
駄文集
第二章――経過――
十一月二十九日(金)正午――倫敦市内カムデン・タウン、桐栖の家――
この日、枩本商会に属する枩本桐栖とナターシャ・グレイズの両名と、ハドン商会をまとめ上げるチャールズ・ハドンは、同じ部屋で調べ物をしていた。
そして部外者ではあるが、桐栖青年の親戚筋にあたる椙本兄妹も、何故か同席していた。
「別に問題ないよ」
とは桐栖の隣に座るチャールズ・ハドンの言だ。
「せめて隣の部屋に行くとかは駄目かな?」
とは枩本桐栖の提案。
「部外者、邪魔。出てけ」
はナターシャ・グレイズの挑発と命令である。
これら全ての言葉は椙本兄妹に対して平等に向けられた言葉だが、椙本征爾自身がこの場に止まりたいわけではないことから、実質的には主に椙本真百合に対して向けられた言葉になる。
対して、その言を真摯に受け止めた(「すいません、ありがとうございます」と「そんなこと言わないでください、桐栖兄様」と言っただけ)椙本真百合は、露骨にそれらの意図を汲み取らずに放置した(ナターシャに対しては「ふんっ」と忌々しそうに息を漏らしただけだが)。
「まあまあ、真百合。僕らがここにいても邪魔になるだけだし、隣の部屋に行こう?」
「征爾さんは邪魔かも知れませんが、真百合は桐栖兄様のお手伝いをしていますので、征爾さんだけ御退出なさってください」
「真百合ーーーー!」
「征爾、うるさい」
「あら、ナターシャさん、初めて意見が合いましたね」
「だってうるさい」
「ナターシャ、征爾をそう邪険に扱わないであげて」
「分かった。……征爾、お茶」
「この家の使用人はナターシャだろっ!?客にお茶汲みを頼むのかよっ!?」
「これも招かれざる客である真百合たちには仕方ないことです。征爾さん、真百合は持って来ていた緑茶でお願い致します」
「真百合までっ!?なんか、僕に対してだけ二人とも対応が雑じゃない?」
「……一応、真百合は手伝ってる。征爾は立ってるだけ。邪魔」
苦しそうに真百合の手伝いを認め、ナターシャはそう言った。
それに対し、真百合は少し驚いたが、ナターシャ自身としては真百合の書類分類能力の高さを買っただけである。
ナターシャとしては、真百合がしている書類分類と整理を自身一人でやる気だったのだが、真百合の内容把握能力は彼女を上回っており、分類された書類の整理をすることに徹することにした。
これは、支部長補佐としての判断でもあるし、桐栖に対して恩義を感じ、最大限の恩返しをしたいと考えている彼女にとっては、自身の手柄より桐栖にとってなにが最善かを考えた末の結果である。
たとえ、それがぽっと出の女(ナターシャにとっては)に手柄を与えるとしても、だ。
それを何となく察した真百合は、単に桐栖の優しさと地位に甘えているだけの現地の女、というナターシャに対する不当な認識(不当どころではないが)を改めることにした。
「ナターシャさん。貴女に対する数々の失礼な言動、申し訳御座いませんでした」
「……別に、良い」
ナターシャも真百合に対する認識を改めようと――。
「でも、桐栖兄様は渡しません」
したが、辞めた。
真百合は敵。これはナターシャの中で不変のものとなった。
しかし、それを見ていた征爾はなにを勘違いしたのか、ナターシャと真百合が仲良くなったと勘違いし、彼女たちが結束するのであれば、と考えお茶を持ってくることにした。
「ハドンさんは紅茶と日本茶、どちらがよろしいですか?」
「あ、いいのかい?んー……なら、折角だし日本茶を頂くよ」
「畏まりました」
そう言って、征爾は部屋を出て行く。
たぶんぼくのお茶はないのだろうな、と考える桐栖をそのままにして。
そして、すぐに四人分(桐栖を除く)のお茶が征爾に煎れられ、それを飲みながらチャールズは訊ねる。
「桐栖、俺の持って来た資料を見て何か思ったことはないか?」
「うん、情報量は増えたからある程度の目星はついたかな」
ショーンに調査を頼んでいた人達も黒っぽいし、と桐栖は続ける。
「ああ、そう言えばちょっと疑問に感じていたんだ」
「ぼくがチャズの資料を見る前に目星を付けていたこと?」
「いや、それはアーサーからの情報があったんだろ。そうじゃなくて、桐栖は俺が資料を見せる前から、断定的に動いていた。それがちょっと不思議でね」
「ああ、そんなこと?」
桐栖は当然のことだとでも言うように、説明をする。
「それは簡単だよ。先月ぼくは、チャズの商会員と一悶着あっただろ?」
「ひともんちゃっ――」
「うるさい」
ナターシャが真百合の口を塞いでいる間に、桐栖は続ける。
「だから、その時点で英国内での取引上、障害となりそうな人達を選出(ピツクアツプ)するために調査をしていたんだ」
「それで、その中にうちの商会員も入っていた、ってことか」
「そう。だから、今回もその人達の背景(バツクグラウンド)からチャズの依頼に該当する人物を挙げているだけなんだ」
そこまで桐栖が話して、説明が終わったと認識したナターシャの手が自身の口から離れた真百合は、質問をする。
「ちなみに、今回のハドンさんの依頼は、どういったものなのですか?」
「真百合っ!」
たとえ親戚筋とはいえ、他商会への依頼内容を訊ねる真百合に苦言を呈すため、征爾は声を荒げたが、依頼主であるチャールズはなんのことでもないようにその依頼内容を教えてしまう。
「それはうちの商会にいる、英国に仇なす目的で活動している会員のピックアップと彼らを追放する手伝いですね」
「っ!?」
返答があることに驚く征爾。
「い、良いんですか?」
と他商会(率直に言って部外者)にそのような自商会の恥部を曝すようなことを言って、という意味で征爾は確認するが、チャールズは気にもせず「勿論ですよ」と応えた。
「ハドン商会が英国の繁栄を目的として設立され、そう活動しているのは征爾も知っているよね?」
「あ、ああ……でも」
「チャズは、その理念のために行動することを誇りに思っているし、実際にそう行動している」
だからその為にした依頼であれば他商会に漏れても、何ら恥じることはないし、隠すことでもないという認識なんだ、と桐栖は補足した。
「でもっ!」
征爾は咄嗟に反論しようとしたが、その理由に関してもある程度理解できた。
それを周知すれば、ハドン商会の評価は上がり、内部にいる意に反する者達には反省を促せる。
勿論、反省せずに逃亡したり何らかの妨害工作を企む輩もいるかも知れないが、そういった者達にはきっちりと制裁を加えればいい。
ハドン商会にはそれほどの権力がある。
だが、とも征爾は考える。
「だが、ハドン商会よりも上回る組織の助力がある者もいるんじゃないのか?」
世界序列一位の商会を凌ぐ組織と言えば、先進国級の政府相当に力を有していることになるが、現在の欧羅巴の情勢として、それがあり得ないとは言えない。
寧ろ、欧羅巴内の各国それぞれに世界序列一位の武器商会にして、英国に献身的に活動する武器商会を妨害する理由はあだろうる。
軍事競争下である今であれば、尚更に。
しかし、その征爾の懸念もあっさりとチャールズに否定される。
「ヨーロッパ各国が敵に回ることはありません。俺の商会はあくまで武器商会です」
「でも、目的が」
「目的は英国の繁栄です。ですが、それは英国に直接敵対する国に武器を卸したりしない、英国を陥れようとする商人を雇用しない程度のものです。現在英国はどことも戦争をしていませんし、戦争の気配が濃厚になりつつあるとは言え、現段階ではどこと、までは誰も予測できません」
「でも、そうなると理念的に問題が、というより限界があるのでは?」
「それは、武器商会である時点で想定済みです」
そして政府からも合意を得ています、とチャールズは続ける。
合意を得ている、ということはつまり、将来敵国になるかも知れない国への武器を卸すことは許されているということになる。
ただ、世界序列一位の商会の商品(武器)はそう安請け合いしても良いものではない。
世界一位であると言うことは、当然、世界一の武器と言うことでもある。
それを自国の民に向けられるということは、国としては不利益しか生まない。
であれば、ハドン商会の取引先を生涯敵に回りそうにない国に限定するべきであると征爾は思う。
だがそれも、今度は桐栖によって否定される。
「征爾。考えても見てよ。武器商会とは言え、敵国の卸した武器を戦争で使うと思う?」
「……」
それは確かにそうだった。
敵国の商会が卸した武器は、敵国が提供した武器と等価値(イコール)だ。
戦争が起こる前は、そのようなことが起こらないと信用もできるが、戦争が近づけば、たとえそれが一抹の不安であっても容認はできない。
偶然の誤作動でさえも、それが敵国が仕込んだ意図的な不具合に見えてしまう。
であれば、そのような事態を招かないためにも敵国の武器を使うことなんてできない。
「実際にドイツとオーストリア=ハンガリーの筆頭商会、世界序列二位のグレイブ商会は両国のスパイを使って、世界各国の武器製造技術を入手しているくらいです」
その情報は征爾にとって初耳だったが、確かに両国から資金的にも人員的にも支援され、世界序列二位まで上り詰めた新興のグレイブ商会がそのようなことをやっていたとしても不思議ではない。
日本にいた頃は何とも感じていなかった(遠くの地ではそのようなことが起こっているのか、程度の認識だった)が、確かに欧羅巴は聞いていた通りの緊張状態になっているようだ、と征爾は認識を改めることにした。
当然、征爾が認識を新たにしたと同時に、もう一人、その認識を更新した者がいた。
「やはり桐栖兄様をこのような危険な地にいさせるわけには行きませんっ!!」
「……あ」
桐栖は征爾に説明しているつもりだったので、真百合がいたことを忘れていた。
真百合は昔から、桐栖にべったりで、彼も真百合を妹のように可愛がり、同時に彼女にとって、良き理解者でもあった。
ただ、桐栖が親族の間で生力や魔術階級が低いことや、幼少期に彼の素行が通常一般的とは言えず、親族間で機械人形のように感情のない子と揶揄されていたのを聞いてしまったことを機に、彼女はまるで桐栖が幼くして失った母の代わりを引き受けたとでもいうように、過保護になってしまった。
桐栖が支部長として渡英する際にも、商会長である桐栖の父や筆頭商会員である長兄に何度も異を唱え、英国行きを阻止しようとしていた。
勿論、その展開を読めていた桐栖は英国へ行く一週間前まで真百合に伝わらないようにしていたので、その異は意味を成さなかったが、もし一週間以上の猶予が彼女にあったら、自身はここにいなかったかも知れないと考えていた。
だから、欧羅巴の情勢を知った真百合がこうして批難してくるのは目に見えていたのだが、そんな真百合に対して誰かが援護してくれるとは思っていなかった。
「それは困ります。彼は俺とハドン商会が責任を持って、安全を保証するので、滞在をご許可頂きたい」
お願い致します、とチャールズは立ち上がって、頭を下げた。
案の定、征爾は世界一の男(商会、という言葉が抜けているが戸惑っているのだろう)に頭を下げさせる妹にあたふたしているし、ナターシャも拳を握ってチャールズを応援している(応援しつつもハドン商会が援助(バツクアツプ)してくれる事実に驚き、目を見開いてもいる)。
桐栖自身は、その言だけでも嬉しかったが、やはり一個人として、真百合に対するその言葉を向けてくれただけに済ませようと考えていた。
援助は確かに桐栖と枩本商会の利になる。
だが、友人としてここまで言ってくれたのに、商人としてそれを利用するのは彼の理念に反する。
取引相手や敵対商会・組織はどうなろうが知ったことではないが、友人という身内であるチャールズにここまで言わせて、更にその好意に甘えるのは桐栖にはできない。
だから、桐栖は心の中で礼を言って、真百合に告げる。
「ここでの仕事は山積みだし、今までの取引相手もいる。ぼくはここで商人として働いているんだ」
そんなぼくから居場所を奪うのか、という意味を込めて、桐栖はそう言うと、真っ直ぐに真百合の目を見る。
「で、でも……」
その後の言葉は続かない。
真百合も、桐栖が日本に帰るのが最善だとは思っていない。
寧ろ、あの親族達がいる日本の方が、桐栖に居場所はないのだ。
それは分かっている。
分かっているが、それは頭での理解だ。
感情では、桐栖に近くにいて欲しい。
彼は、決して一般的な子供ではなかった彼女にとっての良き理解者なのだ。
彼女はいつまでも、桐栖の妹でありたいのだ。
良き理解者(きりす)の友人であり、妹(まゆり)でありたいのだ。
だが、それが我が儘であることは承知している。
だから、彼女は答えを先送りにすることにした。
それが、彼女ができる最大限の譲歩だった。
「し、しばらく、真百合が様子を見て、判断することにします」
問題があれば即帰国ですよと不機嫌を装い、自身の感情を隠しながら、真百合は続けた。
「ありがとうございます、ミス椙本」
「当然」
彼女の意図を察した英国人二人はにこやかに礼を言う。
桐栖も、とりあえずの難を脱し、一安心する。
が、ただ一人、意に沿わない決断に狼狽える者がいた。
「……えっ?い、いつまでここにいるつもりだい?真百合ーーー!!」
そんな一人を無視して、彼らは調査に戻る。
同日正午――バーミンガム市近郊、マフユー・カンブリアの実家――
倫敦のマット宅から約四時間ほど車の振動に揺られ、マット達はカンブリア家邸宅まで来ていた。
「とっおちゃーくっ?」
「ほっんとーにっ!長かったですわっ!」
「ご、ごめん」
物理的な距離に関して文句を言われてもただの人であるマットにはなにもできないが、婚約者(役)であるマリーの機嫌をこれ以上損ねるのは良くないと思い、謝罪する。
だが、マットとしては車内でイリアの隣に座り至極嬉しそうにしていたマリーに何故謝らないといけないのか、と腑に落ちない部分もあった。
「それではマフユー様、こちらに」
ここまでの長距離を、老体ながら運転してくれた老執事がそう言って、邸宅の玄関へと歩を進めている。
その後ろにマット、マリー、イリアの順につく。
そして、それなりに身長のあるマットと同じくらいの老執事、セバスチャン・ホワイトリーが重厚な玄関扉を開くと三人を招き入れる。
マリーやイリアはセバスチャンと初対面ではあるが、老執事の温厚で柔和な雰囲気と表情からか、かなり図々しい態度をとっていた。
「ごっくろー!」
「失礼致しますわ」
まるで取引先のお偉方が招かれたかのような態度のマリーとイリア、そして自身の実家なのに借りてきた猫のように大人しいマットは玄関扉をくぐる。
「あら、誰かと思えば、マフユー(できそこない)じゃない」
玄関口をくぐった先にある間の、右側に備え付けられた階段を下りてくる婦人が、まるで浮浪者が来たとでも言うような声色で言った。
「そ、ソフィー叔母さん、お、お久し、ぶ、振り、で、です」
いつも以上に声を震わせながら、マットは声を絞り出す。
その声を聞いて、満足そうに脂肪のついた顔を歪ませた婦人は「まだ生きていたのね」と言った。まるで、マットが生きていること自体が罪だとでも言うように。
その言動にマリーとイリアは気にせず、ソフィーと呼ばれた婦人を見る。
余分な肉が至る所に付随し、顔も性格と先ほどの言を表すかのように醜悪な見た目である彼女は、しかし衣類だけは高価そうなものを来ており、マリーもイリアも『豚に最高級のカーテンを被せたみたい』という印象を感じた。
「あら、そちらのお二人は?」
豚はさっさと紹介しなさい、とでも言うように、マリー達の紹介をマットに促す。
それに従順に従うマットは「ぼ、僕の、こ、婚約者の、ま、マリー、と、とその友人の、い、イリア、で、です」と、いつもの一人称を僕に変え、紹介した。
「婚約者?あらまぁっ!あのマットに婚約者が?」
へぇーとでも続けそうな言い方で、豚は値踏みするようにマリーをつま先から頭まで、遠慮のない視線をよこす。
勿論、マリーはいつも通り堂々としたもので、そんな無遠慮な視線を気にもせず「マリー・ウッドストックと申します。以後宜しくお願い致します」と礼儀正しい作法で、一礼をする。
しかしそのような完璧な作法の一礼を見ても、豚は「……ウッドストック?貴族じゃないんですのね。そんな家があるとは知りませんでしたわぁ~」と貴族でないことがさも悪いことであるかのように返答した。
それは、ここでウッドヴィルの名前を出さなかったのは無知な叔母はその王族に連なる名前を知らないだろうし、彼女にそれを伝えても意味はないと感じていたからでもあった。
実際に、もとからマットとマリーはウッドヴィルの名前を告げるのはマットの父、現カンブリア家の当主であるロバート・カンブリアのみということを事前に取り決めていたし、ソフィーという叔母の人となりも、マットはマリー達に伝えていた。
「この子は本当に駄目な子でしてねぇ」
幾度となく繰り返されるこの定型句を、だが、マリーは笑顔で「そうなんですのねぇ」とまるで意に介していない。
当然と言えば当然である。
マリーがたとえ婚約者役でなかったとしても、ソフィーの、揚げ足ばかりをとってマットを貶めようとする小話を真に受けるはずがなかった。
それが理解できたのか、それとも暖簾に腕押しをするように受け流すマリーに憤慨したのか、肥えた叔母は「貴族じゃない家にはちょうど良い愚甥かも知れないわね」と吐き捨てて、その場を後にした。
彼女が去ったのを見て、マットは「ま、マリーは貴族どころか王族なのにね」とマリーに叔母の非礼を詫びながら、小声で言った。
「そっんっなーこっとよっりー、まっとっとーのおっとーはどっこー?」
叔母の小話をつまらなそうに聞かずに口笛を吹いていたイリアは、マットがマリーに謝罪したのを聞いて、口笛を止めて、そんなことを聞いてきた。
「ロバート様は現在、書斎にいらっしゃいます」
マット達と一緒に叔母の嫌味を無表情で聞いていたセバスチャンは、そう言って書斎へと案内するため、先を行く。
再度縦一列に並んだマット達は老執事に追随し、一階の奥にある書斎へと向かう。
「ご主人様、マット様がいらっしゃいました」
老執事がそう扉に話しかけると、低い声がその先から返ってきた。
「入れ」
その一言に、マットはつい三ヶ月前まで感じていた父への異父を思い出し、沈鬱な表情を見せる。
だが、三ヶ月前とは違い、今はマリー達がいる。
いつもはおちゃらけて、端的に言ってしまえば馬鹿っぽいマリーではあるが、この時はマットにとって大きな心の支えとなった。
そして、それを裏付けるかのようにマリーはマットの肩に手を置いて「行きますわよ」と一言だけ告げた。
その一言だけで、曇っていたマットの表情は元に戻り、決心をしたようなしっかりとした面持ちで「父さん、入ります」と声を震わせることなく、言った。
同日夕刻――倫敦市内カムデン・タウン、桐栖の家――
調査が進み、夕刻にショーンが桐栖に指示された調査を終え、帰宅する。
「ただ今戻りました」
「ご苦労様です。……どうでした?」
戻ってきたばかりで申し訳ないですが、と調査資料から目を離さずにそう言って、桐栖はショーンに報告を求めた。
それに対して、ショーンは疲れを感じていないのか、寧ろはきはきと調査結果を述べた。
その報告に対し、チャールズとナターシャ、椙本兄妹は手を止めて拝聴したが、当の報告相手である桐栖は特に気にすることもなく資料を見聞している。
「……ということが分かりました」
ショーンの報告が終わると同時に、桐栖は一端資料から目を離し、にこりと微笑んで礼を言う。
「ありがとうございます。では、やはり予想通りという感じですね」
「ええ、そうなります」
そうショーンと桐栖は言葉を交わすが、彼ら以外はその意図が全くもって読めない。
それを理解しているショーンは「よろしいでしょうか?」と桐栖の許可を取ってから、チャールズ達に説明をする。
「桐栖様とアーサーから頂いた助言で本日、私が調査をしていた対象は、ハドン商会の不穏分子を統率していると思われる者達です」
「統率している者がいたのか……」
チャールズは自身の紹介にいた不穏分子達が烏合の衆だと認識していたので、それが統率され、集団として動いていることに少しばかりの衝撃を受けた。
「統率と言っても、活動自体を指示するものではなく、単に利益や行動が被らないようにする寄り合いのようなものです」
チャールズが自身の監督不行届を恥じないように、ショーンはそう言いながら説明を続ける。
「なので、行動指針決めではなく、不定期的に会合を行って自分達の領域を取り決めているようです。そして私が本日調査をしていたのは、その会合の幹事をしている者達です」
「会合日時か場所、分かった?」
「ええ。明日の正午にキングス・クロス駅周辺の宿(ホテル)にて会合が行われるらしいです」
「……明日か。ありがとう、ショーン」
あと桐栖も、とチャールズは続けて隣に座っている桐栖にも礼を言う。
「現時点で選出(リストアツプ)できた商人だけでもうちの(まつもと)商会には障害となる可能性があるから、こちらとしても全力を出させてもらうよ」
「それでも、ありがとう」
チャールズは、桐栖が商人として返答したのに対し、友人として再度礼を言う。
勿論、そのような良き友人関係を見ても、真百合は苦言を呈さずにはいられない。
「桐栖兄様は危険なことをしないでくださいね」
これはその会合を襲撃するという予測の基に呈された注意だが、それに対して桐栖は資料から目を離すことなく真百合を安心させる。
「大丈夫。会合に乗り込む必要ないから」
「乗り込まない?何故?」
「乗り込まないよ。乗り込んでも情報が得られるとは限らないからもっと効果的な手を使う」
桐栖の発言に疑問を感じたナターシャも、安心させるために桐栖はそう言った。
事実、彼は会合に乗り込む必要は一切ないのだから。
その理由をチャールズも聞こうと口を開くが、その前に桐栖が補足した。
「明日の会合は介兄に任せよう」
その後に「僕らが今動くのは良くない」と更に付け足すが、事情が分からないチャールズ達は脳裏に疑問符しか浮かべられなかった。
十一月三十日(土)正午――倫敦市内キングス・クロス駅近辺、某宿(ホテル)――
「お邪魔しますよー……っと、あぶねーあぶねー。宿(ホテル)の扉壊したらさすがに修理費払わないといけなくなっちまう」
先日と同じく、扉を破壊しようとした拳を止めて、襲撃・犯・介次郎はやり直す。
「おっじゃましまーすっ!!」
何となく軽快なかたち(イリアっぽくなってしまったので、これを羞恥・心・介次郎は少し恥たのだが)で扉を開くと、すぐに数十の視線が浴びせられる。
「おーおー、いやがるいやがる。雁首揃えて勢揃いだぜ」
事前にアーサーからもらった出席者一覧(リスト)に入っていた黄金の暁会員がそこには揃っていた。
「えーっと、なんだっけ?……ああ、リチャード?ディック?なんとかにもらった名前でもとりあえず、挙げていくか」
「なんだ貴様はっ!」
会合の指揮を執っているのか、壇上に座していた恰幅が良く、髭を蓄えた中年男性が声を荒げて文句を言った。その態度と、周囲の自身に降りかかる数十の視線から、野生の・勘・介次郎は気付いた。
……ああ、こいつら気付いてねーんだな。
ご愁傷様、と口に出して言いたくなるが、意味も心もない行為をする気はない。
ただ、自分達が何故襲撃されるのかくらいは教えてやろう、と思い、口を開いた。
「ただ今より、黄金の暁会員の皆様には、ご自身が持つ情報を余すことなく吐露して頂きたいと思います」
そう言って、発動・デ・介次郎は左掌の手袋に描かれた魔術陣を床に付け、生力を注ぎ込む。
会場内の人間はその時に至り、やっと自身らがハドン商会の影で行っていることを、この筋肉男に突き止められたと理解し、慌てて会場の外へと出ようと左右に複数ある扉へと駆ける。
「っ!!!」
だが、それらの扉はもう、魔術・師・介次郎の術下だ。
彼は得意な火属性と土属性を融合させ、物理的な結界を作っていたのだ。
見た目は変わらずとも、扉はもう扉ではなく、壁として焦燥している黄金の暁会員達の前に立ちはだかっていた。
「……貴様は、どこの手のものだ?」
唯一、慌てることなく壇上から動かなかった男が、再度調査・官・介次郎に訊ねた。
今度は、彼が誰かという些事は聞かずに、彼の後ろに誰がいるかを訊ねている。
「質問するのは俺……と言いてーところだが、まあ良い。英国と日本の両政府だ」
「となると、聞きたいのは我らのことと言うよりは、クロウリー卿のことか?」
「訊きてーのは全部だよ。そのクロウリーやら、おめーらの組織のことやら、全部だ」
そう言ってしまった失言・デ・介次郎は、しまった、と思った。
何故なら、彼の失言を聞いた男は余裕を取り戻した表情で頷いている。
……やべー。こっちがなにも掴んでねーことばれちまったぜ。
と、一瞬焦りもしたが、すぐに思考を切り替える。
……まあ、やることは変わらねーし。ま、いっか。
「まずは、てめーらの目的から聞かせてもらおうか」
まともな返答が返ってこないのを重々承知で、尋問・デ・介次郎は訊ねる。
「ふむ。私の目的は、自身の利益だ」
中年男性は、余裕層に他の会員にも「貴君らはどうかね?」と話を振る。
「わ、私も自身の利益だ」
「俺もそうだ」
「私も」
「俺も」
同意の声が方々から上がってくる。
……まー、そうだよな。
自身がこの事態を招いたとはいえ、その失態を挽回しなくては調査どころではない。
「あー、あのさ。おたくら、自分達の置かれた状況って理解できてんの?」
「理解できているとも」
余裕そうに、壇上の男は応える。
「君は我らについてなにも知らな――」
「おたくらが黄金の暁会員ってこと以外はな」
「っ!」
「……はー、今頃気付いたのかよ。しかも、俺の依頼主は政府だって言っただろ?おたくらが黄金の暁会員で、政府の依頼を受けた俺がここにいる」
これがどういう結末に繋がるか分かるよな、と脅迫・デ・介次郎は言って睨み付ける。
しかし壇上の男は少しばかり焦りはするが、まだ高を括っているのか往生際が悪い。
「だが、本当に我ら全員が会員だという証拠でもあるのか?」
「なしでここに来ると思うのか?」
実際はないのだが(というより、アーサーとリチャード何某の証言とショーンの調査結果から類推できるくらいの情報しかなく、裏付け調査は桐栖達が行っているので実行・班(犯?)・介次郎は知らない)、そう言って自身を優位に立てないと情報を聞き出せないので、断言した。
そして、更にもう一つだけ、知っている情報をさもそれが掴んだ数ある情報の一つであるかのように、はったり・デ・介次郎は続けた。
「なんなら、この場でおたくらの首飾り(ペンダント)を検分しても良いんだぜ?」
「っ!?」
いや、首飾りじゃなくても良いんだけどな、と続ける前に(首飾りに限定されているか不安・デ・介次郎は知らなかったので)室内の会員達がざわめき始める。
「……分かった。正直に話そう」
ようやく観念したのか、壇上の男はハドン商会を隠れ蓑になにをしていたのかを語り始めた。
室内にいた他の会員達も壇上の男に続き、それぞれが関与していたことを吐露する。
「……これが、我らの知る全てだ」
最後に壇上の男がそう締めた。
「ありがとうよ。おたくらには寛容な処置が成されるよう、俺から伝えておく」
調査・漢・介次郎はそう言って、手帳を右手に収めて、左手の平を再度床に付ける。
沈んだ会員達は、しかし、もう開放された扉に手をかけることなく、その場にへたり込んでいた。
その光景をさして気にせず、調査終了・デ・介次郎は自身の後ろにある扉に手をかけた。
そして、扉が開かれると同時にその階(フロア)は爆発した。
爆風に巻き込まれながら、人生終了・デ・介次郎は思った。
……ああ、桐栖に注意するように言い忘れたわ。
と、リチャード何某が言っていた人物(だれか)が枩本商会を特別視していること。
その内部にいる誰かに対して何かをしようとしていること。
全てはそう思えるだけ、ではあるが。
それを愛しい弟に伝え、注意を促せなかったことは、弟(ブラザー)・偏愛(コンプレツクス)・介次郎の悔いとなった。
同日昼過ぎ(某宿(ホテル)が爆破された頃)――倫敦市内カムデン・タウン、桐栖の家――
連日通り、桐栖達は資料との睨め会いを続けていた。
昨日との相違点としては、ショーンがいることにより、桐栖もお茶を煎れてもらえるようになったことくらいだった。
しかし勿論、調査の進捗はあり、昨日と同じ資料を見ているということはない。
現在は、ナターシャと真百合がその見終わった資料の整理をしており、ショーンと征爾(渋々ながら)がチャールズと桐栖がこれから確認する資料を分類している。
午前九時から開始されたものの、いまだチャールズと桐栖の集中力は続いており、彼ら二人はまだ昼食を摂っていない。
他の四名は、集中する桐栖より「皆さんは先に昼食を食べていてください。ぼくらもすぐに行きます」と騙されて(ショーンはこうなることが想像できたが、チャールズが桐栖をひっぱてきてくれるという淡い希望を抱いていた)、もう既に昼食を食べ終わった。
「桐栖、ちょっとこれを見てくれ」
約二時間ぶりにチャールズの桐栖の間で声が発せられた。
「分かった。その間にチャズはこっちを見てくれ」
桐栖がそう言って、書類の交換が成されるが、会話はもう続かない。
「……ああ桐栖兄様、素敵です」
「それには同意」
何故か集中して彼女達を蔑ろにしているとさえ言える桐栖を見て、女性二人はうっとりとした表情を浮かべている。
それを見て、気にくわない征爾は「あんなののどこが良いんだ」と呟くが、正直に彼らの集中力は羨ましくもあった。
平凡である征爾にはそこまでの集中力はない。持続時間は多くて四十分くらいだ。
そんな征爾を慮ってか、ショーンが「征爾様も素敵ですよ」と言うが、「おべっかは必要ないぞ、ショーン」と征爾は返した。
ショーンは正直に征爾も素敵だと思っていたが、これ以上言ってもおべっかにしか受け取られないと思い、「すいませんでした」と謝る。
実際に、ショーンはこの部屋にいるナターシャ、真百合、征爾、チャールズ、桐栖らを全員同等に尊敬していた。
外見が中性的すぎることもあり、それを気持ち悪がられたり疎まれたり、逆に好意を寄せられすぎることが多かった。それは劣等感(コンプレツクス)となったが、彼らは自身に普通に接してくれている。
それだけでありがたく、そして彼らができた人間であると思っていたのだった。
それ以外にも、ショーンの目には彼らの良いところが多数見えていた。
征爾は志が高く、それに対する努力も怠らない良さを持っている。
真百合は実直で素直で、人を疑わずに他人の良いところを見付ける才能を持っている。
ナターシャも素直で、不器用ではあるが努力の人である。
チャールズとは最近あったばかりだが、幼くして世界一の商会長となったにも関わらず、その性格を歪めず真っ直ぐにあろうと頑張っているのが見える。
桐栖は、そんな良い人間達を惹き付けるものを持っている。
幼少の時は、人間関係で色々あったのに、今もめげずに他人と関わろうとしている。
そんな彼らはやはり、ショーンにとって尊敬すべき人達だし、同時に守らなければいけない人達だと感じていた。
全員が全員魅力的だし、素敵だと感じる。
だからこそ、ショーンは桐栖達に言わなければいけないことがあった。
「お二人とも、作業を一端中断して昼食を摂ってください」
「はい、五分後には」
「五分ではありませんっ!」
「それなら三分後に頂くよ」
チャールズも加わり、時間の交渉を始める。
ただ、ショーンはもとより交渉するつもりはない。
だから、ショーンは桐栖達が見ている資料を取り上げて、彼らの集中力を一端削ぐ。
「あっ」
「あっ」
「あっ、じゃありません。昼食を摂ってきてください」
目の前で奇術師が突然消失したとでも言うかのように唖然とした二人は、同時に「いや、あと少ししてから」と言って書類に手を伸ばすが、ショーンは許さない。
「今、すぐに」
「……はい」
「……分かった」
頑なに譲らないショーンの態度を見て、二人は意気消沈しながら部屋を後にした。
その後、室内ではナターシャと真百合が「ショーンすごいっ」と賛美の声を上げているのが二人には聞こえたが、桐栖達の見解は凄いどころではなく「恐い」だった。
だが、そう感じていてもショーンはきっと昼食を食べ終えるまで室内に入れてくれないだろうという事態が予想できるので、彼らはとぼとぼと二階の食堂(ダイニングルーム)へと向かう。
そして、まるで食べることが苦痛とでも言うようにうんざりとした顔で、ショーンが用意していてくれたサンドイッチを食べながら、チャールズは呟く。
「……君のところの補佐は横暴だね」
「うん、普通に作業を止めてくるんだよ」
「それは……なんというか、複雑だね」
チャールズは、ショーンが彼らの身体を気遣ってのことだということを理解しているが、それでも作業を中止される歯痒さを知っている為、溜め息を吐くようにそう言った。
そこから、なにかを諦めたかのように二人はサンドイッチを食べ続けるが、その途中、桐栖の家に設置された長距離通信機が受信を告げる機械音を鳴らす。
「はい。枩本商会です」
「桐栖様ですかっ!?チャールズ様にお取り次ぎ願いたいのですがっ!」
なにやら切羽詰まったような男性の声が、そう告げるので、チャールズに「チャズに」と伝え、受話器を渡す。
「……チャールズだ。……ああ。……そうか。……それは今どこに?……分かった。頼む」
短いやりとりが行われ、時間にして四分弱くらいで通話は終わった。
そして、受話器を通信機に戻し、振り返ると、チャールズは驚きと申し訳なさが混在した表情を浮かべていた。
「どうかした?」
「ああ……まずは、謝らないといけない」
本当に申し訳ない、とチャールズは頭を下げて謝罪の言葉を述べる。
それは、穴があったら埋まりたい、とも聞こえるような声色で、桐栖は当惑した。
「な、なにがあったんだ?」
チャールズは頭を下げたまま、説明を続ける。
「会合場所が爆破されて、お兄さんが巻き込まれたようだ」
「えっ?」
「それと同時期に、うちの本部に脅迫状と思しき内容の手紙が送られてきていた」
俺がここに来ていた為、その報告が遅れてしまった、と本当に悔やむようにチャールズは言った。
「その脅迫状は、今どこに?」
「ここに届けさせている」
「分かった。じゃあ、これを食べ終わったら調査を続行しないとだ!」
桐栖がそう元気よく言ったので、チャールズは頭を上げて彼を見る。
彼の表情は、しかし、チャールズが予想していた後悔や自責の念を抱いているような暗いものではなく、真剣なものだった。
「それに、介兄が巻き込まれたと言うことは、ぼくらも彼らに近づいていると言うことになる」
「だがっ!……」
君のお兄さんは、とチャールズは続けなかった。いや、続けられなかった。
気丈に振る舞っているのか、それとも商人として割り切ってしまっているのか、判別は付かないが、桐栖は身内の不幸よりも仕事を優先した。
その内心は分からないが、桐栖がそう振る舞っているのであれば自分もそれに付き合わなければいけない。チャールズはそう思わざるを得なかった。
「分かった。では、会合場所周辺を見張らせていた者達に、その爆破を引き起こしたと思われる者を警戒するよう伝えよう」
「ああ、頼んだ!」
そう言って、桐栖は昼食を無表情で、再度食べ始める。
それを見ながら、チャールズは通信機を使って現場にいる人員に指示を出した。
この時点で爆破が起こってから約十五分。
これは、爆破犯が現場から逃げるのに要した時間とほぼ同等だった。
同日夕刻――カンブリア家邸宅、マットの自室――
「マフユー様」
コンコンと扉を叩いて、マットに自室に老執事が入室する。
恭しく一礼をして、老執事は沈鬱な表情をしたマットに笑顔で伝える。
「セバスチャンか。どうしたの?」
「マフユー様方にお会いしたい方々がいらっしゃいます」
「俺……じゃなくて、俺たちか」
「ええ、マフユー様を影ながら支えていらっしゃいました方々です」
それを聞いて、マットはすぐに誰か理解する。
「お祖父様とお祖母様が?」
だが、それに老執事は言葉で応えることなく、頷くだけに止める。
「マリー様とイリア様はもうエントランスホールでお待ちです」
「分かった。すぐに行くよっ!」
先ほどまで昨日の父親との会合結果が上手くいかず、沈んでいたマットは、今は少年のように嬉しそうに駆けて、自室を出て行った。
「お祖父様達が会ってくださるっ!」
駆けながらそう言って、最後の自身の祖父母と会った時を思い出す。
……あれは二年前だったかな。
同じ家に住んでいるのにも関わらず、マットは当代当主や先代当主と会う機会があまりなかった。
正確には、許可が下りなかった。
父である当代当主は、マットと会う気がなかったし、次代当主となるはずだった兄の教育に勤しんでいた為、時間がなかった。
先代当主である祖父とは、父の許可が下りず、会うことが許されなかった。
同時に、祖母とも会うことは許されず、最後に彼らと会ったのは兄の実母、父の正妻だった人の葬式後だった。
十八年という、彼らにとって短い年月かも知れないが、マットにとっては長かったその期間で、マットが自身の祖父母に会えたのは数えるほどしかない。
だが、その度に家族間の愛情、慈しみの感情をマットは彼らから教えられた。
だから、マットは祖父母に会えるのが嬉しかった。
それは、滅多に会えないからだとか、自身を愛してくれるからだとか、ではなく、マットにとって彼らが真に家族と言えるからだった。
家族と会う。
それだけがマットにとっての幸福だった。
そんな幸福感を会う前から感じながら駆けていると、いつの間にか玄関口(エントランスホール)まで来ていたようで、不満そうなマリーといつも通りのイリアがそこにいた。
「遅いですわっ」
「はしってーきったーの?」
「うんっ!」
「なんっかーうっれしっそー?」
「ですわね。昨日の今日でなにが嬉しいんですの?」
そう問われ、マットは急に祖父母に会うことが、と言うのが恥ずかしく感じられ「え、えっと、か、家族に会える、か、から?」と口調がいつも通りに戻ってしまった。
先ほどまでは祖父母と会える嬉しさが優先されていたり、慣れ親しんだセバスチャンとの会話だったりしたので普通に話せていたが、どうやら恥ずかしさから元に戻ってしまったようだ。
だが、マットの「家族に会えるから」という言から、昨日彼の実父と会った彼女達は何となく意図を察した。
彼が『家族』と言うのであれば、それは彼の味方になってくれた人達なのだろう、と。
「それは良かったですわね」
「よかったーねっ!」
「う、うん……じゃ、じゃあ、い、行こうか」
恥ずかしながらもそう言って、祖父母が暮らす別館へとマットはマリー達を案内する。
だが、別館とはいえ、マットの父が暮らす本館と渡り廊下で繋がれているので、差ほど遠くなく、五分も経たずに到着した。
「とっうちゃーっく?」
「う、うん。こ、ここだよ」
そう言いながら、回数は少ないながらも暖かな思い出の詰まったその別館の扉を感慨深く眺めつつ、マットは扉を開く。
「マットっ!!」
「わあっ」
扉を開くと同時に、老婆がマットへと抱きつく。
そして、彼女の後ろに優しそうに微笑んだ老人が佇んでいた。
そのどちらも、マリー達が聞いていた七十代後半という、彼らの年齢からは想像できないくらいに若々しい動きをしているように感じられた。
五秒ほど驚いていたマットも、抱きついてきた老女が自身の祖母であることに気付き、腕を彼女の背後に回し、抱き返す。
「お久しぶりです、お祖母様」
ご健康で何よりです、とマットは言わなかったが、そう言ったように聞こえるほど優しい声色だった。
それを見て、マリーもイリアも優しい表情で二人を見守る。
「これこれメガン。マットのご友人達もいるのだぞ」
老紳士が終わらない抱擁を少しだけ見守った後に、老女にそう言った。
「まあっ!久しぶりに孫に会ったのですからこれくらいは良いでしょう、ネビル」
マットの祖母はマットから惜しむように離れながら、夫に言う。
「お祖父様もご健康で何よりです」
「ああ、マットもな」
祖母のものよりは短い抱擁が交わされ、マットはマリー達に向き直り、祖父母を紹介する。
「こ、こちらが、お、俺の祖父、ね、ネビル・カンブリアで」
「私がその妻の、メガン・カンブリアです」
マットの口調に気にすることなく、祖母メガンは後を続けて自身を紹介する。
そして、マリーとイリアに対し、好奇の視線を向けながら再度口を開く。
「それで、どちらの可愛らしいお嬢様が私の孫になるのかしら?」
「メガン」
ネビルが興味津々としているメガンを制して「立ち話もなんだろう。お茶の用意をしているから、お二人とも老人との会話に少々付き合ってくれ」と言って、マット達を談話室へと案内する。
マリーもイリアも老人が住む家、というものをあまり見たことがないのだが、ネビル達が案内してくれた談話室は、心地よい雰囲気も緩やかに射し込む日差しも、全てがゆったりとした世界として感じられ、好きになれた。
豪奢で煌びやかな本館の空気とは全く違った。
失礼なことを承知で、マリーは『きっとどこのお祖父様お祖母様の家はこのような雰囲気なのですわね』と思った。
自身のドレスにある一つのバラ刺繍を撫でながら、彼女は会えなかった自分の祖父母に思いを馳せた。
「それで、どちらが私の孫になってくださるのかしら?」
お茶を配り終えたメガンは、まるで思春期の女子が友人に好意を寄せている人物を訪ねるかように、二人に質問した。
「私ですわ」
即座にマリーが返答する。
「あらあらまあまあっ!」
「お祖母様、ちょっと落ち着いて」
「そうだぞ、メガン。マットが恥をかいてしまうだろう?」
「こんなに可愛らしい子が私の孫になるのよっ!落ち着いてなんていられないわっ!」
メガンははしゃぐように捲し立てる。
だが、そのように喜んでくれるメガンを見て、マリーは疑問に思う。
「よろしいんですの?」
「勿論、良いに決まっているわっ!」
会ったばかりだというのに、まるでマリーに欠点がないとでも言うようにメガンは反論する(彼女には自身の孫と同じく淡色に染まった、通常とは言えないマリーのドレスが見えていないのかも知れない)。
「でも昨日、マットのお父様には、彼はお兄様の婚約者と婚姻をさせられるとお聞きしましたわ」
疑問に思っていたことを、率直にしかし礼儀正しくマリーは伝えると、メガンとネビルは驚きの表情を露わにする。
それを見て、マット達は彼らがなにも聞いていないことを理解する。
「その話しは聞いていなかった。……もし良かったら詳しく教えてもらえないだろうか?」
ネビルがマット達を見ながら訊ね、先ほどまでの柔和な慈しみの目は、真剣な目へと変わっていた。
「うん……」
そうして、マットは昨日なにがあったのかを語り出した。
十一月二十九日(金)――カンブリア家邸宅、当主の書斎――
「父さん、入ります」
マットはそう言って、扉を開く。
三面を書棚に囲まれ、窓がない故に日中でも電灯が付けられた部屋の中で、五十代の男性が机に向かって書類を処理していた。
扉が開けられても顔すら上げない父親を緊張した面持ちで見つつ、マットは足を踏み入れる。その後ろにマリーとイリアが追随してくれたので、マットは心強く思う。
友人とはいえ、父親の威圧感はそういった簡単なことすらさせないかも知れないと危惧していたのだ。
ただ、一度実家を離れ、同時に先月巻き込まれた事件を経験したマットとしては、案外他人であれば父の威圧感はなんでもないのかも知れない、と客観的に思えるようになってもいた。
とはいえ、他人がどうであれ、マット自身がその威圧感に呑み込まれてしまったら元も子もない。彼は父に伝えないといけないのだ。
『俺はカンブリア家の道具にはならない』と。
たったそれだけのことではあるが、マットにとってはクロックタワー(通称ビッグベン)から飛び降りる方が簡単に思えた。
「その女性二人は誰だ?」
なにを言うか迷っていたマットを見もせずに、マリー達の素性を訊ねる低い声。
「ぼ、僕の友人と婚約者です」
「婚約者?」
そう訊ねながら、やっとマットの父は顔を上げた。
その怪訝な表情を見せたと思ったら、すぐにそれは冷笑へと変わった。
「お前が婚約者を連れてくるとはな」
まるで猿がシェイクスピアのハムレットを書いた、とでも言うように一笑する。
「それで反抗したつもりか?」
奴隷にでも言うかのように、彼はそう冷たく訊ねる。
「い、いえ、これは僕の意思表示です」
「意思表示?」
「ええ、僕はカンブリア家(このいえ)を継ぐつもりはありませんし、傀儡となるつもりもありません」
「……ほう」
マットの一世一代の勇気を振り絞った言葉に、父親は感心するような息を漏らす。
それにより、マットは自身の考えをきちんと伝えられたと思ったが、甘かった。
「それで……言いたいことはそれだけか?」
「えっ」
「お前の気持ちはよく分かった。……だが、いくつか勘違いをしているようなので、それを正してやろう」
マットの父は低い声でマットを訂正していく。
「一つ、お前の意志は関係ない」
「一つ、お前にカンブリア家(このいえ)を継がせるつもりはない」
「一つ、お前は傀儡になる価値もない」
一つ一つ、感情を込めることなく、淡々と言った。
そこに反論の余地はない、とは言わない。
それはもう、明確に提示されていた。
父にとって自分は道具ですらないのだ。
そのことをマットに嫌と言うほど分からせる言葉だった。
だからなのか、付添が一人、声を荒げた。
「貴男は何様のつもりですの?」
「ん?」
ここに来て、やっと視線を向けられたマリーは更に言葉を続ける。
「貴男はマットをなんだと思っていますの?そして、親とは言え、なんの権利があってそのような横暴が許されると思っていますの?」
「マフユー(これ)の婚約者君かな?君もなにか勘違いをしているようだ」
「なにを勘違いしていると言うんです――」
「マフユー(これ)は私がどう扱おうが私の勝手だ」
「だから、その横暴が何故許されると――」
「許されるさ。マフユー(これ)は私の金で生きてきたのだから」
「そんな横暴、許されるはずありませんわっ!」
それにマットは貴男の血を分けた子ですわよ、とマリーは続けるが、マットの父は聞く耳を持たない。
「私の血を分けていようがいまいが、出来損ないはカンブリア家に不要だ」
「出来損ないなんて、なにを基準に言っていますのっ!」
「魔術階級。ただそれだけだ」
「そんな不確定なものでっ!」
「不確定だからこそ、この社会では重要視されている。……君の階級はどれくらいだ?」
「……だ、第七位ネツァク、ですわ」
「ふん、平均的な階級だな。やはり出来損ないにはその程度の相手しか歯牙にかけないか」
「魔術階級がなんだって言うんですのっ!」
「確かに、君がいる世界では、その高い低いは意味を成さないだろう」
「ならっ――」
「だが、私がいる上流の(この)世界では魔術階級が全てだ」
「……」
マットの父が言ったことにマリーは反論できなかった。
それはマリーの魔術階級が低いからではない。
マリーの真の魔術階級が高く、そして王族だからだった。
「持てる者の義務(ノーブル・オブリゲーシヨン)」
そうマットの父が言うように、上流に属する者達はその義務を果たさなければならない。
貴族や王族という立場がほとんど意味を成さなくなってしまった現代に至っても、その心まで没落していない者達はいる。
そしてカンブリア家もまた、その一つだった。
有事の際にはその身をもって下々の者を守る。
それをするには財力だけでは足りない。
いや、逆に財力だけでは守るべき下々の者を危険にさらすことになる。
では、どうすれば良いか。
自身が守れるようになれば良い。
そしてそれは、魔術階級の高さを意味する。
階級が高ければそれに応じた高度な広域魔術が発動できる。
それは人々を守るかも知れないし、外敵を掃討するかも知れない。
「でもっ!」
その後の言葉をマリーは見付けられない。
魔術階級が高い者から同じく高い者が生まれるとは限らない?
魔術階級が低くても使える広域魔術はある?
そのどちらを言っても、貴族のカンブリア家当主には意味を成さないだろう。
現在、軍事力の競争が欧羅巴全土に広がっている。
この状況下で、その力が必要になるとは限らない、とも言えない。
では、自身が王族の出であることを伝えるか?
いや、それも意味はない。
マットの父は、血筋よりも英国と自身の配下である民のことを考えている。
領主制は廃止されたのに、立派な領主として考えている。
「……君は理解力が良いようだ」
一から全部説明しなくて済んだ、と礼を言うマットの父に、マリーはなにも言えなかった。
落ち延びて辛うじて生活をしていたウッドヴィル家より、カンブリア家は英国に貢献しているのだ。
そんな家の当主にとっては、たとえ王族の出であろうとも、マリーは小娘同然だ。
だからマリーが再び無視されて、彼がマットへの指示を出していてもなにもできなかった。
「お前はオリバーの婚約者だったテイラー家の子女と婚約してもらう」
明日には面通しがあるからしっかりとした服装で行け、とマットの父は続け、以降用事はもうないとでも言うように書類に視線を落として作業を再開した。
「……」
「……」
「おっわりー?」
空気を読まないイリアがそう言ったのを合図としたのか、マット達は退出した。
十一月三十日(土)夕刻――カンブリア家邸宅(別館)、談話室――
「……ということがあったんだ」
「……」
「……」
マットの祖父母は、昨日の出来事を一部始終(マリーの素性を隠したまま)聞いて、深刻な面持ちで口を閉ざしてしまった。
再度その話しを聞きながら、マリーは自身ができることはないと痛感した。
意気揚々と走狗堂で計画を言ったのに、その計画は机上の空論だった。
元々、マリーはマットの父が家柄や血筋にこだわる古い種類(タイプ)の貴族だと思っていた。
そのこだわりを利用して、没落王家の血筋として名乗り出て、カンブリア家の資金と政治的な援助を基に、ゆくゆくはマリー自身も起業しようと考えていた。
それは全く持って甘い考えだった。
そしてその誤認は、斯くも明確に示された。
「……ロバート(うちのこ)が失礼な対応をして、申し訳ない」
「いえっ!……貴族の当主として間違ってはおりませんわ」
「そうじゃないわ!そうじゃないの。……貴族の当主として間違っていても、人としては間違っていると思うの。だから、ごめんなさいね」
マリーの否定を、優しく包み込むように、メガンは重ねて謝罪した。
「でっもー、げっんじっつーてっきにー、おっとーさん、まっちがってーないっよー?」
イリアは再度空気を読まずに、発言する。
それは意気消沈しているこの場では、嫌でも非常な現実と相対させる言葉だった。
「そうね。ロバート(かれ)は今まで間違ったことがないの」
一見親馬鹿ともとれる発言だが、メガンの意図は違い、それを汲み取ったネビルが引き継ぐ。
「そうだね。ロバート(あいつ)は間違ったことがないから、今までもこれからも、間違わないという自信を持っている」
「つっまりー、せっとーくはむっりー?」
「難しいでしょうね」
「ああ、でも無理じゃない」
「えっ!?お祖父様、それは?」
「前に一度、ロバート(あいつ)が間違えだと認めたことがあってな」
「そんなことがっ?」
驚いているマットは、その過去一度だけ父が犯した間違いに対しての詳細を訊ねるが、彼の祖父母は言い辛そうにする。
「マット。……気を悪くしないで欲しいの」
「うん?うん!」
一筋の光明が見えたと思っているマットは、軽く同意してしまう。
「……ロバート(あいつ)が間違えだと認めたのは、マット(おまえ)の母との不倫のことだ」
「……えっ?」
「マット。最後まで聞いて」
懇願するように、メガンはマットの手を取り、ネビルに先を促す。
「不倫で生まれたマット(おまえ)は魔術階級が低かった。だから、ロバート(あいつ)はわたし達が用意した血筋も育ちも良いオリバー(おまえのあに)の母との結婚が正しいと思ったんだ」
「そこから、マット(あなた)の母には冷たく当たり、オリバー(あなたのおにいさん)の母には立派な旦那、そして良き父親として接するようになったのよ」
「まっちがっえーをみっとめーるっとー、こうっどーがかっわーる?」
メガン達の話しを聞いて、イリアは纏める。
それにメガンは「ええ、そうよ」と同意するが、マットが先の話をどう感じているのかを知る為か、マットから目を離さない。
特に、イリアとマリーは知らないが、マットの母は精神的な病が原因で、病魔に侵され、命を落としてしまった。
その事実だけでも、マットは父親を憎む理由がある。
復讐を考えても不思議ではないのだ。
そういった考えに至らないか、メガン達は心配している。
「……」
なにを考えているのか分からないイリアを除き、他の者達はマットの言葉を待つ。
マリーを含めた三人がマットの心境を伺うように、一分ほど見つめていると、マットの口が動いた。
「……と、父さんを説得するには、彼の間違えを認識させる必要があるんだね」
「マットっ!」
「大丈夫だよ、お祖母様。……正直、母様が病気で死んでしまった原因が父さんにあるのは許せない。でも、俺がその間違えを認めさせれば、母様の墓にも謝りに行ってくれるんだから」
「マット!ええ、そうよ。そうですともっ!」
「ああ、そうだなっ!」
メガン達は復讐心という名の魔が孫の心に差さなかったことを喜ぶように、マットに抱きついた。
「お祖母様、お祖父様、ちょっと恥ずかしいよ」
マットはそう言いつつも、ゆりかごに揺られる赤子のように安心しきった表情だった。
そして、そんな和める情景を見ながらも、イリアは再度空気を読まずに訊ねる。
「んっでー、どうっやーてっ、まっとのおっとーさんにまっちがいがいをみっとめーさっせるんるん?」
「……イリアさん」
水を差すように発したイリアの言葉に苦言を呈すのかと思いきや、マリーは「可愛いですわっ!」と言葉の中身に関しては聞いていないような賛美を送る。
そんな二人を見ながら、マットは『あー、もううちの家のことなんて考えてすらいないんだろうな、この二人』と思いながら、表情を引き締める。
そして、祖父母に向き直り(ようやく離れてくれた)、マットは訊ねる。
「俺のこの現状を打破する為には、どんなことが一番効果的かな?」
そこからマットとその祖父母達の三人で議論が交わされたが(マリーとイリアはいちゃついていた)、良案は浮かばなかった。
そして別館を辞する時、ネビルはマットに一つの提案をする。
「オリバーに、最後に一度だけ、会ってやってくれ」
と、亡くなったマットの兄の安置場所を教えてくれた。
そして扉を閉じた後、祖父母は敢えてマリーの前では指摘しなかった、彼女のドレスにあった家紋の刺繍に対して感想を言いあった。
「ウッドヴィルのお嬢さんがうちの孫の懇意にしてくれているとはね」
「ええ、驚いたわっ!」
「あちらも色々と大変だろうに」
「そうねぇ……でも、うちの孫もその友達もいるみたいだし、大丈夫じゃないかしら?」
「はは、そうだな。……それにしても、彼女の出自について、あの馬鹿息子(ロバート)は気付いていなかったのか」
「ロバート(あのこ)なら気付いていても気にしなかったでしょうね」
「でも、そうなると一緒にいた変な子(イリア)はボディーガードかなにかだろうか?」
「さあ?」
そう言って、二人は自身らの生活へと戻っていった。
同日夕刻――カンブリア家邸宅、中庭――
「じゃあ、私たちは客室で遊んできますわねー」
おーほっほっほっ、と付け足しながらマリーとイリアは、マットを残して行ってしまった。
その態度に『これはもう、本当に俺の助力する気はないんだな』と確信するマットだった。
助太刀がいなくなり、若干心許ないと感じたマットは、祖父の提案通り、一度兄に会うことにした。
だが、安置所へと向かう筈なのに、少し遠回りするように中庭に至ってやっと、自分が兄と対面することに何らかの躊躇いを感じているのだと気付く。
しかし、マット自身は兄に対してなんの感情もない、という認識だった。
「……違うのかな?」
「なにが違うのかな?」
「っ!?」
独り言に返答があって、マットは狼狽する(地雷を踏んだくらいにあたふたしている)。
しかし、驚いていても、その声がどこから発せられたのかくらいは確認しており、音源地には女性が一人佇んでマットを少し驚いた表情で見つめていた。
自分が驚いている理由は分かるが、相手が驚いている理由が分からず、逆に冷静になれたマットは相手を判別しようとする。
だが、金髪(ブロンド)の長髪で茶色い瞳のその女性が、自身と同年代か年下だということと、彼女が美少女と言われるくらいに可愛いということ以外はなにも分からなかった。
端的に言うと、初対面の相手だった。
「え、ええっと……ど、どど、どちら、さ、さま?」
「っ!?……………………もしかして、マフユーさん?」
「えっ!?」
「あっ、すいません。私はポピィ・テイラー、貴男のお兄様の元婚約者です」
「えっ!?……あ、ああっ!は、はいっ!ま、マフユー、か、カンブリア、で、でです」
「ふふふっ」
マットは初めてあった兄の婚約者に、必要以上に狼狽えながら自己紹介をするが、何故か笑われてしまった。
……こんな喋り方する奴は普通いないから、面白くも感じるか。
と、そう早合点しそうになるマットに訂正する為か、ポピィはすぐに謝罪する。
「すいません!」
そして「マット様が、あまりにもオリバー(お兄様)から聞いていた通りの方だったので」と釈明する。
「に、兄さんが、お、俺のことを?」
「ええ、それはもう毎日のようにお話しくださいました」
マットの脳裏に『何故?』の文字が浮かび上がる。
マットは別段兄と仲良くはなかった。
いや、仲が良い悪いというよりも、関わりがなかった。
顔を合わせるのが食事の時ごとにあるくらいで、精々一日で計三回くらいだ。
その時に会話はほぼないし、あったとしてもそれは兄とマット以外の誰かとだ。
正直、マットには最後に会話をしたのがいつか、どころか、兄と会話したことがあったか、くらいの認識だった。
なのに、その兄の婚約者は『毎日のように』と言う。
「そ、それは、な、なにかの、ま、間違え、じゃ、じゃないかな?」
「いえ、そんなことはありませんよ」
ポピィはそう言って、マットが幼少の時から行ってきた数々の出来事を語り出す。
それはもう、紛れもなく、マットの話しだった。
しかし、恥ずかしいことから誇らしいことまで、まるで見てきたかのように彼女が語るので、マットは制止を掛ける。
「す、ストップストーップっ!」
「ご理解頂けましたか?」
悪戯をした子供のように無邪気な顔で、ポピィははにかむ。
「き、君が、お、俺のことを、よ、よく知っているのは、わ、分かった」
「うーん、聞いていた通りの頑固さんですねぇー」
まるで困ったとでも言うように、腕を組んでそういうポピィは次の悪戯を考えているようにも見え、すぐにマットは撤回した。
「わ、分かった!わ、分かったから、も、もう、や、止め……て、てください」
「んふふぅー。分かればよろしいのですっ!」
何故か両手を腰に当てて、尊大にふんぞり返る彼女が、一瞬マリーと重なって見えたが、それは気のせいだと信じて(信じることで精神を守る)、マットは会話をすることにした。
彼女はマットの婚約者となるかも知れないのだから(マットの父曰く、決定事項だが、マットは足掻くつもり)、話しをして人と態を確かめて損はないと思ったのだ。
「ぽ、ポピィは、に、兄さんと、ま、毎日会っていたの?」
「……」
反応のないポピィを見て、マットは気付く。
彼女は親同士が決めたとは言え、兄の婚約者だったのだ。
そしてそれは幼い頃から決められたことであり、マットはその場にいなかったが、頻繁にあっていること自体は知っていた。
であれば、兄に彼女が婚約者として愛情を感じていてもおかしくないのだ。
むしろ、現在黙っている彼女の表情からして、そう感じていたのだろう。
「ご、ごご、ごめんっ!」
マットはすぐに謝罪する。
彼女は婚約者を亡くしたのだ。
それはきっと、マットが感じている兄の喪失感とは比べものにならないだろう。
しかし、目尻に雫を浮かべただけで済ませた彼女は、「いいえっ!全然大丈夫ですっ!」と気丈に振る舞って、マットの罪悪感を薄めようとしてくれた。
「えーっとですね。毎日会えない時もあったんですけど、会える時間が少しでもあれば、オリバーは私の家まで来てくれていましたよ」
仕事で遅くなって深夜零時前に来た時もありました、と懐かしむように彼女は話した。
……確かに、兄さんはこれと決めたことをやるタイプの人だったような気がする。
そして、それはポピィと毎日会うと言ったのであればそうするだろう、とマットは、あまり知らない自身の兄について知ったかぶってみた。
「そうですね。こんなこともありました」
そう言って、ポピィは兄と彼女が婚約することが決まってから初めて会った頃のことを語り出した。
「それまでに何回か会ってはいたんですが、それまでは父の取引相手の子、という程度の認識だったんです」
「そ、その時なら、ぽ、ポピィも兄さんも子供だったのだから仕方がない、で、でしょ」
「そうですね。私は五歳でオリバー(かれ)は十一歳でした」
……六歳差だったのか。なら、僕よりも一歳年下なんだな。
マットはそんなことを考えながら、話しを聞く。
「父達に、オリバー(かれ)が私の婚約者だと言われ、婚約者の言葉の意味さえしっかりと理解していない私に、オリバー(かれ)はこう言ってくれました」
『ポピィ・ソフィア・テイラー。君は僕が生きる限り君を愛し、幸せにしよう。そして、できることならば君にも僕は愛されたい』
客観的に聞くと、それは何ともきざったらしい婚約の言葉(プロポーズ)だが、昔から勤勉で真面目だったオリバーが言ったことであると考えると、それは何とも真摯な言葉にマットには思えた。
それに、マットはすぐに気付いた。
彼は『できることならば』という願いをそこに込めている。
頭の良い兄は、その年齢にして既に気付いていたようだ。
政略結婚に愛はない、ということに。
だが、彼は愛を求めた。
自身が愛するから、自身を愛してくれ、と簡略化してしまえばそのように換言できる等価交換の提案を、彼は切実に願ったのだ。
だから、だろう。
その時を思い出しているであろうポピィの瞳には、今度は抑えきれないほどの涙が溜まり、あふれ出ている。
「ぐすっ……すいません。ちょっと、だけ、懐かしく、なってしまい、ました」
涙声でそう言われ、兄の等価交換を彼女が受け入れていたことが分かる。
だから、それが慰めになるという傲慢な考えからではなく、自身が知っている兄をマットは言葉にすることにした。
「……お、俺は、じ、実はあまり、に、兄さんのことは、あ、あまり知らないんだけど……に、兄さんが、ゆ、有言実行の人だったってことは、し、知っているんだ」
だから君のことも本当に愛してくれていたんだろうね、とマットは続けた。
しかし、ポピィは同意しつつも、それを否定する。
「ええ、有言実行の人でした。……でも、オリバー(かれ)は一つだけ実行できなかったことがある、と常々言っていました」
そんなことが、とマットは思う。
確かに有言実行を自身に課しているのであれば、一つや二つくらい出来なかったことがあっても不思議ではない。
ただ、兄は違った。
マットにとって兄は、なんでも出来る人物だった。
彼の人格については、あまり言葉を交わしたことがないので知らないが、その実力に関しては叔母や父、他の親族達から嫌と言うほど聞かされた。
些細な仕草から実績となることまで、頼んでもいない数々の比較をされて、マットは貶められてきたのだ。
あまり関わらなかったからこそ、マットは兄の実力に関して必要以上に聞かされた。
やれこれが出来るのにお前は出来ない、それこんな困難を突破したのにお前はなにも出来ない、と、幼い頃からそれは呪詛のように幾度とマットの心を蝕んだ。
一時は兄が憎いとさえ思ったこともあった。
たった五年、生まれるのが速かったから。
たった四つ、魔術階級が上だったから。
たった……。
何度もそう考えた。
しかし、幼き頃のマットでさえ、その『たった』は『たった』ではなく、埋めようのない差だと理解していた。
たとえ速く生まれていても魔術階級は変わらない。
たとえ魔術階級が上でも能力の差は埋まらない。
たとえ……。
現実はマットにとって辛辣だった。
だからこそ、兄が、あの有言実行を実直に楽々とこなす兄が、有言不実行だったことがあるなんて、信じられなかった。
そして、それはポピィの口から伝えられても、信じられなかった。
「……それは、弟(あなた)と仲良くすること、でした」
「……」
内容を聞いても、分からなかった。
理解できない。
兄が自分と仲良くしたかった?
何故?
なんで?
どうして?
数々の疑問符がマットの頭に浮かぶ。
兄はカンブリア家の次期当主で、親族の間でも誇りと呼ばれるくらい優秀で、こんなに可愛い婚約者とも円滑な関係を結べていて、若くして父の事業にも多大に貢献していて、魔術階級も高くて、祖父母にも愛されていて、哀れみの視線を向けられることなんてなくて……。
嫉妬や諦めの混じった尊敬の念が、マットの心をかき混ぜる。
「マフユーさん」
混乱しているマットを心配して、ポピィは声をかける。
「……わ、分からないよ。ど、どうして、に、兄さんが、お、俺なんかと、な、仲良くしたかったのか」
「それは、マフユーさん(あなた)がオリバー(かれ)の弟だから、だとオリバー(かれ)は言っていました」
優しく、慈しむように、ポピィはそう言った。
弟だから。
マットにはそれも、理解できなかった。
確かに、桐栖は兄の介次郎に愛されている。
それは兄弟だからなのか?
じゃあ、兄弟じゃなかったら愛さないのか?
少なくともマットは兄に対して、自身と比較される対象、以上の認識はない。
いなければ良い、とさえ思ったこともある。
兄は違ったのだろうか?
分からない。
けれど、ここでマットの脳裏に祖父からの願いが過ぎる。
『オリバーに、最後に一度だけ、会ってやってくれ』
彼の真意は分からない。
けれど、何故かそれに従わなければいけないような気がした。
死体を見た(あにとあつた)ところでそれが分かるとは思えない。
ただ、会わないと後悔するような気がした。
「お、俺と一緒に、に、兄さんに会いに言って欲しいんだけど……」
「はいっ!ええっ!もちろんですっ!」
まるでオリバーの願いが叶ったとでも言うように、ポピィは喜んで承諾した。
同日夕刻――カンブリア家邸宅、教会――
中庭から三分ほど歩き、小さな教会へマット達は来た。
左右に木製の長椅子が三列ずつあり、その先の壇上には立派な棺が一つ、置かれていた。
棺の先にある着色された窓(ステンドグラス)とマット達がは言ってきた扉からの光しかない為、少し暗い。
これが怪談話(ホラーストーリー)であれば、棺の中から吸血鬼が出てきそうなくらいだ。
だが、マットもポピィもそんな冗談を言うような心境ではない。
ポピィにとっては愛する者。
マットのとっては影ながら愛してくれた者。
その人物が、棺の中にいる。
マット達は暗い教会の中で、歩を進める。
こつこつこつ、と二人の足音のみが反響する。
小さい段を上り、二人はすぐに棺の前に到着した。
段の上に置かれた棺の蓋には、観音開きの小さな扉が取り付けられていた。
位置からして、故人の顔を見る為のもののようだ。
その観音開きにマットは深呼吸をして手をかける。
そして、再度深呼吸をして、開く。
「……兄さん」
「オリバーっ!」
二人は別々の反応をするが、その根源的な感情は何故か同じように見えた。
喪失。
それが両者に感じられる共通の感情だった。
マットも久しぶりに会う兄に、兄弟だから、としか言えないような悲しみを感じた。
これは理屈じゃない。
オリバーがそう感じたように、マットもまた兄弟だから、悲しむ。悔やむ。
情けなく思う。
自身の不甲斐なさに胡座をかいて、自身の兄ともっと対話をしなかった。
もっと積極的に関わろうとしなかった。
兄弟なのに。兄弟、だったのに。
そう思うと、自然、マットは兄に報告をしたくなった。
「兄さんは、俺が倫敦に行ってからのことは知らないと思うけど……」
そう言って、彼は語った。
LSEの授業のこと。初めて出来た桐栖達友人のこと。先月巻き込まれた事件のこと。
ここにまで来てくれたマリーとイリアという友人のこと。
それらの話しを、ポピィは静かに涙を流しながら聞いていた。
そしてマットが話を終えると、彼女は一言だけオリバーに言って扉を閉じた。
「……あ、ありがとう。ぽ、ポピィ」
自身の兄を愛してくれて、とは続けなかった。
しかし、ポピィは察したように「それ以上のものを私はオリバー(かれ)に頂きましたから」と言って、涙を拭った。
「ここにいらっしゃいましたか、ポピィお嬢様」
唐突に、入り口から男が一人、入ってくる。
「アロンっ!?」
ポピィが嫌悪感を隠しもせずに、男の名前を告げる。
だが、男はそんなポピィに慣れているようで、気にした様子もなく、マットを見る。
「ああ、カンブリア家の出来損ない君も一緒でしたか」
「アロンっ!マフユーさんに対して失礼でしょうっ!」
「失礼?いえいえ、これは妥当な対応ですよ」
そう言いながら男は、呆れたような仕草をしつつ、マット達に近づいてくる。
短く整えられた茶髪に、目鼻立ちの整った顔。
しかしその茶色の瞳は、ひどく濁っているようにマットには見えた。
そして、長椅子の最前列まで来ると、身長が高く、体躯もかなり筋肉質であることが紳士服(スーツ)の上からでも分かった。
「それでは、出来損ない君に質問だ」
これに答えられたら出来損ない君呼ばわりは撤回してあげよう、と唐突に言い始める。
「な、なん、で、ですか?」
別に出来損ない呼ばわりは、これが初めてじゃない。
だからマットは大して気にしていなかったが、ポピィが気にしているようなので、期待に応えようと思った。
「カンブリア家はいま窮地に立たされている。これは何故だ?」
「……え、えっと、に、兄さんが、な、亡くなったから」
「うーんっ、惜しくもないっ!全然っ違うねー!」
残念でした、と男は続けるが、正直マットにはその意図が読めない。
「アロンっ!今の質問は曖昧すぎますっ!」
ポピィは抗議するが、それを予想していたのか男は「じゃあ、もっと具体的に」と気にも留めずに次の質問を繰り出す。
「今の自由党政権下で、カンブリア家は貴族院にいまーす。そしてその貴族院は四月に大蔵大臣である、ロイド・ジョージ氏の提出した人民予算を否決しましたー。……これがカンブリア家にどのような状況をもたらしたでしょうか?」
ちなみにロバート氏は否決派にいます、とわざとらしく説明口調で続けて、男は訊ねる。
カンブリア家が貴族院に所属している議員であることはマットも知っていたし、四月に人民予算を否決したことも話題になった(なんでも、貴族院が金銭法案を否決するにはなんでも十七世紀以来らしい)ので知っている。
だが、『人民予算』の内容もそれが可決された場合カンブリア家にどのような影響を与えるかも、いままで一般市民として生活していたマットには想像が付かない。
そして、この解は親族間でつまはじきにされていないとはいえ、家業や政治に関与していないポピィも、同じく分からない。
「そんな政治のことなんて、分かるはずないわっ!」
卑怯よ、とポピィは批難してくれるが、男は気にしない。
「カンブリア家にいるのであれば、そんな言い訳は通用しません」
分かるでしょう、と言外に男はそう言うが、ポピィもマットも彼が、マットが知らないからこそ問うているのだということは理解できている。
であれば、ここは素直に分からないと伝えた方が良いのだろうか、とマットは思う。
しかし、ここには政治に詳しい者がいた。
「人民予算には土地税が含まれ、カンブリア家が所有している広大な土地に多くの税金を払えるわけがなく、事実上所有地が国有化されてしまうからですわっ」
マリーは、さすが王族、とでも言いたくなるような模範解答を男にぶつける。
背後にいるマリーを、男が驚いたように振り返ってしまったので、その解が合っていたのか、間違っていたのかはマットからは分からない。
だが、その後に発せられた声色から、動揺しているのが理解でき、何となくそれが正解だったのだとマットは感じられた。
「き、君は誰かな?」
「あら、相手に訊ねるのであれば、まずはご自身の紹介をするのが礼儀ではなくて?」
そのような最低限の礼儀も知らないのであれば育ちも知れているというものですが、とマリーは続けて自己紹介をする。
「マリー・ウッドストック、ですわ」
「くっ」
屈辱を噛み締めるように男は息を吐くが、すぐに「……ウッドストック?」とその名が政界に関係のないものだと判断したのか、余裕を取り戻す。
「君は、政治に詳しいようだね」
「たしなむ程度ですわ」
「政治の勉強でもしているのかな?」
「ええ、少々」
「そうか。……それで、君はなんでここにいるんだい?」
「そちらにいらっしゃるマットの婚約者としてきましたの」
「……はははっ!婚約者?それはそれはとんだ無駄足だったね」
「ええ、マットのお父様に許可は頂けませんでしたわ」
「それはそうだろ!出来損ない君の婚約者はそこにいるポピィと決まっているんだから!」
「ええ、そう聞いておりますわ」
「それなのに帰りもせずにここに居残っているなんて!図々しいんだか、未練ったらしいんだかっ!」
「私がここに残っているのは、倫敦にマットを連れ帰る為であって、婚約の許可をもらう為ではありませんから、仕方ありませんわ」
「連れ帰る?ははっ、本当になにも知らないんだ!出来損ない君がこの敷地をでることはもうない」
「どういう意味ですの?」
「彼はポピィの婚約者としてこの家に幽閉される。そして、優れたカンブリア家の跡取りを作るだけの種馬となるのさっ」
そんなことも知らないのか、と男は言う。
だが、これに関してはマットもポピィも初耳だった。
「そんなこと、お父様が許すはずありませんっ!」
「許すさ」
なにしろこの俺が進言したんだ、と男が続けると、ポピィは絶望したような表情になる。
しかし、状況が飲み込めないマットは訊ねずにはいられない。
「ぽ、ポピィ、ど、どうしたの?」
「……彼(アロン)は、お父様の側近なんです」
そしてお父様から絶対の信頼を置かれています、とポピィが続ける。
「で、でも、む、娘の方が、そ、側近より――」
「テイラー家はもう子息が望めない。それと同時に、家業である建設業も先細り始めた。……それを全力で補助している俺のほうが娘より価値を見いだされるのは当然のことだ」
もうポピィ(むすめ)には嫁いで家を出ることしかできないからな、と男は続けた。
「そ、それでもっ――」
「それでも、親は娘(こ)の幸せを第一に考えるべき、か?」
男はマットの反論を先回りするように言って、一笑に付す。
「娘の幸せは考えているさ、だからカンブリア家に嫁がせる」
「で、でも――」
「それに、事業主であるアレックス氏は娘以上に考えないといけない者達がいる」
それは雇用者達だ、と男は続ける。
「……の、持てる者の義務(ノーブル・オブリゲーシヨン)」
「分かっているじゃないか。雇用主は労働者達の面倒を見なくてはならない。それは領主や王族、政治家達と同じだ。上に立つものは下々の者の生活を保障しなければならない」
彼はそう言いつつも、自身がそれを信じているような印象をマットは受けなかった。
それは、彼がマットを見下しているからではない。
ただただ、この男は他者を利用しようとしているだけに見えたのだ。
自身の父とは違う、と明確に感じられた。
だから、マットははっきりと問うた。
「貴男はそこからどれほどの利益を得るつもりなんですか?」
その問いに、男は冷静になる。
頭の悪い動物が実はなにかを考えているのが分かった、又は、自身が相手を甘く見すぎていたことを戒めるような、冷たい表情と目をマットに向けて返答する。
「……ふん。カンブリア家とテイラー家の両家を自由に使わせてもらうだけさ」
自由に使う。
それを、自分はこんなに尽くしたのだから当然の分け前だろう、とでも言うように、彼は言った。
まるで、命を救えばその者を奴隷に扱っても良いだろう、と言うように。
だが、そんな下劣な彼の言を聞き、マットは嬉しく思った。
そしてその感情は表層にまで表れてしまったようで、男は怪訝そうに問う。
「なにを笑っている?」
そう言われ、マリーとポピィも気付いた。
マットは笑っていたのだ。
そして笑ったマットは一言だけ、男に告げた。
「ありがとう」
と、ただそれだけ。
主語もなにもない、その言葉の意味は、この場ではマットだけしか分からなかった。