駄文集


蝉の悲鳴

 うだるような暑さ。
 そんな表現がもはや表現とすら言えないくらい、皆が同じ思いをしている。
 けれどもそれはほんとんどの場合において制限された時間内での話だろう。
 徒歩移動する間くらい。
 今は電車や車など、目的の建物以外でも基本的に冷房が効いている。
 そんな無駄なことを考えながら僕は汗水垂らして歩いている。
 勿論、目的地では冷房の効いたところで比喩的に汗水垂らして働くのだが。
 つまり汗水垂らすために汗水垂らしている。
 なんとも皮肉的な話ではないか。
 まあ、そんなことなど関係はない。
 僕は暑さを堪えて駅まで辿り着く。
 何故か最寄駅では多数の木々が近くに植えられている。
 この影響が何を意味しているのか日本人なら、いや日本に住んだことがあるなら分かるだろう。
 そう、蝉だ。
 やつらのミンミンと形容すると多少は愛嬌がある、その鳴き声が野外フェスばりの大音量で耳をつんざく。
 それは駅周辺に住む人間にとっては迷惑以外のなにものでもないと思う。
 そして、それは毎朝暑さを耐えて駅まで出勤と言う、また労働とは違う意味での運動を強いられる行為をこれからしようと言う僕たちにとってもそうだ。
 よく蝉の鳴き声が夏を連想させる、と言う言葉を聞くが、それは全くもって検討違いだと言わせて貰おう。
 蝉の鳴き声が夏のひと時を思い出させるのではなく、それは夏の頃に抱いた季節への苛立ちを想起させるのだ。
 つまり蝉は夏への不平を一身に請け負うために鳴いている、とも言えなくはないだろう。
 暑さは人を感情的にし、短気に、そして短絡的にさせる。
 春や秋のように涼しい季節に蝉が鳴いても特に心は動かない。
 それは理性が働くからだ。
 そして、夏に感じた嫌悪感は思い出として連想できる。
 だから嫌な事をその記憶に、新聞広告のキャッチコピー大フォントで刻む人間は、蝉を、そしてその鳴き声をしかと憶える。
 その多くの時間をひっそりと地下で過ごす蝉には、もしかしたら人間と同じように、憶えてもらいたいという欲求があるのかも知れない。
 しかしそんなことを僕が思えるのは、僕がもう電車の中で冷房の真下にいるからなのかも知れない。
 他人と密着した部分はいまだ熱いが、しかし、もう暑くはない。
 だからなのかも知れない。
 そんな一瞬の気の迷いは、きっと電車から出たらすぐにでも頭の中から蒸発してしまうだろう。
 けれども僕は蝉と言う種族のことは一生忘れないと思う。
 だってあんなにも容姿がグロテスクな生物のこと、忘れたくても忘れられないと僕は確信しているから。