐性を醸し出しており、十代中盤頃の少女がするものではなくなっていた。
「か、畏まりました!」
彼女は相手が怯えながらも承諾したのを聞いて、通信を切ると、先ほどまでの無垢な少女の表情を取り戻す。
「ひーろーにぴんちはつっきもの吹き出物ってっねぇ~♪」
表情だけは可愛らしい少女のものだが、しかしその目は、明らかに狩人のものだった。
同日午前十一時――桐栖の家、ショーンの部屋――
「ふぅ」
軍部のお偉方と資金提供の契約を取り付けてきたショーンは、自室で一息吐いていた。
増員の手筈はもうすでに整っており、先ほど部下から受けた報告では、約100名近くの人員が集められているそうだ。
このご時世、職にあぶれている者は少なくはない。だが、やはりたった数時間でここまでの人員を集められる、ショーンの部下達は優秀なのだろう。
しかしその部下達も、統率してくれるショーンがいなければ烏合の衆。
要するに自分は人を使うことに長けているのだ、とショーンは自己分析している。
けれど、人を惹き付ける才能はない。とも思ってた。
ショーンにとって、人を惹き付ける才能を有しているのは、桐栖の家系である。
桐栖の二人の兄も、十年も付き添っていた彼の父親も、他人にはない『何か』を持っていた。
その『何か』にショーンも惹き付けられ、彼らの為に最善を尽くそうと思ってきたのだ。
だが、彼らの中でも桐栖にはその『何か』とは違う『何か』をショーンは感じていた。
これは感情論、と言うよりほぼ本能に近いので、具体的にどう言い表したらいいのかショーンは知らない。
最近では、その『何か』を表現する言葉はないのかも知れない、とすら思えており、言葉という意思の伝達方法に限界を感じていた。
「けれど昨日の頼みに関しては、驚かされましたね」
誰にともなく、ショーンは虚空にそんな言葉を投げかける。
そして微笑みながら、鞄から二枚の紙を取り出して読む。
「マフユー・カンブリアとメアリー・ウッドヴィル、ですか」
彼らのプロフィールを読みながら、彼女は慈愛の表情でその二枚の紙片に言葉を贈る。
「大丈夫ですよ。貴方達の事情がどうであれ、桐栖様は助けて下さいます」
その後に「性別が分からない私を気味悪がらず、普通の人間として接してくれたあの方であれば」と独白するように続けた。
そして、その紙に貼り付けられた二人の顔写真を撫でてから、彼女は鞄へと戻す。
それが鞄の中には入らず、床へと落ちたのにも気付かず、ショーンは立ち上がった。
「それでは私も、最善を尽くさせて頂きますよっ!」
彼女は意気込んで、部屋を後にした。
同日数分後―ワッピング・タウン、ドック・ストリート―
「ハア、ハアっ……っく、ハアハア」
桐栖達は倉庫街からオルド・ゲート駅へと戻る途中、車に乗った三名の男に突然銃口を向けられ、追われていた。
その結果、元々向かっていたオルド・ゲート駅へと向かうことを放棄し、今はホワイト・チャペル駅へと向かって逃げている。
機転を利かせて目的地を変更し、裏路地に入ったのが効を成したのか、現在追っ手は近くにいないようだ。
「クリス。どうしようっ!!」
今にでも追っ手に向かって単身で突撃しそうな、意気揚々とした声でナターシャがそんなことを訊ねてくる。
「逃げるよ」
「えー」
「相手が誰かも分からないのに、倒したらどうなるか予想がつかない。最悪の場合、今後の商談に差し支えるかも知れないだろ?」
ナターシャの抗議をものともせず、桐栖は返答する。
商人が一番恐れるのは先行きの見えない状況だ。
桐栖は、そんな自分が最も恐怖する状況にならないよう、思考を始める。
だがこの状況も、昨日考えた可能性の中の一つだ。
冷静に思い出せば良いだけ。桐栖はそう自分に言い聞かせて、記憶をたぐり寄せる。
「ナターシャ。これに生力を込めてくれるかな?」
そう言いながら、桐栖は懐から昨日ショーンに生力を注いでもらったのと微妙に形の違う魔術人形を取り出して、用途の説明をする。
「……というものなんだ。だから、属性を付加させずに生力を込めてもらえるかな」
「分かった」
ナターシャはすぐに生力を魔術人形に込めて、桐栖に返す。
そのお返しに、桐栖は真四角の筐体を渡す。
「これは、なに?」
「結界装置。英名はシールドボムって言うんだけど、生力を込めれば込めた分だけそれを闇と土の属性へと変換して、防御障壁を展開してくれるんだ」
「クリスのヴァンパイアと同じ感じ?」
ナターシャは吸魔刀の英名を言うが、桐栖は否定する。
「確かに吸魔刀は、相手の生力や属性が付加された魔術エネルギーを吸収することができるし、吸収したエネルギーを自由に使うことはできるけど、他属性に変換する機能はないんだ」
「でも、クリスは吸収したのをどんな属性にも変えて使ってる」
「それはぼくがどの属性でも扱えるからだよ。……えっと、基本的に吸魔刀ができるのは、属性が付加されていようがなかろうが、生力として魔術エネルギーを吸収することだけなんだ。その後に吸収した生力を放出して、属性を付加する時には、ぼくがその属性を与えている」
「じゃあ、桐栖以外が使っても闇の属性をヴァンパイアに纏わせることはできないの?」
「その人が闇の属性を扱えなければ、そうなる」
吸魔刀の原理を聞いて、ナターシャは少し考える。
基本的にどんな属性であっても、四大元素である火・水・土・闇から生成されている。そして本来誰でもこの四大元素は全て扱えるはずなのだが、得手不得手があるように、中でも特に扱いが難しい闇の元素は使える者が限られてしまっている。
それを生力量が低く、魔級も同じく第九位イェソドという低い桐栖が扱えるのは、皮肉とも言えるだろう。
だが、今回桐栖はその根底を覆してしまった。
闇を扱えない人間がいるという常識。
それがこの小さな筐体一つで壊されてしまっている。
どの属性も、元は無属性の生力をその根源としている為、属性変換をさせる理論があることにはある。けれど、誰もその実証にまでは至っていないはずなのだ。少なくとも公的には。
それを桐栖は行ってしまった。
ナターシャは彼の優秀さに、知り合ってからの三ヶ月間で何度も気付かされているが、未だ桐栖の『優秀さの限界』を見ることはできていない。
そんな彼をナターシャは尊敬以上の感情を込めた視線で見つめる。
桐栖は優しそうな顔に、彼女がなにを思っているのか分からず、疑問符を浮かべている。
ナターシャはそんな桐栖の顔を見ながら思う。
一見しなくても普通そうな人。
普通に優しそうな人。
とても底が知れないほどの天才には見えない。
けれど彼が普通と違うところはそこじゃない。
頭が良い。というのも勿論ある。
日本人。というのも勿論ある。
武器商人。というのも勿論ある。
けれどそれらは桐栖という人物を説明する際にさほど重要な情報ではない。
少なくとも彼女はそう思っている。
彼という人物と他者との大きな違いは、言語化すれば『慈しむ心がある』という点だ。
彼女は『愛情』という言葉はあまり理解できない。
けれど、彼女の親が彼女に与えてくれていたような安らげる空間を、彼は創ってくれる。
それを彼女は『慈しみ』だと思う。
そんな彼を彼女は『愛』している。
それが『家族愛』なのか『恋愛』なのかは彼女自身にも分からない。
だから、彼女は桐栖の顔を見るたびに、誓うのだった。
『彼の手足として彼をサポートする』と。
ナターシャは心の中で誓いながら、「属性変換ができるなんて、凄いね」という感想は飲み込んで、口を開く。
「それで、私はどうすればいい?」
その言葉を合図に、桐栖は作戦を切り出した。
「……二人?」
一人で路地を走っているナターシャは、背後に迫る気配を感じながら、そう判断する。
桐栖の作戦は、そこまで複雑なものではなかった。
二手に分かれて、桐栖がナターシャに模した魔術人形と囮になって逃げるという、概要だけ聞けばひどくシンプルな作戦だ。
勿論、この作戦にナターシャは反対した。
桐栖が囮になるということは、銃口が彼に向けられるということ。
そこから発展する危険性は言うまでもないだろう。
しかし、桐栖も無策にただ逃げ惑っていたわけではない。
桐栖には、先ほどナターシャに渡した結界装置以外にも魔学道具がある。
それらは全て商会の製品として売り出す目的で、桐栖が開発・試験を行っている物であり、現時点では制作者本人しか使えない、いつ壊れるか分からないなどの難点があるものの、その効力は期待できる物ばかり。
そして本日彼が持って来ていたのは、結界装置と魔術人形、吸魔刀、閃光弾の四つだ。
今回の襲撃に対して、彼らが掲げる目標が『敵を殺さずに、所属組織または依頼主を確認する』ということを考えると、十分な装備とナターシャには思えた。
故にナターシャも桐栖の作戦を受け入れ、単独で逃げることにしたのだ。
ただ一つ、この作戦に誤算が含まれていた。
桐栖は自分たちが追っ手にも見つからず、悠長に作戦内容や魔学道具の説明をできていたことから、相手は索敵魔術が使えないのだと考えていた。
それ自体は正解だったのだが、襲撃犯の男達から少し離れていたイリアは索敵魔術が使えた。
そして彼女は桐栖とナターシャ、そして魔術人形の反応も認識していたが、魔術人形が桐栖と共に移動を始めた為、それをナターシャだと誤認してしまった。
よって、一人で逃げている者が重要な情報を持って逃げていると考えたイリアは、追っ手を二人向かわせて、その者が持っている情報を入手させるように命じた。
結果として、なんらかの重要情報を持っていると判断されたナターシャは、二人の男達に追われることとなり、彼女はその対処をどうするか考えていた。
二人程度なら、奇襲をするなりして殺すことはそう難しくはないだろうが、殺すなと桐栖から厳命を受けているので、それはできない。
しかし相手の技量が自分と同等かそれ以上の場合、生け捕りにするなんてことができるかナターシャには現状では分からない。
突如、破裂音と高速で自身の近くを何かが通り過ぎる音が、ナターシャの鼓膜を震わせる。
相手が構えていた銃から発射された弾丸が、近くを過ぎったのだ。彼女は振り返ることなくそれを理解した。
どうやら相手も追い続けることに飽きてきたようだ。
「どうしよう」
ナターシャは第一射から続いて撃たれている弾丸に当たらないよう、ジグザグに路地を走りながら、考える。
彼女が持っている武器と呼べる物は、桐栖から持たされた魔術陣の入った腕輪だけだ。結界装置は防御にしか使えないそうだし、相手を閉じ込めることもできないらしい。
「……」
ナターシャは更に十歩ほど駆けて、腕輪の陣で氷の壁を左手の前に生成しながら、反転した。
同時に数回の破裂音に続き、氷が音を立てる。
男達は銃弾が氷の壁にめり込んだのを見て、即座に射撃を止める。
男達は「ようやく観念したのか」とでも言いたそうなにやけ方をしながら、マガジンを替えている。おそらく火の属性を付加できる弾丸に替えているのだろうとナターシャは判断した。
しばらくの間、静寂が空間を支配する。
ナターシャは男達との距離がどれくらいあるのかを目で測る。
相手との距離は、約二十メートルほど。
桐栖から聞いた量の生力を込めた場合、結界装置の有効範囲は半径五メートル。
ナターシャは右手に結界装置を握り、決心する。
「……はっ!」
氷の壁を前方に構えたまま、力強く地を蹴って、彼女は男達に向かっていく。
男達もそれに対抗するように、火の属性が付加された弾丸を撃ち始める。
水を焼くような音がして、着弾したところから氷が溶けていく。
厚めにしておいて良かった。ナターシャはそう安心しながら、距離を詰めていく。
そして氷の壁に穴が開きそうになったところで、男達から五メートルの距離へと到達する。
「はぁっ!」
そのかけ声と共に、結界装置から球体状の闇が放出され、素早く増殖してく。
先ほどまで鳴っていた銃声や、着弾音は一切聞こえない。
「……凄い」
ナターシャは闇の中で、今度は素直に桐栖の魔学道具に対する感想を述べた。
だがすぐに結界装置を手放して、男達がいた方向へと駆け出す。
「なっ!?」
闇の中から彼女が出た瞬間、男は驚いたような声を上げるが、その時点でもうすでに遅い。
ナターシャは両手から生成した氷の柱を男達の後頭部へと衝突させていた。
「がっ!」
「ぐっ!」
ドサ。ドサ。
大の大人が二人。ロンドンの汚いアスファルトに口付けを交わす。
ナターシャは念のため、二人の手足を拘束してから、衣類を漁った。
しかし彼らのポケットの中には彼らの身分や所属を証明する物はなく、彼女はすぐに諦めることにした。
「クリスだったら、何か分かったかな?」
そんな疑問に、自分の中で「クリスなら絶対何か分かる」と返答しつつ、彼女は結界装置を回収して桐栖と落ち合うことになってるエジウェア・ロード駅へと向かった。
同じ頃、桐栖とナターシャ(魔術人形)は残った一人に車に追われていたのだが、結局逃げた方が楽だと思いつき、人通りの多い通りまで逃げて、追っ手から逃れていた。
閃光弾や結界装置を使えば、彼もまた追っ手を撃退できたのだが、下手をすると殺してしまいそうだったのと、車種のみで、ある程度相手を調べられるという理由から、相手にしないことにしたのだ。
その代わりに、追われている最中何度も振り返り、車種の特徴をメモ書きしていたので、追っ手に「ちょこまか逃げながら、ちらちら見てんじゃねーよ!」と言われてしまった。
それに対して桐栖は「もしよろしければ依頼主とか教えてもらえませんかー?」と随分と図々しいことを言っていたのだが、相手が馬鹿だったのが幸いし、快く「言うわけねーだろ、バーカ! ただ、相当大きな後ろ盾ってことくらいは教えといてやらー!」と教えてくれた。
男の返答に面白味を感じた桐栖は、礼を言いながら「何かあったらここに連絡下さいー! お力になれることがあるかも知れませんよー!」と言って、自分の名刺を車に向かって投げて、大通りへと出たのだった。
大通りに出てからは、やはり警察などの目があるからか、彼はなにもしてこなかった。
彼の言っていた『相当大きな後ろ盾』さんは警察に劣るらしい。
それらの情報がなにを意味しているのか考えながら、桐栖も魔術人形と共にエジウェア・ロード駅へと向かった。
同日正午――ラッセル・スクエア周辺のカフェ――
昨日と同じく、昨日とは違うパステル色に身を包んだ二人がテラス席に座っていた。
「ここに来ればいるんじゃなかったんですの?」
とパステルレッドが不平を漏らす。
「い、いや、ここに来ればいるかも知れないとは言ったけど、いるとは言ってないよ」
とパステルグリーンが弁解する。
この二人が通りの端に現れた瞬間、昨日この場に居合わせた客達は隠れ、店員達は「CLOSE」の看板を持ち出し、モーゼが紅海を割った時のように彼らの通る道は開かれたのだ。
そしてそれを見て、パステル色のスーツを好んで着る以外は、一般的な思考の持ち主であるマットは、彼らが自分たち(正確にはその身を包んでいるパステル色という異常な色彩の服と、マット個人なのだが)を畏怖しているのだと理解できた。
しかし一般的な思考をどこかに置き忘れてしまったであろうマリーは、気付けない。
同じパステルに身を包んでいても、中身は違うのである。
「それに、今日は貸し切りではありませんのねぇ」
マリーは周囲を見回し(そしてその視線で店員を恐怖させ)ながらそんな不満を漏らす。
それを聞いて、マットもその事態に違和感を感じる。
確かに昨日は貸し切りだったのに、今日は数人このカフェにも来客がいる。
勿論それは、昨日の騒動を知らない可哀想な子羊たちが迷い込んだだけなのだが、それを見てマットは安心し、マリーは納得できないという表情を浮かべている。
「貸し切りが良いですわ!」
これを聞いた店員の耳には「貴様の店を潰してやる。精々今のうちに貯金しておくんだな」と意訳されて伝わり、店員達が待機しているバックヤードが騒然とする。
「仕方ないよ。僕らしか客がいなかったらこのお店も潰れちゃうだろうし」
店員訳:「確実に潰してやる。老後の貯蓄は十分か?」。
「ナターシャさんも来ませんし、つまんないですわぁ」
店員訳:「暇潰しに十の災いを下してやろう。まずは水を血に変えてやる」
「桐栖も来ないね」
店員はそこではっと気付く。
昨日パステル(複数形)がもたらした厄災は、あの東洋人(メシア)が緩和させてくれたのだ、と。
すぐに店員の一人がUCLへと疾く駆ける。
その様子を横目で見ていたマットも同じく思いつく。
昨日は何らかの理由で、このカフェの店員が桐栖達を連れてきてくれた。であれば、今日は他の店の人達にも桐栖達の行方を捜してもらえば、すぐに連れてきてくれるのではないか、と。
ほかの店で怯えながらも自身の安全に関して高を括っていた人達にとって悪魔のような考えに至ったマットは、何故このカフェの店員達が桐栖を探してきてくれていたのかを考え始める。
「昨日はなんで連れてきてくれたんだろう? 僕がなにをすれば良いんだ? いや、僕が何かをしていたのか? 無意識で? 無意識でできることってなにがある? 暴食? 夢遊病患者じゃないんだからそれはないか。いや、待てよ。夢遊病に近いことを僕はしていたのか? 夢遊病でできることってどこまであるんだ? 殺人? テロ? いや、さすがにそこまでは……」
その発言が、昨日と同じく大音量でされた為、この飲食街に響いた。
そして、マットの声以外の音がこの世から消えたかのような静寂が訪れる。
だがその静寂も、昨日の多重人格者っぽいマットを見ていた一人の客があげた悲鳴が呼び水となり、パニックの声と音によって蹂躙されることとなった。
ズザザザァァァァッ! ガガッガァァァァ!
「きゃぁぁぁぁぁ!」「うわぁぁぁぁぁぁ!」「天にまします我らの神よっ!」
それはまるで、この場にいる者達の脳が、『殺人』や『テロ』という言葉の下に二重線を引いて、『注意注意(ワーニングワーニング)!』という警告の付箋まで貼ってしまったように狂乱している。
よってパニックに陥った者達は、モーゼが率いたエジプト脱出の時に迫る大移動を始めた。
ある者は自分の身一つで奇声を上げながら逃げ出し、ある者は友人・恋人の手をしっかりと掴んで走り、ある者は自分が座っていたテーブルや席を掴んで後退した。
人によっては全速力で逃げ出し車道へと躍り出てしまい、車に撥ねられてしまった者もいる。
そんな阿鼻叫喚な飲食街で、人々がマットを警戒する為に飲食街の両端を防ぐように固まってしまった。その結果できあがったのは『マット包囲網』(命名者:マリー)だ。
この飲食街は通りの両端を除いて、出られる脇道などがない。
つまり、マットとマリーは飲食街からの出口を塞がれてしまったのだ。
しかしそれに対する感想はパステル達の中で二つに分かれた。
「ご、ごめんなさい。ちょ、ちょっとした考え事してただけなんです。わ、悪気はなかったんです」とマット容疑者は供述しており、マリーは「貴男、普通に喋ることもできたんですのね」と随分と的外れなことを言っていた。
そんなやりとりをしている間に、多くの飲食店店員達は店の裏口を使って逃げ出し、元々は平和な昼食を楽しんでいた一般客だけがここに取り残されてしまう。
しかしマット達がいるカフェの店員達は総じて腰が抜けてしまい、逃げ出せずにいたということもあり、マリーは平然と紅茶のお代わりを注文する。
注文された店員が「しょ、少々お待ち下さい……具体的には抜けた腰が戻るまで」と言えたことに、彼のプロ意識を褒めてあげるべきだろう。
この事件は、他の事件と共に【ラッセル・スクエア怪奇事件簿】という本纏められ、数十年後売られることとなる。そして後に【昼下がりの悪夢(デイドリーム・ナイトメア)】と呼ばれることとなるこの事件は、その記念すべき事件ナンバー001を飾ることとなのだった。
しかしこの時点で誰も、この悪夢のような事件が何度も起きるとは考えてもいなかった。
同日午後一時頃――ロンドン市内、パディントン駅(改装工事現場)周辺――
「こふぉにツフェの人が……ゴクン……いるの?」
工事現場の狭い足場を器用に動き回る複数の大男達を下から眺めながら、ナターシャは問う。
手にはまだ、先ほど購入したばかりのサンドウィッチが入っていた包装紙だけが残っている。
「うん……」
桐栖はナターシャの口元に付いたマヨネーズを拭いながら応える。が、ここに来てから桐栖の様子がおかしいことに彼女は気付いていた。
「クリス。どうかしたの?」
「うん……いや、そのツテに関して、昔、ちょっとあってね」
その問いに対して、桐栖はこれから会おうとしている人物の説明を始める。
「その人は、サイモンさんって言うんだけど、元々は造船職人だったんだ」
その後に彼が「ハドン商会のね」と付け足したことにより、ナターシャは桐栖がなにを躊躇っているのか少し理解できた。
商船に記されるマーカーには、その商船が所属している商会だけではなく、どこの支部・誰の所属かなどが記されている。
だが、遠目からでも分かる範囲であれば所属商会までしか分からないし、支部や上司まで分かるものは同じ商会内の人間しか分からないようになっている。
その理由は、どこの商会の誰それはどこと定期的に取引をしているなどと言ったことを知られない為だ。知られれば、その取引の妨害がし易くなる。
取引をするのはどちらも人間だ。取引相手のマイナス点を挙げ連ねれば、相手は心証を悪くするだろうし、人間である以上どこかで失態を経験している。そこを突けば言いなりにできる可能性もあるだろう。
そういった情報は、商会という所属組織の悪い点を挙げ連ねるより交渉に大きく作用する。
だが、内部の人間がどこの船がどこの所属かというのは、知る必要性はある。
相手の商船にでたらめな支部や上司を記すものがあれば、その商船は自分たちの商会を語る偽物だと判断することもできるからだ。
故に、マーカーの詳細を知る者は多くがその商会に生涯束縛されてしまう。
「そのサイモンは、今もハドン商会の人間なの?」
「いや、抜け出しているんだ。十二年前に」
桐栖はそう言うが、ナターシャは造船職人という役職に就いている人間がそう簡単に抜け出せるわけがないことを知っている。
理由がなんであれ、マーカーの詳細を知っている者が商会に『取引に悪影響を及ぼす者』と判断されないわけがないのだ。
それが彼女の顔に出ていたので、桐栖は補足する。
「それをぼく……って言うか、ぼくの父親がね、抜け出す手伝いをしたんだ」
「それなのにまだイングランド国内に残ってるの?」
「まあ、それはぼく達も止めたんだけどね。……抜け出す際に、当時彼の部下だった人達や家族が皆亡くなってしまってね。どうしてもと言われたから……」
『亡くなってしまった』と言う桐栖の言い方とその表情から、自然死ではないことがナターシャにも伝わる。そして、ハドン商会を抜け出そうとしていたのなら、十中八九殺されたのだろうことも。
「……でもそれは、クリスの所為じゃない」
ナターシャは桐栖の裾を掴みながらそう訴える。
桐栖も、不要な心配を彼女にさせてしまったと気づき再度笑顔に戻って、彼女の頭を撫でる。
「分かってる。……心構えは昨日のうちにしておいたはずだったんだけどね。昔良くしてもらってたのを思い出したら、なんか躊躇しちゃったんだ」
そう言って向かう桐栖を見ていたナターシャには、小さく口が「ありがとう」と続けたように見えたが、耳は彼の声を受信しなかった。
「すいません。サイモンさんは今どちらにいらっしゃいますか?」
改装中のパディントン駅内へと入り、桐栖は近くにいた、大きな体躯をした男へ訊ねる。
十月にも入り、日本と比べると秋と言うより冬に近い気温であるのにも関わらず、彼は作業着の袖を腰に巻いて、上半身はタンクトップのみとなっている。
「あん? あんた、親方の知り合いか何かか?」
不機嫌そうな物言いだが、彼は文言通りのことを訊いているに過ぎない。
このような人間に対する対応を、幼い頃にサイモンと会って学習した桐栖は、動じずに「はい。『桐栖が来た』と伝えて下されば分かるはずです」とタンクトップの筋肉男に頼んだ。
すると筋肉は「知り合いならいいんよ。あそこの仮事務所で待ってくれ。すぐに連れてくっから」とはにかみながら言い、走っていった。
駅構内とは言え、開放感溢れるこのパディントン駅の壁は、風を遮断する職務を放棄しているので、外と変わらず寒い。
桐栖達はマッスル・ワーカーの提案に甘えることにして、駅の端へと追いやられた仮設事務室へと向かう。
中へと入ってみると仮設とはいえ、壁が職務放棄を企ててすらいないようで、風がないだけで若干ではあるが、暖かかく感じられた。
しかし仮でも事務所として利用されているはずなのに、室内の様子は乱雑としていた。
パイプ椅子は倒れており、机の上には使い掛けのマグカップや食器だらけ。
おそらくここの改装に関する工程表などの書類は、倒れた椅子に押しつぶされており、そのほとんどに足跡が付けられていた。
「……掃除をしよう!」
「勝手にしても大丈夫?」
「大丈夫。綺麗になって怒る人はいない!」
「分かった。手伝う」
そんな会話の後、桐栖は片付けを始めてしまう。
ナターシャは、と言うと、桐栖の邪魔にならないように外へ出ていた。
彼女の言う『手伝う』とはイコール『桐栖の邪魔をしない』ということになるらしい。
「ふっっっっっざっけんじゃねぇぇぇぇ!」
桐栖が片付けを終えた後に、パディントン駅周辺へ轟いた言葉がこれである。
発生源は、仮事務所の扉を開けて整理整頓された室内を見た、猛々しいまでの筋肉をその身に宿す高齢男性である。
「汚かったんで、掃除しておきました」
桐栖はその怒声に怯えることもなく、報告する。
「見りゃわかるっ! なんでお前ぇさんがそんなことしとんのじゃ!」
「汚かったんで、つい」
「つい、で客人に掃除させやがって……おい! ウォレン呼んでこいっ!」
筋肉オヤジは近くにいる筋肉に怒鳴りつけて、ウォレンという人物を呼んでこさせる。
「いや、これはぼくが自主的にやってことなので――」
「自主的だろうが能動的だろうが、そんなん関係ない!」
筋肉の権化がそう言っていると、先ほどサイモンを探しに行った若い筋肉がやってくる。
「何っすか、親方」
「『何っすか』じゃねぇだろっ! お前ぇ、俺の客人をキタネェ事務所に通すったぁ、どういう了見だ!」
バチーン。
盛大な音を立てて、ウォレンの頬にサイモンの鉄拳がめり込み、飛ばされた。
一瞬、なにが起こったか分からないウォレンは起き上がりながら「さ、サーセンっしたっっっっ!」と言って、子鹿のように弱い足取りで逃げていった。
当のサイモンは、涼しい顔で「いやぁ、すまんかったのぅ。見苦しいとこ見せて」と桐栖達に笑顔を向けたのであった。
桐栖はこのようなやりとりを昔見たことがあったので、ウォレンという人には悪かったが、懐かしく思っていた。
対してナターシャは、ウォレン同様なにが起こったのか理解できず、桐栖に「この人おかしい。絶対」と小声で抗議している。
その抗議を、頭を撫でることでいなし、桐栖はサイモンに挨拶をした。
「サイモンさん、お久しぶりです」
その挨拶にと共に、ナターシャの紹介も済ませる。
ナターシャも桐栖の隣で小さく一礼する。
だが、サイモンは桐栖の礼儀正しい挨拶に照れたのか「けっ、商人らしくなりおってからに」と悪態を吐きながら、桐栖達を綺麗になった事務室へと入るように促す。
サイモンが先に部屋へと入り、角にあるコーヒーメーカーの元まで辿り着くと「コーヒーか水しかないが、飲みもんはなにがええ?」と言って、飲み物の用意を始める。
桐栖は中に入り、パイプ椅子を広げながら座り「コーヒーを二つ」と返答し、その直後にナターシャが「一つはミルクと砂糖たくさん」と補足する。
ナターシャの注文に「かーっかっかっ! とろーりと甘くしてやるわっ!」と笑いながら応え、コーヒーメーカーの起動スイッチを、かけ声を付けながら力を入れて押す。
「はああ!」
するとすぐに蒸気が上がり始め、コーヒーの滴がポットへと落ち始める。
「サイモンさん。いつもそんなに生力を込めて、コーヒー作ってるんですか?」
桐栖は暗に「それだと壊れちゃいますよ」と忠告する。
「これが一番早いでの」
サイモンはその後「今のやつは、今年入って二十台目だ」と報告してくる。
そんな会話がされている間に、故障を構わず扱き使われているコーヒーメーカーは、自身の未来を暗示しているように暗い色のコーヒーを濾過し終わっていた。
サイモンはサーバーからコーヒーが入ったポットを取り出し、三つのコップに注ぎ始める。全て桐栖が先ほど洗ったものだ。
そして彼は、ナターシャ用にミルクと砂糖を大量に投下してから、彼らの前に置く。それと同時に桐栖の顔が無表情な『商人の顔』になった。
その桐栖の表情を見て察したサイモンは、桐栖に用件を言わせる。
「そんで、何用じゃ?」
桐栖は無表情のまま応えた。
「単刀直入に言います。ハドン商会のマーカーについてお訊きしたいことがあってきました」
ハドン商会、という言葉にサイモンの顔が赤くなっていく。
「ハドン商会ぃぃぃぃぃぃ!?」
しかし桐栖は『商人の顔』を崩さない。
「はい。ハドン商会です」
その声に、先ほどまであった親しみは一切なくなっている。情を捨てた『商人の声』だ。
そんな桐栖の声と顔を見て、サイモンは溜め息を吐きながら落ち着きを取り戻し始める。
「……はぁ。ったく、これだから商人ってやつぁ」
そう悪態を吐いた頃には、彼も冷静になったようで「ほら、そのマーカー見してみぃや」と手を出して催促してきた。
「はい」
その手にナターシャが、フィルから聞いた特徴を描いたマーカーの図を見せる。
「これはお前ぇさんが描いたんか?」
若干驚いた風に、サイモンは訊ねる。
「うん」
「上手ぇな。小さかった頃の桐栖とは大違ぇじゃ」
かっかっかっ、と笑いながらサイモンがそう言うと、桐栖は商人の顔を解いて反論する。
「昔の話ですよ」
「クリスは今も、絵は下手」
それを聞いたサイモンは大笑いを始める。
「ひゃーはっはっはっ! お前ぇさん、今も相変わらず下手くそなんか! ひゃっはっはっ!」
「今はある程度上達してますって。……設計図くらいなら普通に描けます」
「でも、何故かクリス以外の人は読めない設計図ができあがる」
「『設計図くらい』とか言っとるくせに、それもまともに描けんとわな!」
「ぼくが設計してぼくが組み立てるから良いんですよっ!」
「目的は商会の製品開発なのに?」
「ったく、お前ぇさんときたら、ちったぁ立派な商人になったかと思ったら、全然だな!」
「まだ商人になって日が浅いんですから、そこは勘弁して下さい」
桐栖は泣きそうな声でそう言うが、サイモンはそれに対して率直な感想を述べる。
「お前ぇら商人の慣習にある前菜(ウォーミング)・主菜(メイン)・会計(ディール)やらの前菜だったか? そこはきちんと守れてたんじゃがなぁ」
「前菜は『飲み物が前に置かれるまで商談に関する話はしない』ってだけじゃないですか。それくらいなら十二年前のぼくでもできましたよ」
「前菜ができても、主菜でこんな簡単に素の自分を出しているようじゃ、まだまだじゃのぅ」
否定しきれず、桐栖は黙ってしまう。
今までの商談で問題はなかったのだが、仲が良い相手でも商人らしくできないのは今後を考えると、やはり問題があるだろう。
そこを直さなくては。そう桐栖は思い始めるが、サイモンは「じゃが、俺ぁ今のお前ぇさんでいてくれるのが望ましいがの」と呟いた。
「……サイモンさん?」
その声に彼ははっと気付いて「な、なんでもない!」と取り消しているのにも関わらず、桐栖は返答することにした。
「サイモンさんの前では、これからも『駆け出しの武器商人桐栖』でお会いさせて頂きます。『駆け出し』が商人らしからぬことをしても仕方がないですしね」
その言葉にサイモンの目は少しだけ潤むが、すぐに彼は目を拭い、なかったことにする。
そしてすぐに、手に持っている紙へと目を落とす。
「……これはデボン支部支部長のマーカーじゃな」
そう言って彼は、マーカーのどの部分がそれを指しているか桐栖達に教えてくれる。
「そして、商船の取引先はノルマンディ支部だけじゃの」
「マーカーで取引先まで分かるんですか!?」
「ああ、ハドン商会の場合は規模がでかいからのぅ。同じ商会内で商品を届け合う場合は、その支部も明記させる決まりになっているんじゃ」
「それじゃあ、決まり? ハドン商会が犯人?」
「犯人? なんじゃ、お前ぇらハドン商会となんかトラブルでも起こしたんか?」
「いえ、トラブルを起こされた、と言うのが正確ですね。……ちなみに、そのマーカーの船がテムズ川に来るという可能性はありますか?」
「デボン支部の者がノルマンディ支部へ物資を送らず、ロンドンの商人と取引……ないな。断言できる」
「それはどうしてですか?」
「さっきも言ったとおり、ハドン商会は規模がでかい。じゃから、イングランド国内の商売については地域ごとの担当がすでに決められている。デボン支部ならデボン州内のみ、とかな」
「それでも、たとえばロンドン支部の人がノルマンディ支部へと物資を送りたかった時とか」
「馬鹿言え。ロンドンとデボンはドーヴァー海峡の東と西。ついでに寄る距離じゃないわ」
サイモンの言うことはもっともだと桐栖も思う。
ノルマンディはデボンからそのまま南下すれば到着できるフランスの北西部にある土地だ。ロンドンを経由するのは、どう考えても不自然だろう。
「ふん。ちったぁ苦労してるみてぇじゃねぇか」
「ええ、商品が全部奪われてしまいましてね」
「ハドン商会にか?」
「かなりの高確率で」
「……ん? ちょっと待て。その強奪に使われたんが、このマーカーの船なんか?」
「ええ、そうですけど」
桐栖がそう返答すると、サイモンは急に黙り込み、何かを考え始める。
彼が何かを考えているか桐栖には分からないが、おそらく商品強奪に関して引っかかるところがあったのだろう。
彼はその人生のほとんどをハドン商会ですごしていた人だ。永くいれば、組織内の情報は少なからず入ってくる。
その情報にすがりたい焦りを押さえて、サイモンが再度口を開くのを待つ。
今の桐栖としては、どんな情報でも欲しいところなのだ。
このまま支部長に商品強奪の責を問えば間違えなく『証拠は?』と一蹴されてしまうだろうし、商船の目撃情報を突き付けたとしても、それらしい理由で逃れられてしまう。
「思い出したぞ!」
しばらく唸っていたサイモンが唐突にそう言うので、桐栖は期待せざるを得ない。
「何か分かりました?」
「ああ、確かデボン支部長はコシックってやつがやってんだが、この男が曲者でな」
「コシック……印度(インド)系の方ですか?」
「いや、まんまインド人じゃ。そいで、そのコシックってやつぁ、妙に羽振りの良いやつでな、昔から商会内で副業(バイト)をしてるんじゃないかと噂されとった」
「バイトと言いますと……副職ですか?」
「そうじゃ。んで、ここからがその副業(バイト)の内容なんじゃが……俺の聞いた話だと、そいつはよく他商会の商品をどこかから仕入れては、アジアのどっかへと送っているらしい」
桐栖はそれを聞いて「あたり(ビンゴ)!」と頭の中で叫んだ。
それであれば、過去の他商会商品に関する詳細と『亜細亜のどこか』へと輸出されている形跡を調べれば、証拠は十分だ。
桐栖はやっと先が見えてきたことに喜びを感じるが、すぐに冷静になるように自分を律する。
まだ証拠は揃っていない。その糸口が見えただけだ。
桐栖はそう自分に言い聞かせて、サイモンに訊ねる。
「『亜細亜のどこか』というのは、印度王国ですか?」
「そう言や、インド王国もアジアだったな。んで、インド人のコシックがアジアに流してんなら……確かに、そう言われりゃしっくりくるわな」
ただ俺ぁ詳しいことはわかんねぇんだすまねぇな、と付け足してサイモンは謝るが、桐栖は突破口を見つけてくれた彼に「いえいえ、十分有益な情報でした。ありがとうございます」と礼を言う。
「デボン支部長のコシックで決まり?」
今までの会話を聞いていただけのナターシャが確認してくる。
「今は状況証拠だけだけどね」
「随分と慎重だのぅ。タツミならこの情報だけで乗り込んどるじゃろうて」
「そう言われても、父さんとぼくは経験も商人としての才能も、その他諸々が違いすぎて比べるだけ無意味ですよ」
「まあ、ありゃ確かに誰でもなれるようなものじゃねぇかんな」
サイモンはおそらく、ハドン商会を抜け出す際に桐栖の父親がやったことを思い出しているのだろう。
その際に桐栖は六歳になったばかりと言うこともあり、同行していない。
けれど彼は、サイモン達が到着する予定だった宿で夜遅くまで起きて待っていた。
予定では約二十名ほどの人達が合流するはずだったのに、到着したのはサイモンと桐栖の父親のみ。桐栖は子供心ながらに、そのことについて訊ねてはいけないと思った。
だから桐栖はサイモン達がどんな経緯で数を減らしていったのか、何故魔術技量も判断力・行動力も素晴らしい父が付いていながら、そんなことになったのか、今も知らない。
そして桐栖は遠くを見つめるようなサイモンの目を見て、再度確信する。
『きっとぼくがあの夜に起こったことを知る日は来ないだろうな』と。
だから、と言うわけではないが、桐栖はできる限り明るい声でサイモンを現実に引き戻す。
「それでは、ぼく達はまだ調査がありますので、これで失礼致します」
桐栖の声で過去からの帰還を果たしたサイモンは「お、おおう! 頑張れよ」と言って、席を立つ桐栖達の後ろ姿を見つめる。
その視線に込められた感情を察したのか、桐栖は戸口で停まり、振り返る。
「『大学生の桐栖』がサイモンさんに会いたがっているんですけど、『彼』に何か伝えることはありますか?」
桐栖の回りくどい言い回しに、サイモンは目を細めて応える。
「いつでも来い。不味いコーヒーと甘ったるいコーヒーくらいなら馳走できるぞ」
「ありがと」
サイモンの発言にナターシャは礼を言う。そして桐栖は「そう伝えておきます」と言いながら顔を綻ばせていた。
その顔は、サイモンが十二年前に可愛がっていた少年の笑顔とよく似ていた。
同日数分後(桐栖達が駅から出て行った後)――パディントン駅周辺――
パディントン駅から発車する路線が、全てその下を通る鉄橋が駅から近い位置にあった。
その鉄橋がある通り、ビショップズ・ブリッジ・ロードに車を止めたイリアは、鉄橋の上から広い駅の構内を双眼鏡に見立てた両手の間から眺めている。
桐栖達がドック・ストリートから逃げ出した際、ナターシャが伸した二人を回収しなくてはならなかった為、索敵範囲から出られてしまったが、個体認識魔術によりイリアはもうすでに桐栖とナターシャの生力反応を記憶していた。
索敵魔術を戦艦などが備えているレーダーとするなら、個体認識魔術は作戦行動前に伝えられる識別反応のようなもの。
しかし人間の場合、当然ながら敵個体の反応は自分で分析しなければならない。
故にその分析や索敵には、その範囲も関係するが、多くの場合で膨大な生力が必要となる。
しかし、桐栖達の生力反応を認識する為に彼女は、ワッピング・ハイ・ストリートでもう既にその膨大な生力を必要とする個体認識魔術を使用している。もう一度使う必要はない。
イリアはここに来るまで、何回か索敵魔術を使っていた。
それは単純に桐栖達を見失ったからとも言えるが、実際は桐栖とナターシャ(魔術人形)を追跡している際に、ラッセル・スクエア近辺で急に飛び出してきた一般人を撥ねてしまったのが大きなタイム・ロスになった。
彼女は被害者に対して水の魔術で傷の手当てをし、ついでに土の魔術で生成した睡眠薬を飲ませて、すぐに起きないよう処置をして、その事故現場から十分に離れた場所で彼女は病院に匿名で電話をして、救急車を向かわせたのだ。
そんなことをしていたら、完全に桐栖を見失ってしまったのである。
勿論、事故前まで確認していた桐栖の行動から彼が西ロンドンの方へと向かっているのは分かっていた。しかし、ロンドンという町は巨大だ。西側を虱潰しに探している時間はなく、イリアは賭に出ることにした。
その賭とは、ラッセル・スクエアから西側のロンドンで人が集中しやすい地域を重点的に巡り、それらの地域の中心点で索敵魔術を使用することだ。
まずはトッテナム・コート・ロード。
次はピカデリー・サーカス。
その次はオックスフォード・サーカス。
イリアは何度も索敵魔術を使用した。
いるかどうかを確認する為に、一瞬だけとは言え、使用した生力量はそろそろ限界に近い。
だが、イリアはそんな様子を毛ほども見せず、元気だ。
「キリリンとナタナタはどっこだ~!」
今は手の双眼鏡では拡大率が足りなかったらしく、両手を望遠鏡に見立てて彼女は覗いているが、鉄橋の位置から桐栖達がいた仮設施設まで約五百メートルくらいはある。
更にその間には鉄柱やらプラットホームの番号が記された看板やらがあり、仮設事務所が見えるかすら怪しい。だが、彼女は遠視魔術を使う気はないようだ。
「ん~っと、無理っぽっぽー?」
そんなことを言いながら、イリアは本日何度目になるか分からないくらい使用した索敵魔術を発動させる。
彼女が簡単そうにそれを行っていることから、彼女の魔術技量か魔級、もしくはその両方が、それなりのものであることが窺える。
勿論、索敵・個体認識という高等魔術が使えるだけで、魔術技量は十代も半ばの少女では到底あり得ないほどだ。それが使えるだけでも、平均的な技量から頭一つ飛び出ている。
「……んっ! 発見け~ん!」
彼女はやっと桐栖達の反応を見つけた。
その言葉にもならない嬉しさを、彼女は体で表現し始める。
「やった~よっと、嬉しっい~よっと~♪」
それは、何故か日本に伝わる盆踊りに近い動きの踊りだった。
しかし喜びを表現するのを即座に止めて、彼女は思考を切り替える。
彼らはパディントン駅から出てきたばかりのようだ。
イリアは顔を歪めて、少しだけ悩む。
「カっレーやっろうには~ツっテを特定しろって~言っわれてっるんだっけどなぁ~」
イリアはパディントン駅構内に『ツテ』がいるのだと理解している。けれどそれを特定するのにはあまり乗り気ではないようだ。
おそらく彼女の性格からして、単純にめんどくさいのであろう。
それを証明するように、すぐに表情がいつもの無垢なものへと戻った。
「ヒットぉぉアぁぁンド! アウェーで行こう!」
戦闘時の戦法を言葉に出して、彼女は車でパディントン駅へと向かった。
「すっいっません~!」
駅の改装工事現場付近まで行って、イリアは大声で自身に注目を集める。
すると先ほども桐栖達を最初に対応したタンクトップ・マッスルがだらしない表情でイリアに近づいてくる。
「何かなー? 迷子かなー?」
まるで赤子を相手するような口調で、タンクトップ・マッスル・ザ・ウォレンはイリアの胸部を眺めながら訊ねる。
「ヘーン! 迷子じゃないっけど、さっきトーヨー人の男の子達が来ったでしょー?」
イリアはタンクトップ・ウォレンの感想をさらりと一言目に言って、質問をした。
対してエロスに忠実なウォレンはイリアの胸と会話を続ける。
「ああ、確かに来てたよー」
「じゃあじゃあじゃあさ、誰とどっんなぁ話しってたかー知ってるぅう?」
「話をしてたのは親方だけど、なんの話をしてたかは分からないなー」
「おっやかったー?」
「うんー。俺たちのオヤジみたいな人で、ここの責任者なんだよー」
「そーなんだー」
「そうだよー」
エロウォレンは「げへへ」と言いながらそう同意したが、彼の視線は未だイリアの胸に釘付けである。
イリアはそんなエロマッスルの視線は気にせず、振り返る。
「あっ! おい、あんた! 今夜一緒に飲まねぇか?」
「むっっっっりー! あったしぃ、十六歳だっしー」
そのイリアの発言により、仲間内からロリコンの称号を与えられたウォレンは、凹みながら現場へと戻っていった。
成人するまで二年もある少女は、そんなロリコンマッスルのことなど気にすることもなく、パディントン駅を後にする。
「……おやかったーかぁ」
イリアは車へ戻る途中、そんなことを呟きながら考えていた。
桐栖達の『ツテ』はパディントン駅改装工事現場の責任者で決定だろう、と。
つまり、その責任者は何故かハドン商会のマーカーに詳しいことになる。
と言うことは……と、そこまで考えて彼女は思考を止める。
「カレーに義理はないないのーないっ! だっしねぇ~」
少女はそう言って、エンジンを吹かして車体を加速させた。
同日夕方五時半頃――ユーストン駅周辺――
『昼下がりの悪夢』発生から三十分後、UCLへと出向いていた店員が戻ってくると、腰が抜けていた店員達は全員無事に救出され、裏口から逃げていた。
けれど、そんな救出劇に気付けないくらい凹んでいたマットと、「大丈夫ですわよ、もうすぐナターシャさんが来ますわ」と自分本位な慰めの言葉を掛けているマリーは、もう数時間ほど、飲食街に取り残されてた。
だがマットが動くだけで悲鳴を上げていた人達も、悲鳴こそ上げるものの、彼が我慢しきれずにトイレに行って席に戻ってきた際には、数人ほど消えていた事にマットは気付いていた。
勿論、彼らが恐怖するマットであれば意図的に数人消すくらいのことはできそうだが、現実のマットはそんな能力を有していないので、これは自ら逃げ出したと判断して良いだろう。
それを理解したマットは、再度悲鳴という恐怖のファンファーレを背中に浴びせられながら、再度トイレに隠ることにした。
マリーは立ち上がるマットに対して「……頻尿ですの?」と訊ねていたが、マットはそれを無視してトイレへと向かう。
この時やっと、彼は店内で腰を抜かして怯えていた店員達がいないことにも気付くが、それでも従業員でもないのに店の裏口を使うのが憚られ、大人しくトイレへと入る。
それから三十分間。
何もすることがない空間での三十分とは、体感時間とかなりのずれが生じるものだ。
マットはその時間が一時間にも二時間にも感じられたが、外へ出てみると包囲網を作っていた約半数の人員が消えていた。
マットは、そのことをマリーに伝え、会計を払い(レジにメモ書きと共に金銭を置いただけ)、人数がより少ない方の人達を更なる恐怖に陥れてから飲食街を後にした。
今現在、飲食街を奈落の底へと誘い、秩序ある恐怖の世界を創り上げたマットと、それを見ていたのに何もしなかったマリーはユーストン駅周辺を歩いていた。
「はー。な、何もあそこまで怯えることはないよね?」
脱力したマットは肩を落としながら、不条理に対して文句を言う。
「まあまあ、そう落ち込まなくても明日になればきっとナターシャさんと会えますわ」
対してマリーは未だ見当違いな励ましを続けている。
「……な、ナターシャと会えなくて凹んでいる訳じゃないんだけど」
「違いますの?」
「ち、違うよ! き、君もさっきのあれを見ただろう?」
「ああ、貴男がどもらず喋っていましたわね。それがどうかしまして?」
「……はー」
マットは溜め息を吐かずにはいられない。
あの騒動で彼女は『マットが普通に喋っていた』という点にしか注目していないのだから。
マットは「君は大物だね」と皮肉を込めて言うのが精一杯だったが、それに対しての返答も「当たり前ですわ! 生まれつきですもの!」とまたもや意味不明なものだった。
しかしそのかなりずれたマリーの価値観にマットは少なからず救われていた。
もし彼女もあの包囲網を組んでいた人達と同じだったら(彼女の服装からしてまずあり得ないだろうが)、マットは今ひとりぼっちだっただろう。
それなのに彼女は今、近くにいて励ましの言葉(見当違いではあるが)さえ掛けてくれる。
そんなマリーに感謝しながら、マットは気を持ち直す。
マリーに心配を掛けないようにと。
「マリーはなんでそこまでナターシャに会たいんだい?」
背筋を伸ばしたマットは、自分はもう気にしていないということを伝える為、話題を変える。
しかしマリーは元から心配していなかったのか、相も変わらず尊大な態度で口を開いた。
「愚問ですわね。『可愛い子と会う』という以上の説明が必要ですの?」
「……ま、マリーって、レズなのかい?」
マリーの発言を素直に解釈したマットはそんなことを訊ねてしまうが、どうやらそれが彼女の逆鱗に触れてしまったようで、彼女は怒り出す。
「失礼なっ! 私はそんな低俗なものではありませんわっ! 可愛い子というものは稀少ですの! 希少価値のあるものを愛でることになんの異常性がありましょうか!」
言っていることは正しそうに聞こえるが、それを人間相手に考えるのはどうかとマットは思う。つまりマリーは宝石や貴金属を好む人のように、可愛い子を好んでいることになるのだ。
人は物ではない、とマットは言いたくないが、それを言う前にマリーの反論が飛んできた。
「勿論、私はナターシャさんを物だなんて思っておりませんわ。そんな人道外れたこと、私が思うわけありませんもの。ただ、本人の意志に反しないレベルで近くや遠くからその対象を愛でて可愛がるくらいのことはしても良いと思いますの」
「……それと同性愛の違いは?」
「恋愛感情はありませんわ」
「じゃあ、男は好きなの?」
「可愛い子に比べれば足下どころか、その土台にすら劣りますわね」
「……それってやっぱり……いや、なんでもない」
とりあえず、マリーは同性愛者じゃない……と本人はそう言っている。これ以上理解のできない理論について思考することを諦めたマットは、そう無理矢理自分を納得させた。
しかしその後も続くナターシャの可愛らしさを宣うマリーを見ていると、どうにも理解できなくなってくる。
その結果として、マットの返答は「へー」をその代表として「ふーん」や「そうだね」などの『適当な相槌戦隊』が活躍することとなった。マリーはマットの奇行に対して何も思わなかったが、マットはマリーの奇病に若干引き始めていた。
マリーの語彙力が、要約すると『ナターシャは可愛い』という内容をどれだけ違う言い方でできるかという挑戦をしてから十分ほどが経った頃。
『適当な相槌戦隊』が全力を尽くして熱心に語るマリーの対応をしているが、マットの視線は常に前を向いていた。
その為、彼は桐栖とナターシャが乗るバスを目撃した。
「ま、マリ――」
「ナターシャさんですわっ!!」
熱心に語っていたかと思いきや、マリーはすぐにナターシャを視認し、十字路を彼らのいる方へと曲がってくるバスを追い始める。
そんなマリーにナターシャ達がバスに乗っていたと知らせようとしていたマットは、少し遅れをとりながらもマリーの後に続く。
そんなマット達の動作は十字路でバスを追跡していた車の中で、退屈そうにしていたイリアの興味を大いに惹いた。
「なになになにっ!? 派っ手な色の人達~……キリリンを追ってるのかなっ!」
そう判断すると、イリアは速度を落として、マット達と併走するように路肩ぎりぎりまで車を寄せて運転する。
「がんばってるぅ~」
近くで見て、イリアは彼らがバスを追っていると確信する。
なにしろマリーは「ナターシャさーん! お待ちになって下さいなー!」と叫んでいるのだから当然だろう。
だが、そんな彼らの頑張りも長くは続かない。
マットとマリーは五分間も走っていないのに、その場に膝をつき、肩で息をし始めたのだ。
「よっわ~」
少しがっかりしたようにイリアはそう言って、ついに車を停車させる。
そして彼女は何も考えずに降車して、歩道にひざまずいているマット達に近づく。
「あっの~?」
マットはイリアの声に顔を上げて「ハアハア……っく、ハア……な、なんですか……?」と至極怪しい(具体的には変質者のような)返答をする。
「あのバっスを追ってるんるんでっすか~?」
その問いにマリーは「ば、バス? ……彼女は、なんの、ことを、言っている……ん、です……の?」と応えていることから、どうやら彼女はナターシャ以外のものは認識していなかったようだ。
となると、彼女の目では微動だにしないナターシャが時速二十キロから四十キロ辺りで移動していたことになるのだが、それをどう脳内で処理していたのだろう、とマットは疑問に思う。
「ちっがうんですか~?」
再度イリアが確認する。
この時初めて、マリーが視線を地面から離した。
「はぁはぁ……っ! 貴女の言う通りですわ! 私達、バスを追っていましたの!」
イリアを見るなり全回復したマリーは、いきなり彼女を全肯定し始める。
その対応だけでマットは、イリアがマリーの『可愛い子』の部類に入ったと確信した。
「そうなんでっすか~。じゃっ、車で送りましょーかマトリョーシカ?」
「ええ! 是非お願い致しますわ!」
なんの利益もないのに、車で送ってくれるという親切な少女に対して、マットは少し警戒心を抱く。だが同時に自動車という高級品を所持しているのであれば、人攫いや強盗の類ではないともマットには思えた。
その考えと、イリアが外見上、年下の少女であることから、マットはマリーを制止しない。
「早くして下さいなっ! 私のナターシャさんが行ってしまいますわっ!」
マットは『決して疲れているところに、こうやってマリーに急かされたから、無計画に見ず知らずの人の車に乗るわけではない』と自分の中で言い訳をしながら「ハアハア……ま、待って、よ」と言って、情けない足取りでイリアに車に乗り込んだのだった。
同日夕方六時頃――カムデン駅近辺――
バスでカムデン駅まで戻ってきた桐栖達。
しかし彼らの目的は帰宅ではない。
彼らは今、自宅へと向かう方向とは逆へとカムデン・ハイ・ストリートを歩いている。
「どこに行くの?」
当然の疑問をナターシャはぶつける。
「フリマにある情報屋の支店だよ」
「フリマにあるの?」
「他にもイングランド全国に複数ある」
「クリスが契約してる情報屋の支店が?」
「ぼくと言うか、イングランド支部が、ね」
桐栖は補足するが、ナターシャは更なる疑問が浮かんでくる。
彼女は桐栖達がイングランド支部を設立させるにあたって、情報屋と契約していると聞いてはいるが、その規模はイングランド国内で一番小さい情報屋だと聞いていた。
だが、桐栖はイングランド全土に複数の活動拠点があると言う。
「その情報屋って、他の情報屋とは違って少人数で活動してるって聞いてたけど?」
「少人数どころか、一人しかいないよ」
更にナターシャの中で疑問が深まる。
『情報屋』というのは基本的に、各々が収集した情報を共有する組織の名称だ。
そしてその情報は商人達に、商品を売りつける営業活動の為に使われる。
昨日ショーンがマンチェスターまで行っていたのも、桐栖が契約した情報屋の情報があったからだ。こういう商品を欲しがっている者がいると。
「うちの商会って資金難なの?」
ナターシャの疑問に桐栖は笑いながら返答する。
「ははは、そうだよね。そう思っちゃうよね」
「違うの?」
「違うよ。と言うより、今契約してる情報屋に払う額があれば、小規模の情報屋なら二十社くらいと契約できる」
「二十社っ!?」
情報は量より質だが、それでも二十社ともなれば合計して得られる質はそれなりのものになるだろう。だが、それをせず、桐栖は総勢一名の情報屋と契約をした。
「不思議そうだね」
「うん。一人の情報屋なんて価値ないと思う」
「それがね、契約してる情報屋は『イングランド国内にある、全ての情報を持っている』と豪語するくらい凄腕なんだ」
「それは嘘じゃないの?」
「嘘じゃない。だから契約したんだ」
「でも、一人でそこまでの情報を収集できるはずがない」
「そうかもね。……でもその情報屋は、少なくともそう見えるようにすることくらいは一人でできたんだよ」
そう言って桐栖は、情報屋との契約前に何があったかを説明し始める。
「何度も依頼して、その情報の真偽を調べたんだけど、その情報屋の言っていることは全て真実だったんだ。勿論、その中に一人の情報屋が到底分かり得ないようなものも入っていた。けれど、情報屋を試したぼく達はそう判断せざるを得なかったんだ」
彼女が全てを知っているってね、と桐栖が続け、彼らはフリマの入り口に到着した。
平日のフリーマーケットは閑散としている。
しかし更地というわけではなく、天蓋やそれを支える柱など、出店を象るテント擬きが存在していた。
乱雑に、人が通る通路も考えられずに放置されたテントの合間を、桐栖達は進んでいく。
そしてカムデン・ハイ・ストリートから敷地の反対側に位置する場所に、一つだけ蝋燭の明かりが漏れているテントがあった。
それを見て、ナターシャは驚かざるを得ない。
一人しかいない情報屋が、何故偶然にも今ここにいるのか、と。
桐栖の言っていた通り、他にも支店があるならば、ここにいる可能性は少ないはずだ。
そこで彼女の頭の中に桐栖の言葉が過ぎる。
『イングランド国内にある、全ての情報を持っている』
確かに、全ての情報を持っているのであればこれくらいのことは容易いだろう。
だがナターシャは、そんな魔術の域を逸脱したことができる人間がいるなんて信じられない。
きっと桐栖がカムデンに住んでいるから、常にここにいるのだろう。
そう納得し、ナターシャは桐栖よりも先に、警戒しながらテントの中へと入る。
中にはハットとサングラスを掛けた、スーツ姿の女性がいた。
「貴女が情報屋?」
「はい。私が情報屋アーサーです。以後お見知りおきを」
アーサーという偽名を堂々と言う情報屋は、その後に「ナターシャ・グレイズさん」と付け足して、ナターシャを更に警戒させる。
「警戒しなくても大丈夫だよ。アーサーさんはうちの商会としか契約はしてないんだから」
テント内のピリピリとした緊張感を感じ取った桐栖は、中へと入りながらそう伝える。
「でも、今まで取引があって懇意にしている商会はあるはず」
「ありますよ。この国内にある大小含めて約八三のうち、七九商会がそれに該当します」
アーサーの発言により、ナターシャは「ほら、信用できないでしょ」というような顔を桐栖に向ける。けれど桐栖はそれをすでに知っていたようで、動じない。
「その七九には入りたくないものですね」
「桐栖様の商会は、きっと大丈夫でしょう」
「ありがとうございます」
ナターシャの意に反して、そんな和やかな会話が繰り広げられる。
「その七九の商会とは何をしているの?」
納得のいかないナターシャは問い質す。
「情報を開示しない代わりに金銭を頂いております」
「っ!?」
平然と強請っていることを暴露するアーサーにナターシャは言葉を失う。
「だから、言っただろ。『うちの商会としか契約はしていない』って」
桐栖がそう補足することによって、七九という数字がアーサーという情報屋の実力を示しているとナターシャは理解させられる。
実際に七九もなかったとしても、それなりの数の商会を屈服させているのは事実だろう、とナターシャは思う。
でなければアーサーがどこの商会とも契約していなかったのはおかしい。
「ナターシャ。七九という数字に間違えはないよ。契約前に調べてある」
「でも、それなら残りの四つの商会が契約を持ちかけてこないのはおかしい」
「それは単純に、契約料の問題だよ。それを払える商会は、七九に入ってるんだ」
「でもハドン商会みたいに大きな商会なら、更に契約料を払うことだってできたはず!」
「それにあまり価値はありませんよ。私はイングランド国内の情報は知っていても、国外になると門外漢も良いところです。世界的な商会が、イングランド国内にだけ目を向けているわけには行かないのですよ」
「ハドン商会は世界各地で商売をしているからね、情報屋も同じく世界各地で活動している組織が望ましいんだよ」
続けて桐栖は「情報は確かに量より質だけど、それよりも鮮度が重要なんだ」と補足する。
しかしナターシャは納得がいかないのか、それとも今回の事件により桐栖の商会が潰されてしまうかも知れないという恐怖からなのか、反論する。
「……でも、その人が裏切らない可能性は――」
「今回の商品強奪の件に関してでしたら、ありませんよ」
「どうしてっ!?」
ナターシャはどうして今回の事件を知っているのかを訊いたのだが、アーサーは裏切らない理由を述べる。
「突発的な事件で裏切ってしまえば、今後の信頼関係は崩れます。故に私は桐栖様達のような商人と同様、未来の利益と今の利益を天秤に掛け、未来の利益の方が得だと判断するからです」
その言葉を聞いて、ようやくナターシャは理解を示す。
アーサーの言っていることは至極もっともだからだ。
定期的に支払われる膨大な契約料をふいにしてまで、目先の大金に飛びついては今後も情報屋としてやっていくことはできないだろう。
情報屋も商人も、信用が第一にして絶対の商品なのだから。
「もう大丈夫かな?」
「……うん。ごめんなさい」
「本人もこう言っているんで、許してやって下さい」
「私は別に気にしておりませんよ。これも彼女の忠誠心の表れでしょう」
アーサーはナターシャのことを褒める。
それによりナターシャは照れ始めるが、対照的に桐栖は真面目な顔つきになり、一歩乗り出すと、口を開いた。
「それでは、本題に入りますけど」
「それに関してはある程度纏めておきました」
その言葉と共に、アーサーの横に置いてあった木製のアタッシュケースが開かれ、中から紙の束が姿を見せる。
「本件に関わる情報のほぼ全てです」
まだ足りない部分はありますが、殆どのところはこれで理解できます、と彼女は続けるので、ナターシャは圧倒されてしまう。
約一千枚くらいある紙の束には、びっしりと文字の羅列が詰まっていた。
この情報量があるなら、桐栖自身が調査をせずに、すぐにでもここに来るべきだったのではないか、とナターシャは思ってしまう。
「一日無駄にした」
しかしそう口にしたナターシャを否定したのは意外にも、アーサーだった。
「無駄ではありません。商人は情報を武器にして戦う人種です。けれどこの情報全てが真実かどうか、桐栖様達は知りません。そんなあやふやな武器に身を預けるのは果敢ではなく無謀。いや、蒙昧とすら言えるでしょう」
「だからぼく達は情報屋から情報を得ても、それを調査する義務があるんだ……まあ、ぼくの場合は先に情報を得ると先入観が強くなっちゃうから、事前に調査して、情報を受け取ってるんだけどね」
「老練された商人もそうしております。本来商人とはそうあるべきなのでしょう」
「そう言って頂けると有り難いです。……まあ、そういうことなんだ。勿論アーサーさんは信用できるから、ナターシャも何かに困ったら、何でも訊きに来ればいいと思うよ」
桐栖はそう言うが、ナターシャは首を横に振る。
「ううん。私もクリスみたいに自分で考える。でないと何もできなくなるから」
その言葉に桐栖は驚く。
「ナターシャ、君は――」
しかしその次の言葉は、少し焦っているようなアーサーの声によって遮られた。
「桐栖様、外にご友人達がおいでですよ」
情報としては有益とは言えないが、彼女の言葉通り桐栖達はテントの入り口を見る。
確かに扉の役割をしている布が少し揺れていた。
そして桐栖が振り返った時には、アーサーはもうそこに座っていなかった。
テントの裏から出たアーサーは焦るように、路地を走り始める。
だが、すぐにその焦りの元凶と思われる人影が姿を現した。
「こっんばんわ~……あっれ? こっんにちわ?」
確かに夕暮れ時と言うこともあり、その判断は難しいところだ。
しかしそんな事も考えられないくらい、アーサーは狼狽していた。
その理由は、イリアがアーサーの背後でその言葉を吐いたからだ。
情報屋という人種は、その保持している情報の為、身を狙われることが多々ある。
それも、七九もの商会を強請っているアーサーであれば、相当な危険が周囲を蠢いていることだろう。
それ故に、アーサーだけではなく、多くの情報屋は特に背後へと気を配る。
その情報屋の背後を、イリアは容易くとったのである。
「あっれあれ~! どっうかしちゃった~?」
イリアはアーサーの動揺を見抜いたのか、笑顔でそんなことを訊ねる。
対してアーサーは、心を落ち着けて、口を開く。
「イリア・ヤンシーナですね。どうしました?」
「あったしの名前知ってるんるんだ~!」
イリアは驚くこともせず「すっごいすご~い!」と繰り返す。
けれど、そんな感想を呟き終わると、彼女は纏う雰囲気と口調を変えて再度口を開く。
「今、桐栖君に渡した情報ってさ。どういう内容?」
「っ!?」
十六歳の少女に気圧されている自分を自覚しながら、アーサーは心の中で「冷静に。冷静に」と身体中に命令する。
「も、勿論、今回の商品強奪事件に関する全容です」
「でもさぁ、それってハドン商会と結んでる『約束』と違うよね?」
イリアは「強請(ゆすり)屋さん」と皮肉を続ける。
確かに彼女は代金を得る代わりに、その商会が抱えている不祥事に対して口外しないという『約束』をしている。
しかしそれは今回の場合は当て嵌まらない。それを説明しようとする頃には、アーサーはいつもの自分を取り戻していた。
「ハドン商会との『約束』は『イングランドの為に必要な取引における問題行為』です。本件はそれに該当しません」
「へー。ハドン商会との『約束』ってそんな内容だったんだ。つくづくお国の為にがんばる商会だねぇ、ハドン商会ってさ」
自らもその一員のなのに、イリアはそんなことを呟くと、笑顔に戻って訊ねる
「えーっと。つっまり今回の事っ件はぁ、コシックのカっレーやろーが、自っ分の為に独断せんこーでやった問題行為だっから、ばらしてもおっけっけーってこと?」
「……そうなります」
アーサーは、突然元の口調に戻ったイリアに一瞬付いていてけなくなる。
「でっもさー、それってぇ、イングランド軍の少将さんにもふつごーなんだよっ! それって『イングランドの為~うんちゃらかんちゃら』に該当しっないの?」
「しません。スコット少将はハドン商会の上層部にも問題視されている人物です」
「そっかー。豚将校もクズだからぁ、問題ナッシング! って感じなんだ~」
そのイリアの問いにはアーサーも、どう返答して良いか少しだけ迷う。
確かにスコットのことを好意的には思っていないアーサーだが、『豚将校』やら『クズ』とまで言うつもりはないのだ。
第一、彼女はスコットに対してそんなことを言うほど個人的な感情は持ち合わせてない。
「問題はありません」
とりあえず、問題がないという部分だけ強調するつもりで、彼女はそう言って「もう良いですか?」とこの場から去りたい旨を伝える。
しかしイリアの返答は、またもやアーサーの想像を斜め上へと飛んでいった。
「キリリン達のジョーホー頂戴っ!」
「無理です」
「なんでっなんでっ?」
「貴女、お金持ってなさそうですから」
「しっつれーなっ!」
「持ってるんですか?」
「……キリリンだっけので良いからぁ、安っくして、おいくらスコットランドポンド?」
イリアは自主的に情報を制限してから、相場を訊ねる。
それにアーサーは指を五本挙げることで応えた。
「五シリング?」
「500ポンドです」
「家族五人が暮らすにはちょと狭いけど、四人なら問題なく暮らせるお家が買えちゃうよっ!」
何故かナレーション口調で、イリアはそう言って驚く。
同時に、イリアが具体的な貨幣価値を知っていたことにアーサーも驚く。
「あっ! 今あったしが、バっカだと思ってたって顔しったぁなぁ~!」
「ええ、家の販売価格まで知っているとは思いませんでした」
「バっカじゃないぞぉ~。ただ、ふっつーにお喋るーと怖々って言われちゃうんだもんっ!」
その説明に、アーサーは先ほど彼女から放たれた異様な雰囲気を思い出し、納得する。
「そうですか。それでは――」
「ちょっとまってぇぇい!」
「まだ何か?」
「払えっるーかも知れないじゃんっ!」
「払えるんですか、500ポンド」
アーサーの問いに、イリアは財布をのぞき込む。
勿論、500ポンドという大金がイリアの小さな財布に入りきるわけがないので、アーサーは「それでは」と言ってその場を去る。
「次っ会うまでにっは大金大枚用意してやるんだっからなぁー!」
背後にその声を聞きながら、アーサーは彼女のことを桐栖に渡した情報に入れ忘れていたことに気付いた。
その頃、テントの外では桐栖とマット達の間でナターシャが構えて、彼らを牽制していた。
「え、えっと、なんでナターシャは僕達を警戒しているの?」
「真剣な顔をしたナターシャさん。……可愛いですわぁ」
「さっき情報屋と話してたから、その内容を聞かれたか心配してるんだと思います」
「そ、そんな! な、なにもきいてないよ! ね、ねっ、マリー」
「ナターシャさんの声ならどこにいても聞こえる自信がありますわっ!」
「い、いや、その自信は今いらないから捨ててよ」
そんなやりとりを見て、桐栖はナターシャの頭に手を乗せて「大丈夫だよ」と言う。
ナターシャは何か言いたそうに桐栖を見るが、すぐに「分かった」と言って構えを解く。
それと同時に、攻撃をされる危険性を回避したマリーは即座にナターシャに抱きついた。
どうやら構えている間は我慢していたようだ。とマットは思う。
「仲の良さそうな二人は放っておいて……マット達はどうやってここまで来たんですか?」
ナターシャが「仲良くなんてない」と否定し「相思相愛ですわ」とマリーが言っているのを無視して、桐栖はマットと話を続ける。
「な、なんか親切な女の子にここまで送ってもらったんだ」
マットはそう言って、ここまで来た経緯を説明する。
「……はあ、親切な人がいるもんですね」
そう言いつつも、桐栖はその人物の特徴と、その子が運転していたという車の特徴を頭の中で反芻していた。
「な、名前は聞かなかったけどね」
「はっ!! そうですわっ! 名前を聞くのを忘れてしまいましたわっ!」
私はなんてことを、などと繰り返しているマリーは事故で誰かを殺害してしまったかのように凹んでいる。
「ま、マリーは他のことを重点的に聞いていたからね」
好きな食べ物だとか、好きな色だとか、とマットは車内での会話を思い出しながら桐栖に伝える。しかしそれらの情報は、桐栖にとってあまり重要なものではない。
好きな食べ物や色で個人は特定できないからだ。
特定したとしても、と桐栖は考える。
その人物が単に、真性の親切な人であれば良いのだが、もし違ったらマット達が危険だ。
もしかしたらこの後、消される可能性も考慮できる。なにしろ相手は自分達をドック・ストリートで襲ってきたのだから。
そう思うと桐栖は不安になり、二人に提案してしまっていた。
「それじゃあ、もうそろそろ夕食に時間ですし、家に来ますか?」
「え、えっ? い、良いのかい?」
「ナターシャさんは付いてきますのっ!?」
「私はおまけじゃない。と言うより、私の家でもある」
「勿論ですわっ! 本命のメインですものっ!」
「……ほ、本当に良いのかい?」
「えっと……勿論、です……よ? ……ま、まあ、それに家はここから近いので、二人が自宅に帰るより早く食べられると思いますし」
少し迷いながらも言った桐栖の憶測は、大きく外れることになる。
同日夜九時頃――カムデン・タウン、桐栖達の家――
夕食時を軽く三時間ほどオーバーして、やっと準備が終わり、二階のダイニングルームの机に食事が並べられた。
その食事のテーマは混沌なのだろうか、和洋中の料理が所狭しと並べられている。
当然、その責任はこれらの品を調理した桐栖にあると言えるだろう。
しかし今回は、その責任をシェフは放棄していた。投棄した、とも表現できるかも知れない。
何故なら、その料理長兼パシリにも似た役職に付けられていた桐栖は、今の今まで馬車馬のようにマット達が挙げ連ねる品目の料理を作らされていたのだ。
理由その一。桐栖は元々、マット達が来るなら少し豪勢な夕食にしようと考え、いつもより時間を掛けて料理をしていた。
理由その二。その一が原因で、マット達は手持ちぶさたになり、キッチンへと押し寄せたが、彼らに桐栖は手伝いをさせなかった(厳密にはさせようとしたが、マリーが思いのほか料理が下手だったので、被害を出す前に止めた)。
理由その三。暇になったマリーが、もうすでにメニューが決まっているディナーのメニューを考案すると言い始めた。そしてマリーが破損させた食器や食材の損害を片付ける後始末をしていた桐栖は、その場にいなかった。
結果。ナターシャを含めた三人は後半から「わ、わらび餅!」「ニョッキ!」「シェフの気まぐれで作られたもの凄く美味しい一品ですわ!」などと自分が知っている料理をいかに多く言えるかを競い始めたのだ。
当然、桐栖は抵抗した。具体的には「黙って下さいお願いします!」と土下座をしたのだが、悲しいことのイングランドに土下座の風習はなく、理解されなかった。
その土下座に対して彼らが得た認識は「なんか面白いポーズしてるから、これは渾身のギャグだろう」という正反対のもので、彼らは止まらなかったのだ。
これにより、桐栖の家の食材は全て加工され、途中マリーが食材の買い出しに行った(桐栖は止めたが「これくらいなんてことないですわっ!」と一蹴されてしまった)為、約十日間分くらいの料理が机上に並ぶこととなった。
その多くの品々を眺めながら、マット達は「圧巻」「凄いですわっ!」「た、食べきれるかな?」などと各々が好き勝手な感想を言っている。
「……メニューを考案した人達は、責任を持って全て残さず食べるように」
マット達の和気藹々とした雰囲気に、桐栖はその一言で水を差す。
「ひ、ひどいやっ!」
「横暴ですわっ!」
「無理」
しかしそんな批難をされても、桐栖の心は変わらない。むしろ、営業(デス)スマイルをその顔に貼り付けて、客観的には嬉々として三人に死刑宣告を告げる。
「全員、最低でも自分が言った品は食べきるように」
判決。暴食の刑。
飢餓に苦しむ人達が聞いたら、泣いて喜びそうな刑である。しかし昼食もしっかりと食べた三人にとっては、それは拷問以外の何物でもない。
そのぴくりとも動かない桐栖の笑顔に恐怖した三人は、何を言ってもダメだと言うことを悟り「は、はい」「し、仕方ありませんわね」「クリスのバカ」と判決を受け入れた。
しかしその彼らの許容も、再度テーブルの上を見るだけで揺らいでしまう。
「な、何人前くらいかな?」
「さあ、ざっと三十人くらいにはなるんじゃありませんの?」
「じゃあ、一人十人前」
などと、桐栖のことを除外した計算を始めている。
「……凄い量ですね」
いつの間にか帰ってきたショーンが戸口に立ち、そんな感想を述べる。
それに対して、桐栖は「お帰りなさい、ショーンさん」と言い、ナターシャは「ショーンは二十人前ね。……太ってしまえ」と言い、マットとマリーは「誰?」と疑問符を浮かべている。
桐栖はとりあえず、クエスチョン・パステルズにショーンを紹介し、皆に席に着くよう促すが、ショーンが「マットさんとマリーさんですよね」と二人に確認した為、食事の開始時間がもう少し延びることになった。
「え、えっ? ぼ、僕たちのこと知ってるんですか?」
「ええ、昨日桐栖様にご友人ができたと聞きました」
「……昨日? いつ?」
「ナターシャが眠った後だよ」
桐栖のその説明に、ナターシャはどこか嫌な気持ちになる。
桐栖やショーンは、自分が寝た後も仕事をしていた。
いつもこうだ。自分は桐栖の役にも立てず、ショーンばかりが役に立つ。
ナターシャはそんな考え方をしてしまう。
そこから思いつく思考は泥沼だ。どんどんと連鎖的に悪い方へ悪い方へと考えてしまう。
けれど、最終的に行き着くところはいつも同じ。
自分は必要のない人間なのだ、という考えである。
そう考えてしまうとナターシャは、皆が席に着いているのに、その場から動けなくなる。
「私の部屋に美味しいワインがあります。ちょっととってきますね」
そんなことを言うショーンの声がナターシャの耳に届く。
また桐栖の役に立っている。
そう思うと同時に、隣に来たショーンが「ナターシャも手伝って下さい」と言って、手を引かれた。そのまま何が起こっているのか分からず、ショーンと共に一階にあるショーンの部屋まで来てしまう。
「私、ワインの味分からない」
ナターシャはやっとのこと言葉を絞り出して、ショーンの手を払う。
「偶然ですね。私も分かりません」
対してショーンは平然とそんなことを言っている。
分からない。そんな言葉がナターシャの頭を埋め尽くし始める。
何故彼女はここに私を連れてきた。
何故彼女は優しそうな瞳を私に向けているのだ。
何故彼女は。何故何故何故。
「どうしたんですか、いつもの貴女らしくありませんよ」
そんな声が彼女の耳に届く。
いつもの私?
それって何?
どんな私なの?
しかしそんな好戦的な言葉は口から出てこなかった。
代わりに出たのは「クリスは私を必要としていない」という弱音だった。
「そんなことありません!」
間を置くこともなく発せられたショーンの言葉は、何故か彼女を叱るようなトーンだ。
けれど、ナターシャは退かない。
「今日も私なしで問題なかった」
「本当にそう思うんですか?」
「うん」
「本当に?」
再度確認するショーンの声は厳しいトーンだ。
しかしナターシャは臆することなく「うん」と肯定する。
その悲壮感を感じさせる幼い返答に、ショーンは拳を作る。
けれどその拳は動くことなく、再度開かれた。同時に、ショーンの気持ちを三分の一も伝えらきれない言葉がナターシャにかけられた。
「桐栖様が、必要のない相手を近くに置くわけがないでしょう」
「でも、クリスは優しいから――」
「どんなに優しくても、桐栖様は必要のない人間は近くに起きません。他の商会会員がここにいますか?」
「でも、それは私に家がないから――」
「それなら隣の家がまるまる空いてますし、他にも商会会員達の為の寮があります」
ショーンは彼女に最後まで言わせることなく、一つ一つ丁寧に否定していく。
「でも、今日は役に立ってない」
「本当にそうですか? 貴女は今日一日中何もしていませんか?」
「してない」
自信を持って彼女はそう言うが、それが真実でないことをショーンは知っている。
「本当に? 今日一日中、桐栖様に危険が及ばないようもせず、桐栖様の心配もしていなかったんですか?」
「それはした。でも、それくらいしかしてない」
その言葉にショーンは微笑むが、彼女はその微笑みの意図がつかめない。
それを察したショーンは彼女に彼女自身の存在意義を教える。
「それが貴女の役割ですよ」
ナターシャはそれでも理解できず「心配するだけが?」と訊ねてしまう。
「桐栖様の心配をして、彼の為にその身を窶すのが貴女の役割です。他の人にはできません」
それでもナターシャが理解できないようなので、ショーンは補足する。
「桐栖様は優秀すぎて、彼のことを心配する人っていないんです」
「……」
ナターシャはやっと、何となくではあるが、理解できた。
桐栖は確かに優秀すぎる。勿論それは魔級の高い低いではない。
彼は一人で何でもできてしまう。魔級が低いのすら、自身で開発した魔学道具で克服してしまうくらいに。
故に、彼を心配する人間というのはいないのだろう。
「けれど、貴女は桐栖様を心配するのでしょう。なら、貴女は必要な人間です」
ショーンはそう言って、彼女に背を向けながら部屋の中に置いてあるワインを手に取り、彼女の立っている戸口まで戻ってきた。
そして「さあ、戻りましょう」と言って、再度ナターシャの手を引くのだった。
それに対してナターシャは手を解かず「やっぱりショーンは嫌い」と憎たらしく言って、共に二階へと戻っていった。
同日同時刻――デボン州、シドモス市内――
高級そうな調度品に囲まれて、褐色肌の男がデスクの後ろで椅子に座っている。
静かな部屋で、立派な机の上に置かれた装飾過多な電話が、自分の存在を主張するように、鳴り響く。その受話器を拾い上げ、男は口を開いた。
「私だ」
低い声が、受話器の中へと投げ込まれる。
そしていくつかの報告が電話の向こう側で為され、それを面白くなさそうに男は聞いている。
「その女は対象の友人で間違いないのか?」
補足説明と共に「そうです」と言われる。
男は少しだけ目を閉じて、考え始めるが、それを見えない電話の相手は何をして良いのか分からなくなり、声を掛けている。
生きているはずのない王族、ウッドヴィル。
男の頭の中でそんな単語が何度も反芻される。
公的に死んだことにされ、本来教授するはずである多くの利益を得られず、それを簒奪した者の末裔がその地位に就いている。
それは私の祖国に似ているな、と男は思った。
彼の国もまた、女と同じ境遇にいる。
そう思えただけで、男はすぐに決断する。
「女は放っておけ。それよりも効果的な人物を捜せ」
電話の相手はやっと声が聞こえて安堵しつつ、その命令を承伏すると次の報告へと移った。
その報告が終盤へと向かうにつれ、男の顔が険しくなっていく。
最後まで聞かなくてもそこまでの報告で理解できた男は、痺れをきらし、結論を先に言う。
「つまり、相手はこちらに気付いている可能性がある、と?」
肯定の言葉が返ってくる。
「分かった」
低い声が再度男の口から発せられると同時に、受話器が置かれ再度静寂が室内に戻る。
「……ふん。極東の腰抜け弱小商会かと思ったら、なかなかだったか」
そう言った男の口は、何故か、喜んでいるように歪んでいた。
同日夜一一時半――桐栖の家――
夜も十一時も過ぎると、宴もたけなわ、どころか死屍累々としていた。
「ま、まんじゅう怖いですわ~」
「うえっぷ……ぼ、僕は胃袋が破裂しそうだよ」
そんなパステル二人を放置して、ショーンとナターシャは余った料理を保存する為に、取り分けていた。
その真下の階で桐栖は、冷蔵庫の中身を整理している。
と言っても、中身はほぼ空なので、彼がやっているのは掃除だ。
どうせ空なのであれば、この機会に中を拭いてしまおうと言って、彼は一人で掃除を始めてしまったのだ。
そんな彼のいるキッチンへと、ショーンが余り物の約半分を持って降りてきた。
「これで半分ですっ!」
ドスン。
そんな効果音を立てて、約十人前くらいの料理が置かれた。
「……結局二十人前くらい残っちゃったんですね」
「五人で十人前食べたと考えれば、それなりに健闘した方だと思いますよ?」
ショーンはそんな感想を言って、再度上へと戻ろうとする。
その背中に、桐栖の声が掛けられる。
「ナターシャの機嫌が良くなったのって、ショーンさんのおかげですよね?」
桐栖は唐突にそんなことを訊ねるが、ショーンもあまり気にせず「気付いていらしたのであれば、ご自分でどうにかすれば良かったのに」と応えた。
「ぼくが原因だったと思いますし、できませんでしたよ、そんなこと」
桐栖もナターシャのことを気に掛けていた。
けれど、この二人はお互いがお互いに何も言えず、自分だけで解決しようとしてしまう。
それを理解しているショーンは「人は話し合うことで喧嘩になることも、分かり合うこともできるのです」と言って、その場を後にした。
その言葉の意味を考え、桐栖はショーンの言いたいことを理解した。
「……つまり『喧嘩を恐れていたら分かり合うこともできませんよ』ってことですか」
ショーンの言っていることは桐栖にも分かる。
けれど、桐栖にとってナターシャは分かり合う必要がなかったのだ。
彼女は自分によく似ている。桐栖はそう、彼女と出会った時に思った。
三ヶ月前に出会った彼女は、桐栖の命令なしでは何もできなかった。
食事をするのも、寝るのも、全て桐栖の『許可』が必要だった。
元々そういう生活だったのだろう。けれど、彼女に『自我』は全くなかった。
けれど、そんな彼女は桐栖にとって『鏡』を見ているようだった。
彼もまた、彼女と同じなのだ。
けれど、幼い頃は違った。
彼は周囲の目がなければすぐに突飛な行動をしてしまう子供だった。
そして、周囲の人間から疎まれた。
そのことに彼自身が気付いたのは、四歳の頃だった。
些細なこと。魔術陣の基本を随分と省略した陣で、兄と同じ魔術を発動させたのだ。
あのときの兄の目、親族の目は桐栖にとって忘れられない。
異形の生物を見るような、畏怖と蔑みが込められた目。
その時から桐栖は、周囲と同じように振る舞うように心がけた。
周りが食べていれば、自分も食べ。
周りが寝ていれば、自分も寝る。
周りが黒だと言えば、黒だという。
そんな生活。他者を基準とし、その基準から逸脱しないようにする。
けれどそうしていると次は「この子は個性がない」と言われてしまった。
『どうすれば良いんだ』桐栖はそう思った。
しかしめげることなく考え抜いた結果、『個性』と『平均』のバランスを見つけた。
そこからは生活が楽になった。
この場合はこうする。けれどこの場合はこうする。
そういった決められたルーチンワークをしていれば、誰も自分を忌避しない。
誰も自分を疎まない。
それも十年以上続け、かなり板に付いてきた。
今では喜怒哀楽の感情でさえ、そのルーチンに組み込まれている。
ただ彼は、『これは本当の自分なのか?』と疑問に思わなくもない。
喜怒哀楽は感じるし、自分の価値観もある。
だがそれは『つくられた』価値と感情だ。『ホンモノ』ではない。
そんな自分と同じように、『本当の自分』を持たないナターシャと出会った。
彼はどこか安心した。『ぼくだけじゃないんだ』と。
しかしそんな彼女は今日、情報屋のテントで『自分で考える』と言った。
これは彼に、驚き以外の何かを感じさせた。
言葉にできる感情は全てルーチンに組み込まれているので、自動的に感じてくれる。
だが今日感じたあの何かを、彼は知らなかった。
寂しさ? 違う。
嫉妬? 違う。
焦燥? 違う。だが、似ていたと彼は思う。
けれど何らかの焦りだったと仮定して、自分は何を焦ったのだろう。
もしナターシャが自分とは違い、人間らしくなっていくのであれば、それは喜ぶべきことだ。
それは『分かっている』。ルーチンにそう組み込まれているのだから。
けれど……。
「置いて行かれるって考えたのかな?」
そうであれば『寂しさ』の方が該当しそうだが、何故か彼にとっては『焦り』の方がしっくりときた。彼は寂しさを感じるよりも、置いて行かれたくないと感じ、焦ったのだ。
それが何を意味するのか、今の彼には分からなかったが、何故か嬉しくなった。
焦ったことが嬉しかった。
だから桐栖は、今度は「置いて行かれないようにしないとな!」と意気込んだのだ。
それを聞いていたナターシャは入ってくるなり、残り半分の料理を置いて、桐栖に抱きつく。
「置いて行かない。だから、置いて行かないで」
切実に放たれたその言葉には主語がなく、誰が誰をと言う点については不明だったが、桐栖には理解できた。だから彼は彼女の頭を撫でながら「分かったよ、約束する」と言った。